海上保安庁「書架番」異録
棺之夜幟
W-①
海の家でアルバイトをしようと思ったのは、あまり深い考えを持ってのことではなかった。三食付きの住み込みながら期間限定であるためにそこまで他人と交友を持たなくて良いというのが、僕にとって大きなメリットだった。それだけだった。
だから、僕はその海の家のある地域のことなど事前に調べておくだとか、観光案内をするかもしれないだとかは、思考の中になかった。
「ねえ、そこのバイトくん。あそこの灯台の見学って出来る?」
夜の浜辺から見える岬の先端、そこから放たれている光を指さして、その男性客は僕にそう尋ねた。目を丸くして戸惑う僕から、男は視線を逸らさない。一瞬、厨房から出てきたオーナーと目が合う。彼はケラケラと笑っていた。無知な僕を捕まえてしまった、酔っ払いの様子を見て嘲笑を浮かべていたのだ。
お互いに、運が悪いな、と思った。
「河代岬灯台ですか? お兄さん、そういう趣味の人ですか?」
河代岬灯台――――正直、名前だけは知っている。そんな場所だった。この海の家が建つ河代海水浴場を一つの絵として見た時、必ず目に入る白い塔。その存在を観光客から尋ねられることは少なくない。だから、名前と軽い歴史くらいは自然と覚えていた。ただ、アレの見学可否を尋ねる客は初めてだった。
サングラスの映える白い肌と、根元から赤みを見出す髪。全体的に色素の薄いその客は、サングラスの奥からやんちゃ坊主のような弾ける笑顔を浮かべた。
「そんなところ。光り方からして古めのフレネルレンズが現役っぽいから、珍しいと思って」
「フレネルレンズ?」
僕が首を傾げると、男はまた華やかなに唇を鳴らした。
「遠くの海上まで光を届ける灯台のために二〇〇年くらい前に開発されたレンズだよ。円形ガラスの表面が鋸状に波打っていて、その裏面から光を通すことで波打っている箇所で光が複雑に屈折、反射し、広範囲且つ遠距離へ光を届けることが出来る。灯台以外だとカメラに流用されてる。ただメンテナンスの手がかかるもんで、今は光源のLED化と一緒にレンズも変更してる灯台が多くてね。元々使ってたレンズ自体が地震で割れちゃって……ってことも多いみたい。でも光の色合いからして、光源も古いし、レンズも建設当時から変更されていないのかな。ここは聞いてる話だと明治に建設されているらしいし、かなり大事にされてきたんだろうね」
直感で、オタクなんだな、とは思った。それはその場に居る全員が理解していた。しかし、呆れより感心が勝っていた。
「よく知ってるな兄ちゃん。あそこの灯台は観光用にそのレンズを残しているんだ。灯台にしては少し暗い光になっているだろ? 兄ちゃんが言う通り、メンテナンスに手がかかってね、整備が上手くいってないんだ。内部見学も出来るが事前予約制にしているよ」
僕より先に声を上げたのは、オーナーだった。彼はこの土地の水産業で財を成した資産家一族の人で、趣味の一環として夏限定で海の家を運営している。昼間は海水浴客が多く忙しないせいで少しばかり機嫌が悪いが、夜になり地元民の酒飲み客だけになれば、大人しくなる。珍しく夜の海を見る観光客がいれば、こうやって機嫌良く声をかけることも少なくない。
「昔、うちにバイトで来た建築系の学生さんが似たような話をしてくれたけど、アンタもそっち系?」
「建築系ッスか。灯台好きな人、建築やってるの結構居ますよね。俺は水産系ですけど」
水産。とオーナーが反芻する。元々、水産業の経営が本業の人だ。興味が湧くのは必然と言えた。オーナーは客の隣に座ると、彼のコップにビールを注いだ。「おい」と言って手を上げた。僕は厨房からビール瓶と乾いたコップを出した。冷えた瓶の蓋を歯で開けると、オーナーはもう一つのコップにも黄金色の炭酸を注いだ。
「お兄ちゃん、水産の学生さん?」
「院生です。北海道で魚の研究やってます」
「大学院行ってんの? てことは、今、夏休み?」
「いや、北海道の水産の大学院生に夏休みとかクソの欠片ほども無いです。冬になったら変温動物の飼育できなくなるので、本当なら今はコアシーズンです」
「じゃあ何? まさか就活?」
「就活はもっと先ッスね。ポスドク狙ってるんで……今日は調査を手伝いに来てるんです。俺の研究に関係あるやつじゃないんですけど、知り合い伝手に頼まれて。実質バイトみたいなもんですよ」
「調査! 何を調べに来たの?」
ビールを一口の度に通したオーナーが、そう声を上げた。彼のほんのりと赤くなった頬を眺めて、客の男はフッと小さく笑った。その一瞬、何か、背筋に冷たいものが伝う感覚があった。
「神様です。海の神様」
ケラ。と、喉を鳴らして、男はそう笑った。その言葉に、オーナーもまた「そうかあ、神様かあ!」と明るい声を高ぶらせた。
酷く酒の勢いが良い。今日は珍しく酔いの巡りが早い。
僕はもう一人のバイトと目を合わせた。冷たい水の入ったコップを二つ作って、二人の前に置いた。
「あぁ、あんがと」
一転してやけに冷めた声で、男が呟いた。心のこもらないそれでも、無いよりはずっとマシだった。
僕は僅かに口角を上げて、男に向けて「どうも」と置いた。
「お兄ちゃん面白いね。何処泊まってるの? もっと話聞きたいんだけど」
「車中泊なんです。調査の手伝いって言ってもボランティアなんで、金なくて」
男の言葉で、次に展開される場面の予測は付いた。僕はオーナーと男の前に立ち、言葉を待った。
「それならうちに泊まっていくと良いよ! 海の家で働いてる子たちも泊まってるんだ! 部屋に空きがある! 飯も出すよ!」
「いや、それ社宅みたいなものでしょう? 真面目に働きに来てる人たちに悪いですよ」
「じゃあ時間を決めてうちで少し働いてくれないか。神様について調べてるってことは、要するに昔話を聞いたりしたいってことで……地元の人の話なんかも聞きたいだろ? 夜はこの通り、地元民もうちに集まって飲んだりするんだ。必要なら俺が集めて来る。バイトついでに話を聞いても良い。働く時間によっては他の子たちと同じ扱いにして、給料も出せるよ」
「そりゃ、至れり尽くせりで有り難い話ですけど……」
男は狼狽えた様子で、僕の目を見上げた。その意図は、概ね理解出来ていた。僕は苦く笑って、肩をすくめた。こうなったオーナーには何を言っても仕方が無い。全ての言葉を自分の良いように捉えて、自分の望み通りの結果に仕立てようとする。それはその場に居る全員が知っていた。新たな犠牲となった客に同情をしつつも、僕は一種の優越感に浸っていた。
「すみません、お心遣いは本当に有り難いんですけど、地元の人たちにインタビューするだけじゃないんですよ。色々やること指示されていて……なので、こうしましょう。今夜は一宿一飯を有り難く頂戴致します。ただ、明日は隣の港なんかにも行くかもしれないので、それっきりで」
それで勘弁してください。と、男は眉間を八の字に歪めた。そんな彼に渋々と言った表情で、オーナーは「仕方が無い」と呟いた。
そうして、厨房から焼酎とブランデーが消えた頃、赤いタコのようになったオーナーと涼しい顔をした男がふらふらと海の家から出て行った。灯台に照らされながら、二人は確かにオーナーの自宅へと向かっていた。
そんな夜を明かした、翌日のことである。
ドンドンと激しい音を何度もぶつけられて、僕は目を覚ました。それは扉を叩く音だった。
枕元の眼鏡に手をかける。アルバイトに与えられた個室の扉は薄い。衝撃が肌に触れるほど激しいその殴打音に、僕は寝起きの頭で声を上げた。
「はい! わかった! わかったんで叩くの止めてください!」
僕がそう叫ぶと、扉を叩く音は止まった。代わりに、啜り泣くような、鼻水と涎を混ぜた人間の言葉が聞こえた。
「お……おねがい……出てきて……
僕の名を呼ぶその声は、同じアルバイトの宮川の声だった。普段は東京にいる学生で、夏休みを利用して海の家で働きに来たのだ。彼はバイトメンバーの中では最も屈強な身体をしていて、女の酔うに啜り泣く姿など想像も付かなかった。
「どうした宮川くん」
僕がそう尋ねると、扉の前で宮川はボロボロと涙と唾液を垂れ流した。降りかかる体液を弾きながら、彼の頬を叩いた。自衛隊を名乗っても疑われないだろう目の前の男の泣く理由が、怖い夢を見た、なんかじゃないだろう。理由を解するには、彼の動揺を一時的にでも弾き出さなければならなかった。
「オーナーが」
宮川はそう言って、赤くなった頬に触れた。一転して呆けた表情で、力無く彼の口元から言葉が溢れる。
「オーナーの、頭が割れてて」
その言葉と共に、宮川は両手を持ち上げた。
正確には、「両手に抱えたモノ」を、僕の目の前に突きつけた。
半分に叩き割られたスイカ。
だと、直感的に思った。思い込んだ。
だが、鉄釘と生ゴミを混ぜて発酵させたような匂いが、それが甘い瓜ではないことを示していた。
黒い髪の束が疎らになって、頭皮と肉の間に埋まっていた。見え隠れする白い物体は、柔らかいものであれば脂肪、硬く見えるのは骨だろう。見せつけようとする宮川の手が、ゴリゴリミチミチと音を立てて頭蓋骨と頭皮の裂傷を広げていく。しかしいくらその裂け目が大きくなっても、そこに脳と呼べそうな物体は無かった。がらんどうの頭蓋骨の中からは、脳と神経と呼ばれる何か全てが失われていた。
「割れた骨でさあ、手を切っちゃって……消毒液どこにあるかわかんなくなって、それで、あの」
次第に笑みがこぼれ始める宮川の声は、震えを止めた。彼はまるで馬鹿な男子中学生のようにヘラヘラとした態度で、口元を歪めていた。
会話にならない。僕はそこから先の宮川の言葉を捨てて、首から先を重力に委ねるオーナーの、こぼれる眼球を目で追う。引き摺られた彼の身体から出た体液が、廊下に滲んでいた。
「みんなにさあ、聞こうとしたら、みんな無いんだよ、脳味噌。京次郎さん以外」
ふと、宮川がそう言った。彼の言葉に、「は」と短く問いを返そうとした。声が出なかった。詰まる喉が、痛みだけを吐いた。
僕は声の出なくなった喉を押さえながら、宮川の歩いただろう階段へ足を向けた。
階下を階段の上から眺める。
そこには、頭の割れ目から血液だけを垂れ流す従業員たちがいた。
「どうしたら良いかなあ、京次郎さん」
甘えるように声を上げる宮川は、オーナーの頭の裂け目を広げながら、僕をジッと眺めた。
「……とりあえず手を洗えば? 消毒液持ってくるから」
僕はそう言って、階段を降りた。共同部屋の棚に入った消毒液を握って、ソファに座る。トイレから水の流れる音が聞こえた。宮川が手を洗っているらしかった。
寝ぼけ眼の僕は、そうして再び目を瞑った。蝿の羽音が聞こえた。蛆が湧く前に、どうやってこれを片付けるべきかと、ただ、部屋の掃除方法だけを頭に浮かべていた。
海上保安庁「書架番」異録 棺之夜幟 @yotaka_storys
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