第2話
◆
何か、祭りのような騒ぎが聞こえる。
誰もかれもが大声を発している。空気は変に冷たい。それが夜を連想させ、喧騒と合わせるとここは夜祭りの会場かとも思われた。
視界が真っ暗なのは、明かりがないから?
そんな祭りがあるか。僕が目をつむってるだけだ。
まぶたを開けるだけのことにだいぶ苦労したが、まぶたは開いた。
光景は黒から一転して眩しいほどの白になった。どっと空気が肺に流れ込んだような感覚。胸が破裂しそうな気がして、本能のままに咳き込む。
ふいに視界に女性の顔が見えた。というより、顔を覗き込まれたのだ。
「気づかれましたね! 気分は? 苦しいところはありますか?」
いきなりの言葉の連続に、状況を把握できていない僕は起き上がろうとした。それを女性がやや乱暴に押しとどめた。この時になって女性の腕に白い腕章があるのが見えた。白の地に、赤い十字がある。
医者、いや、看護師?
女性が早口でまくし立てた。
「あなたは頭部を強く打っています。手足にも打撲をいくつか負っていて、右足は酷い捻挫で固定してあります。レントゲンを撮ることができないので、あるいはどこか骨折しているかもしれません。痛むところはありますか?」
打撲? 捻挫?
そこまで理解して、自分が階段を駆け下りている時に何かに巻き込まれたと記憶が繋がった。今は何時だ? あれからどれくらいが過ぎた? 階段から今までの、病院に運ばれる間の記憶はごっそりと抜け落ちている。
「私の言っていることは通じていますか? もしもし?」
「え? ああ、聞こえてます」やっと答えることができた。舌がもつれているが、言葉は出る。胸の息苦しさも少しずつ薄れてきた。「確かにそこここが痛むけど、激しい痛みじゃない」
「意識もはっきりしてますね?」
「はい、それは、もちろん」
「では、何かあった時は再び受診してください。立てますか?」
ええ、はい、などと言いながら僕は上体を起こし、やっと周囲の状況が理解できた。
僕が寝かされていたベッドは病室にあるわけではなかった。何度か利用したことのあるダァナ中央病院の一階ロビーだった。ロビーでは大勢の負傷者が治療されていたり、治療を待って座り込んだりしていた。
ベッドを下りると、すぐに次の患者が看護師を示すらしい腕章をつけた別の女性に付き添われて、僕と入れ替わりにベッドに横になった。
僕の左足は確かに固定されていたけど、ギプスなんてものは使われてはいない。何かの雑誌が紐でぐるぐる巻きにして縛り付けられ、それが足首を固定していた。
左足は床についても、さほど痛みはしない。痛み止めでも打たれたのだろうか。そんな雰囲気でもなかったが。
ともかく歩いてロビーを進んでいく。
数え切れないほどの負傷者がすでにそこにいて、さらに何人もがやってくる。意識してみると、屋外では救急車のサイレンが無数に重なり合っている。空襲警報は鳴ってはいないようだ。
外へ出てみると、焦げ臭い匂い、濃密な煙の匂いが僕を包んだ。
ダァナの街のそこかしこから、黒い煙が上がっていた。
そして幾つかの建築物が、無残に破壊されていた。
視線は自然と、僕が生活していたマンションの方に向いた。僕は四階に住んでいた。最上階は十階で、四階の僕の部屋からはダァナ中央病院は見えなかったが、十階からは見えるだろうと何かの折に考えたことがあった。
マンションは、見えた。
見えたが、途中で崩壊していた。上の三階分はごっそりと無くなっていた。
その光景を目の当たりにして、初めて手足が震え始めた。
自分が生きているのが信じられなかった。どうして助かったのだろう。奇跡としか思えない。
また別の負傷者が運び込まれる。一人の少年を男性が抱えてやってきた。少年も男性も埃まみれで全身が真っ白になっていた。
僕は脇へどきながら、病院を離れて市庁舎の方へ歩いた。住んでいたマンションから市庁舎が目と鼻の先だったので、自家用車は持っていない。もっとも、こんな状況では車があっても意味はなかっただろう。
道路は車で混雑している上に、ところどころに崩壊した建物の一部が倒れこんだりしていた。救急車を優先する余裕など誰にもなく、白い車体はランプを明滅させながら他の車と同じく立ち往生していた。
歩道にいる人は、呆然と立ち尽くしているか、走ってどこかへ向かっているかのどちらかで、車で逃げるものと、シェルターに避難するもので分かれている。徒歩で逃げるものはまだ多くないが、大きな荷物を背負ってどこかへ向かうものはいる。
市庁舎が見えてきた。
見えてきて、僕は足を止めた。
一〇〇年以上前に作られたという四階建ての重厚な市庁舎の建物は、ほとんど原形をとどめない瓦礫の山に変わっていた。数え切れない人がその瓦礫の上で作業をしている。何かを掘り出しているのだ。
あるいは、人をか。
僕は思考停止してしまい、見ているしかなかった。
そのうちにその瓦礫の上にいた一人が、危ういバランスで瓦礫を乗り越えてこちらへやってきた。車の列の間を抜けて僕の前に来たその男性は、やはり埃まみれだった。
「ハンマ! おい、大丈夫だったか!」
大声に僕は頷き、相手が誰かを遅れて認識した。
「ユルダ、お前こそ、無事だったのか? 市庁舎は……」
ああ、とユルダが振り返る。
「ミサイル攻撃を受けて、あの有様だ。俺は偶然、外に出るところで巻き込まれなかった。だが、大勢がまだ瓦礫の下だ。指揮するものもいない」
ユルダがそこまで行った時だった、再びサイレンが鳴り始めた。空襲警報である。
行くぞ、とユルダが僕の腕を掴んで、歩き出す。市庁舎の瓦礫の山に集まっていた人々も退避を始める。
地下シェルターを使った避難訓練は何度か経験していた。
そのせいだろうか。現実感が、ほとんどなかった。自分の負傷も、街の有様も、すべてに現実味がない。
シェルターの中で、頭上で重低音が響いて天井からパラパラと塵が落ちてくるまでは。
(続く)
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