存在しない生者

和泉茉樹

第1話

      ◆


 スマートフォンの着信音が鳴っている。

 曖昧な意識のままに僕は音のする方に手を伸ばす。曖昧な覚醒のせいで視界がぼやけ、指が触れたスマートフォンはベッドから落ちたと音でわかった。

 ここに至ってやっと意識がはっきりし始め、僕は鳴り続けるスマートフォンを探るより前に、ベッドサイドの時計を見た。

 まだ四時だった。昨夜のことが思い出される。昨夜というか、つい二時間前のことだ。ここのところ寝つきが悪くて、一週間ほど前に医者から睡眠導入剤を処方してもらったのだ。頭が重く感じるのはそのせいか、それとも絶対的な睡眠不足のせいか。

 時計のバックライトが寝室の明かりのほとんどなので、音声入力で部屋を明るくした。

 まだスマートフォンは鳴り続けている。そのまま留守番電話にしてもいいかと思ったが、のろのろと床から拾い上げ、ベッドに座り直しながら表示を見た。

 相手は同じ職場、ダァナ市庁舎で働く友人のユルダだった。

 こんな時間にどうしたんだ?

 僕は電話を受けた。

「もしもし? ユルダ、僕はさっきベッドに入ったばかりで……」

『ハンマ! さっさと支度をしてこっちへ来い!』

 スマートフォンからの強烈な音に、僕はとっさに耳から端末を遠ざけていた。耳に当て直す。

「なんだ? こっちって、市庁舎のことか?」

『な……!』

 通話の向こうのユルダが息を飲んだのがわかった。僕は何かおかしなことを言ったか?

「ユルダ? 何をそんなに焦っている?」

 僕はやっと何かが起きていることを察して、ベッドから立ち上がった。

 そこへ再び、耳が痛くなるような怒声がぶつけられた。

『お前が寝ている間に大変なことになっているんだ! 国境が突破された!』

 僕が足を止めたのは、ことの重大さを理解したのではなく、何も理解できなかったからだ。

「国境が突破って、何?」

『リューゼス連邦軍だ! 宣戦布告は三十分前だ!』

 聞き逃さずにはっきりと聞き取ったにも関わらず、僕にはすぐには事態が飲み込めなかった。ユルダの声だけが続いている。

『リューゼス連邦軍はすぐそこだ! この街にもミサイル攻撃が予想されている! 市庁舎の職員は全員が集められているんだ! さっさと来い!』

 僕はスマートフォンの出力をスピーカーに切り替え、パジャマを脱ぎ捨て適当な服に着替えた。背広なんか着ている暇はないから運動着だ。

『ダァナ市は国防軍の第十一旅団の指揮中枢になる! 軍との意思疎通でこちらは忙しい! 電話はここまでぞ! みんながみんな、もう動き出しているからな! こっちへ来れば仕事は山ほどある! 早くしろ!』

 僕は返事をしようとした。

 しかしそれを口にすることはなかった。

 唐突に甲高いサイレンが鳴ったかと思うと、合成音声が「空襲警報です、直ちにシェルターに避難してください。空襲警報です、直ちにシェルターに避難してください」と繰り返し始めた。そのあまりの音の大きさに、ユルダが通話を切ったのかどうかもわからなかった。

 スマートフォンを拾い上げ、僕は部屋を飛び出した。その時には他の部屋からも住民が廊下へ姿を見せていた。宣戦布告が明け方だったせいだろう、僕同様、何も知らないものが大半のようだ。

 僕は他の住民をかき分けて階段へ走った。

 駆け下りている最中に、こういう時は非常階段を使うべきか、と思った。

 その思考は高音と低音の入り混じった爆音に塗りつぶされ。

 強烈な衝撃と同時に明かりが消えて周囲が真っ暗になり。

 僕は足を滑らせ。

 それよりも先に壁がなぜか僕に迫ってきて。

 頭の中で火花が散り。

 何も感じなくなった。



(続く)

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2024年12月2日 16:00
2024年12月3日 16:00
2024年12月4日 16:00

存在しない生者 和泉茉樹 @idumimaki

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