第5話 サクラとフジとマリー

 陽に焼けた人懐っこい顔が泰三を覗き込む。


 「私が「犬」の乗り方を教えてやろう、明日の夕方に厩舎まで来なさい‥‥‥」


 泰三のタイ語の発音が可笑しかったのか、マリーは思わず吹き出してしまった。タイ語の発音では「犬」と「馬」がよく似ていて、たいていの外国人は、タイ語を学び始めたころに必ず間違えてしまう発音だ。


 生前のタムから毎日少しずつタイ語の手ほどきを受けていた泰三は、少しずつ日常会話ができるようになり、日ごろの兵舎での会話や、外出の際にタイ人と話す時は、拙いながらもなるべくタイ語で話すようにしていた。しかし、駐屯地内では日本人の上官に叱責されることもあった。


 「佐藤!貴様!日本帝国軍人がタイ語を学ぶなどとはどういう了見か!通訳を使え、馬鹿者!」


 通訳の任務を果たしてくれたタムはもういない。何処へ出向いても、村人と話す時は、いつもタムが泰三の日本語をタイ語に訳して、それが現地の人とのコミュニケーションだった。そのうち、泰三はタムが話すタイ語を聴いて、タイ語の持つ柔らかな音の響きに慣れ、タイ語のイントネーションやアクセントなどについて耳から覚えるようになっていった。


 タムが訳したタイ語を聴いて、自分でもタイ語で復唱してみたり、色んなものを指さして「これはタイ語で何という?」と訊いてみたり、そんな泰三の熱意に、タムも誠意をもってタイ語を教えていたが、あくまでも駐屯地の外にいるときであって、駐屯地内では通訳としての任務に徹した。 


 日に日に泰三のタイ語が上達していき、最近では外出する際には、習った簡単なタイ語で村の人達と会話を楽しむようになった。日本の軍人と言えば、堅苦しい威張った雰囲気があるのだが、泰三の笑顔で話すタイ語が、村人たちには好評だった。


 マリーはその日の仕事を終え、泰三に言われた通り、駐屯地のはずれにある厩舎へ出かけて行った。駐屯地の正門を避けて、駐屯地の横を流れる運河を小舟で漕いで厩舎下の土手を上った。厩舎のある土手には「ラーチャプルック(タイ語で「王様の花」)」があり、鮮やかな黄色い花びらがあたり一帯を照らしている。その樹の下には、のんびりと休息しているような一頭の栗毛色の馬が繋がれていた。


 馬の傍にはいつもの「愛馬進軍歌」を口ずさみながら、丁寧にブラシをかけている泰三がいた。土手の林から現れたマリーにびっくりして、


 「おおお、なんでそんなところから来たんだい? 正門の守衛には言っておいたはずなんだが‥‥‥」


 マリーは少し恥ずかしそうに下を向いてにこりとしながら、


 「だって、正門の前には怖そうな兵隊さんがいたので、こっちの運河を舟で漕いできました」


と運河と自分の小さな木製の舟を指さした。


 「なんだ、そうだったのか、まぁいいか。さぁこちらへ‥‥‥」


 泰三は木の柵を手で開けてマリーを中に入れた。栗毛色の馬はマリーをちらっと見て鼻を鳴らした。


 「『サクラ』っていうんだ、名前は。栗毛の馬なんだけどね」


  そう言って泰三はブラシをかけている栗毛の馬の頸をポンポンと叩いてマリーに紹介した。


 「そして、こちらが「フジ」‥‥‥私の愛馬なんだ」


 マリーには「サクラ」や「フジ」という日本語が理解できなかった。どこかで聞いたことがあるような言葉だが、思い出せずにいた。


 「サクラ…サクラ…、フジ…フジ…」


 「サクラ」と「フジ」を交互に指さしながら小さな声で言ってみる。泰三はブラシの手を止めて、馬の名前の意味を伝えた。


 「桜は日本の国を代表する花のこと、富士は日本一の山‥‥‥」


 泰三は腕で三角を作って、大きく背伸びするように富士山のイメージを表現してマリーを笑わせたが、「サクラ」については、日本の春に咲く美しい桃色の花びらを持つ木、とだけ短く説明をした。日本人が感じる桜にはいろんな意味や情緒があるので、簡単に説明できるものではなく、また、タイ人のマリーに説いたところで理解を求めるのは無理があったからだ。


 泰三は鼻歌を歌いながら「サクラ」に鞍をつけている間、マリーは厩舎の中を歩いて見て廻った。整然とした馬具が決められた位置に整頓されており、通路には藁一本落ちていない。梁の高い壁の位置に日の丸の国旗が掲げられていた。厩舎の掃除を終えた若い兵士が泰三とすれ違いざまに直立し、踵を鳴らして敬礼をして出て行った。


 「馬って細くてかっこいいんですね‥‥‥水牛とは全然違います」


  駐屯地の隅にある馬場まで、二人はたわいもない会話をしながら歩いて行った。そして馬場の中央まで「サクラ」を連れてきて泰三は言った。


 「さぁ、そこの木の椅子を持って来なさい、乗ってみよう」


 言われるままに馬場の隅に掛けてあった木の椅子を持って来て、恐る恐るそれを踏み台にして鞍に上がった。


 「うわぁ、いい眺めです!素敵です!気持ちがいい!」


 マリーはそのままの気持ちをそのままの言葉で表現した。


 「サクラ、こちらはマリーさんだ、どうか宜しく頼むよ‥‥‥」


 「サクラ」の頸を撫でながら少しおどけたように泰三が言った。


 「サクラさん、宜しくお願いします」


 マリーもそれに合わせて「サクラ」の鬣に両手を併せて合掌ワイで挨拶をした。二人の笑い声を聞いたのか、「サクラ」もブルルンと鼻を大きく鳴らした。


 「サクラ」の手綱を掴み、ゆっくりと馬場の中央で円を描くように馬を曳いていく。マリーは鞍の前橋ぜんきょうに手を置いて、「サクラ」の常歩の動きに合わせ身体が前後に動かして、自分の身体と馬体の動きが一体になるのを感じて、大きく馬上で深呼吸をした。


 「サトーさん、とても気持ちがいいです!」


 泰三は「サクラ」に乗ったマリーと歩調を合わせ、時には停止させて、手綱の正しい持ち方や、鞍への座り方、膝や踵の位置を身振り手振りで丁寧に教えていった。


 ふと顔を上げたらマリーが自ら両手で手綱を握り、「サクラ」のしっかりとした常歩に、初めてとは思えないほど綺麗な姿勢で乗っている、まっすぐ前を向き、背筋を伸ばし、両肩を少し広げ、胸を張った姿は泰三を驚かせた。


 「マリーさん、本当に初めて馬に乗るのか?姿勢がとてもいい!」


 マリーは素直な笑顔で泰三にまた手を併せて、”コップクン・カー(ありがとうございます)”と言った。


 熱心に優しく教えてくれる泰三に対して、兄のような温かみを感じながらも、また泰三の凛々しい、威厳のある風情に次第に惹かれていくのだった。


 一方、泰三もマリーが日に日に乗馬が上手くなっていくのを嬉しく思っていた。マリーは仕事が終わったあと、特に商品が午前中に売り切れてしまった日などは、泰三より先に厩舎の柵の外から「サクラ」を眺め、時々近所の畑から人参を数本もらってきては柵越しに与えて泰三を待っていた。


 泰三は駐屯地の兵士や怪我人の診察を終え、いつものように愛馬「フジ」に乗って鉄橋復旧現場の作業員への往診へ行くため厩舎に向かった。


 「今日あたり、マリーを一緒に連れて行ってみようか‥…」 



 往診記録帳を鞄に入れて医務室を出たところで、上官の上田少将に呼び止められた。


 「佐藤軍医、少しお話が‥‥‥私の部屋まで来てください」


 普段は医務関連の業務がほとんどなので、軍部の上官に急に呼ばれたのに少し驚いた。上田少将は執務室へ入ると、ゆっくりと革張りのソファーに腰を下ろし、木製のテーブルの上の煙草を取り火を点けた。


 「佐藤軍医殿、早速で申し訳ないが、ビルマ戦線のための鉄道建設の前線へ行ってくれないか……」


 戦況が悪化してきているとは知っていた。軍部からの配給が減って、日本からの医療物資や薬、日本の米や酒、煙草なども最近では駐屯地へ配給されなくなっていた。日本の軍人たちは上官も含め、ジャスミン米という、炊くとほんのり甘い香りのするタイの米で、日本の米より少し長い粒でタイ人の主食となっているものを食べていた。しかし、タイのジャスミン米を食すには、日本の白米のように粘り気がないため、箸では食べることができず苦労していた者もいた。


 泰三はタイの米が大好きで、タイ人と同じくスプーンとフォークを使って、タイ人が食べるタイ料理を彼らと一緒になって食べていた。また日本酒や日本製の煙草などは、上官たちの嗜好品として執務室の引き出しにこっそりと保管してあり、時々彼らが部屋で酒盛りをしているのをよく目にしていた。


 「はっ。転戦先はどちらでありますか」


 軍の命令は絶対だ。泰三は起立したまま上田少将の顔を正視して尋ねた。上田少将は机の上に地図を広げ、タイとビルマの国境あたりまで建設途中の鉄道の路線を鉛筆でなぞり、大きな河の麓をトントンと叩き鉛筆で丸を描き、上目遣いに泰三を覗き込んだ。鉄道連隊が担う泰緬鉄道の建設現場であった。


 「勿論、戦闘地域に君を送り込むことはできない。ただ、ここから約20キロにある鉄道建設現場では今、突貫工事が行われており、作業隊宿営地では連合軍の西洋人捕虜を使役し、現地のタイ人や出稼ぎのアジアからの人夫を雇用して建設を急いでいるのだが、この暑さと伝染病、そして食糧不足のせいで多くの死人や病人が出ている。日本人の建設技師も数名命を落としている。そこで軍医としての君に、病人の診察や治療を現場の衛生兵と共に活動していただきたい‥‥‥」


 上田少将は戦況が悪化する中、泰緬鉄道の建設を急ぐ軍司令部からの情報を詳しく泰三に伝えた。これまでにも泰三が務める駐屯地にも連合国軍の空襲があり、建設途中の鉄橋や線路が爆撃で破壊され、労働に携わった者の死傷者も多く見てきた。さらに前線の工事現場では、高温多湿なジャングルや頑強な岩盤が作業を拒み、感染力の高いマラリア、コレラ、デング熱などが蔓延し、食料の配給も減り栄養失調など、戦闘よりも熱帯病で死亡する人数の方が多かった。予防薬やワクチンも現地にはほとんど準備がなく、タイの病院から調達できる抗生物質の備蓄も十分でなく、解熱剤程度ではまったく意味がないほど感染状況は深刻化していた。


 泰三は医師としてできる限りのことはやってみようという思いがあったが、反面、自分も熱帯病に罹ってしまうのではないかという不安が脳裏をかすめた。


 「了解であります」


 泰三は上田少将に向かって敬礼をし、そして彼の執務室の隅に置いてある日章旗に向かって頭を下げ部屋を出た。外は少し夕焼け空になっていて、緊張が続いたせいか泰三は「ふぅー」と息をついた。


 「あぁ、馬だ、馬、マリーさん!すまない‥‥‥」 泰三は慌てて厩舎に向かって走った。


 既に陽は落ち、あたりは夕闇に包まれていった…


(続く)

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