第4話 戦火の涙

 けたたましいサイレンの音が村のあちこちから鳴った。 


 鉛色の空の彼方からニッパ椰子の丘を越えて飛んでくる、銀色の怪鳥のような悪名高き英国軍の爆撃機のB-24リベレーターが襲来してきた。泰三の日本軍の駐屯地の脇に、バンコクからの物資を運び込む貨物線路がある。泰緬鉄道建設で日本軍が持ち込んだ、C56型という蒸気機関車がバンコクからの貨車を引いて入線してくるところを、英国軍機に追いつかれ爆撃に見舞われた。


 既に日本の敗戦濃厚な時期となり、バンコクや近郊では連合国軍の空爆もしばしば行われ、建設中の泰緬鉄道の線路や駅、橋、運河を行く物資運搬船などが破壊されるほど戦況は悪化していた。


 英国軍機は、機関車と列車に向けて機銃掃射を放った。貨車に乗っていた日本兵が英国軍機に向けて発砲し応戦するが、二機の機体が旋回し攻撃を繰り返し、貨車の日本兵の数人が撃たれて列車から落ちていく。そのうちの一機から爆弾が投下され、機関車前方の線路を破壊した。


 先頭のC56型機関車は大きな車輪部分が破壊されて脱線し、猛烈な蒸気と黒煙を吐きながら収穫前のサトウキビの畑の中に突っ込んでいき、熱せられた木炭が畑に散らかりもくもくと火が上がった。後方の貨車も蛇のようにねじ曲がり倒れていった。爆撃された車両の前方には、駐屯地へ続く線路が敷かれており、線路に沿って多くの物売りの屋台が並んでいる。先ほどの英国軍機二機は旋回を繰り返し、容赦なく線路に向けて爆弾を落としてきた。 


 人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。線路際に店を出していた数軒の屋台の藁の屋根が、爆弾の威力で吹っ飛んでいく。泰三は咄嗟に身をかがめ、マリーに叫んだ。


 「早くそこから出て逃げろ!」 


 泰三は駐屯地から離れたところにある川の方向を指さした。マリーは商売道具のお菓子の材料や道具を布の鞄に詰めようとしていたが、


 「馬鹿者!そんなものはあとでいいから早く逃げろ!」と大声で怒鳴った。


 泰三がいる駐屯地には兵器や弾薬の保管庫はなく、爆撃による爆発は無かったが、鉄道の建設のための資材倉庫が破壊され、また、建設工事のための設計技師や、兵士の宿泊施設が銃撃を受けて死傷者が出たに違いない。また、駐屯地の横には連合国軍の捕虜収容所があったため、大規模な空爆はせず、収容所周辺の偵察に飛来したのだと思われた。


 一機が旋回し、逃げ惑う人々に向けて無差別に機銃を掃射した。泰三はマリーの腕をぐいっと掴んで、川へと向かってサトウキビ畑の中を疾走した。その後ろで一人の青年がバタッと倒れた。通訳のタムだった。タムは、数人の年老いた村人や子供たちを励ましながら泰三の後を追っていたが、英国機が数十メートルの頭上を掠め狙い撃ちされたのだろうか、タムは畑の畦道にうつ伏せに倒れた。


 「タムさん!タムさん!しっかりしろ!」 


 川を目の前にした地点で銃撃ににあった。泰三は掴んでいたマリーの腕を離し、


 「川岸の林に隠れろ、さぁ早く行け!」


 泰三はマリーを突き飛ばし、タムの元へ急いで戻った。


 「大丈夫か、立てるか!」


 抱き起すと褐色の制服が真っ赤な血で染まっている。


 「佐藤さん、みんなを連れて早く逃げてください、またあの戦闘機が戻ってきます」


 タムは背中に数か所の銃弾を受けて瀕死の状態だったが、力を振り絞ってそう言った。


 「駐屯地の医務室に連れて行く、さぁ、立て…」


 「私は大丈夫です…早くみんなを…」 


 タムの声が小さくなっていく。


 「佐藤さん、私は佐藤さんや日本の人達と働けて嬉しかったです。みんな優しかった、良い人ばかりでした。日本語が上手くなれたのも佐藤さんのおかげです…ありがとう‥‥ございます」


 「私は日本へ行くのが夢でした…富士山に登って、桜の木の下でお酒を飲んだり‥‥そうだ、餅、大福餅も食べたい…佐藤さんと一緒に‥‥‥」


 「この戦争が終わったら一緒に日本へ行こう、桜も富士も自分の目で見ればいい!」


 タムが抱いていた日本への夢を思い返した。泰三の両腕に抱えられたタムの大きな二重の眼がゆっくりと閉じていく。泰三の頬を涙が止めどなく流れ出し、なぜこの希望に満ちたタイ人の青年が死ななければならないのか、軍医であるにも関わらず彼の命を救えない悔しさが込み上げてきた。


 鉛色の空に轟音を響かせながら英国機は雲の彼方へ消えていった。雷鳴がすぐ近くで轟き、泰三は我に返りマリーが逃げ込んだ土手の林へ駆けた。


 「マリー!何処だ、怪我は無いか」 


 返事がなく泰三は林の中を探し回った。


 「おい、返事をしろ!何処にいるんだ!」


 命からがら林に逃げ込んだ数人の村人は、幸いにもかすり傷程度だった。泰三は草の上に息を切らして倒れているタイ人の男性を一人一人診ていき、誰も命に別状はないようなので安心した。少し奥まったところにマリーが木にもたれ唸っていた。肩を銃弾が掠めたのか右腕が血に染まっている。倒れて気を失っていたようだが、泰三が頬を叩くと正気付いて、


 「佐藤さん…助けに来てくれたのですね」


 「とにかく、駐屯地の医務室へ行こう、なにか治療できるかもしれない、さぁ」


 マリーを抱き起こし、歩ける人は全員駐屯地まで向かうよう泰三が声を張り上げた。村人の一人が泰三に向かって、


 「お前たちのせいだ!俺たちの国から早く出て行ってくれ!」


 命からがら逃げてきた他の村人たちもそれに続いた。


 「日本はもう負けるんだよ、戦争はうんざりだ!」


 本当にそうだ、こんな愚かな戦争でこの国の人までも巻き添えにしたくない。確かに日本は負けるかもしれない、一刻も早く戦争が終わってこの国に平和が戻ることを祈っている、しかし、日本軍人としてその思いは誰にも明かすことはできない、泰三の心は底知れない戦争への憎しみと悔しさに溢れていた。


 泰三は彼らの罵声を背中に受けながらも、マリーを抱えて駐屯地の医務室へ歩き出した。爆撃機の轟音が小さくなっていき泰三は急に力が抜けて地に膝をつき、はっと息をついた。


 駐屯地へ引き込まれている貨物線の線路は蛇のように曲がっており、資材を運搬していたC56型蒸気機関車は、破壊された黒い胴体から白い蒸気をしゅーしゅーと不自然に吹き出しながら、サトウキビ畑に横向けに倒れていた。まるで巨大な黒い馬が行き絶え絶えに横たわっているようだ。


 燃えた木炭が引火したのだろう、周囲の枯れたサトウキビに引火して黒い煙を上げている。駐屯地の前まで来ると、数人のタイ人と日本人の門兵が泰三とマリーに向かって走ってきた。彼らの顔は煤だらけで黒く、ところどころに傷を負って血が滲んでいる。


 「佐藤さん、大丈夫ですか?お怪我は無いですか?」


 一人の若いタイ人の門兵が心配そうに尋ねた。


 「ありがとう、私は大丈夫です、早く彼女の手当をしてあげてください!」 


タイ人の門兵はマリーの身体を担いで門に向かって歩みだした時、


 「オイ、待て!そいつはタイ人だぞ!なぜ助ける、馬鹿者!」


 軍刀を抜いて振り上げながら一人の日本人士官が叫び、タイ人の門兵を蹴り飛ばした。


 脇腹を蹴られて唸っているタイ人の門兵を庇いながら、泰三は日本人士官を殴り飛ばした。よろけた下士官は殴られた意味がわからない顔をして、


 「なぜですか!なぜタイ人を助けなければならないのですか、こいつは日本人じゃありません!」


 胸を張って言い放つ下士官の顔に向かって泰三はさらに一発殴った。


 「馬鹿者は貴様だ!タイ人であろうと負傷した者を助けるのが医者の役目だ、さっさと医務室に運べ!」


 この日本の門兵の態度は泰三に言葉にできない憤りを感じさせた。


 当時の日本とタイの間には「共同作戦ニ関スル協定」が結ばれており、両国軍は共同で作戦を行っており、日本はタイ国土の防衛に支援をするという友好関係を保っていたが、軍部の中にはアジア域内の同盟国の現地兵士や住民に対して優越的な態度や威圧的な蔑んだ行動をとる者もいた。


 泰三はこの戦争はアジアの平和と秩序を取り戻し、安心して暮らせる社会の創造のためだと思っていた。そのためにはこの戦争の渦中で、自分に何ができるか、医者として何ができるかを追い求めてきたつもりでいた。せめて駐屯する日本軍へ支援を続けてくれるタイの人達へは敬意を以て接しなければならない、大切な同胞、協力者なのだ。


 泰三は、マリーを駐屯地の医務室で急ぎ手当てをした。幸いにも医務室のある建物は大きな損壊を免れ、他の負傷者の治療ができたこと、そして泰三が駐屯地内の厩舎に飼っていた、二頭の馬も無事だったことが何より嬉しかった。


 「おお、お前達も無事だったか…よかった、よかった、よしよし!」


 日本人やタイ人の負傷者の治療を終えて、泰三は厩舎に足を運び、まだ爆撃の衝撃で怯えている二頭の馬を優しく撫でてやった。


 泰三の日本の実家は富士山の麓の湖畔にある小さな農家だった。静かな水面と豊かな自然に囲まれた長閑な農村の生まれの泰三は、農作業の季節になると、馬に耕運機を曳かせ畑の土を耕す光景をよく見ていた。大人たちは時々近所の子供たちを呼んで、収穫の季節に作業を手伝わせた。


 そのご褒美として、農村にある唯一の餅屋で売られている大福餅を一つずつもらい、大人たちは子供を馬に乗せて近くの林へ連れて行ってやった。戦前の日本の田舎では米や小豆も豊富に収穫できたので、大福餅は大きくて中には美味しい粒餡がたっぷり入っていて、泰三はその大福餅を目当てに大人の農作業を頻繁に手伝っていた。泰三は特に甘い粒餡が大好物で餅屋の前を通る時は、餅と小豆の香ばしい香りだけで幸せな気分になるのだった。 


 泰三は一人で馬に乗れるようになると、農作業が終わった馬を借りて湖畔の浜辺を散歩したり、裏山の森を駈けたり、馬は親しい友達のような遊び相手となっていた。


 陸軍軍医学校を卒業して軍医としての修練を積みながらも、馬術を磨き軍隊内でもその腕前が知れ渡るほどの存在となっていた。タイの駐屯地に赴任してからも、日本人やタイ人の部下たちにも乗馬を教えたりしていた。馬と言っても軍馬として飼われているのでなく、近くの村人の厩舎から借りてきた小柄なタイ産の馬で、駐屯地の運動場の隅に囲いを作って、非番や遠出の際に乗ったり、仕事の足としてとても可愛がっていた。


 泰三は当時流行っていた軍歌「愛馬進軍歌」という、軍馬を戦友として愛情を込めた歌詞が気に入り、馬にブラシをかけながらよく口ずさんでいた。1932年にアメリカのロスアンゼルス・オリンピックで馬術障害飛越競技で唯一の金メダルを獲得した、「バロン西」の愛称で呼ばれた陸軍大佐の西竹一を心から尊敬していた。


 ”お前の背に日の丸を 立てて入場この凱歌 

     兵に劣らぬ天晴あっぱれの 勲いさおは永く忘れぬぞ”


 普段はタムを連れて歩いて村の中を歩いていたが、隣の村や少し遠出をする場合は必ず馬に跨って行動していた。そのためタムも乗馬が好きになり、泰三と共に馬に乗って外出するのをいつも楽しみにしていた。


 タムの遺体は、彼の家族や軍の関係者によって、村の大きなお寺で法要が手厚く行われた。泰三はタムが乗っていた馬を曳いて葬儀に参列した。袈裟を着た数人の僧侶の読経が境内に響き渡るなか、タムの親族や駐屯勤務の同僚のタイ人の士官や、彼をよく知る村人たちで厳かに行われていた。一人の年配の女性が泰三の前に現れてタイ人の合掌ワイをして泰三に挨拶をした。


 「タムの母親のマリワンと申します。タムを助けようとしてくださりありがとうございました。最後に日本人のあなたに看取られて息子は幸せだったと思います‥‥‥」


 「・・・・・・・」


 「息子は日本という国が大好きでした。憧れの国でした。家にいるときもいつも佐藤さんや日本のことを楽しく聞かせてくれました。本当に息子は佐藤さんたち、日本の人達と一緒に仕事ができたことを誇りにしていました。私は日本や日本人を怨みません、ただこの戦争が憎いだけです。一日も早くこの戦争が終わることを願っています、タムもきっとそう言うと思います」


 泰三は言葉に詰まった。


 日本軍、いや我々がここに駐屯しなければタムが死ぬことはなかったはずだ、この愚かな戦争のために、タイの未来ある青年を死なせてしまった後悔と無念さが心を諫めた。泰三はタムの母親、マリワンの言葉を聞いて涙が止まらず頬を流れた。


 「私が死ぬべきでした‥‥‥本当に申し訳ない」


 それだけ返すのが精一杯で、タムの母親に向かって深々と頭を下げた。


 「あなたは死なないで‥‥‥医者としてみんなを助けてください」


 マリワンは息子の遺影に手を合わせ、涙を拭いながらも優しい微笑みを浮かべ言った。そして泰三に向かって合掌ワイをして歩き去った。


 一方、マリーの傷は日に日によくなって顔色もよくなり、人懐っこい笑顔を時々周囲の人に見せるようになった。爆撃のせいで、店の藁葺きのテントやお菓子の調理台が吹き飛んでしまったのを、彼女は痛む腕を抑えながら、一つ一つ片付けていた。通りの店主たちも徐々に戻ってきて、自分の店を立て直して野菜や日干しの川魚などを並べ、いつも通りの賑やかな声が聞こえ始めた。


 泰三は、村人や爆撃の被害が気になり、タイ人の下士官と共に外出していた。マリーと彼女の店が気になり歩いて行くと、餅を蒸かすほんのりと甘い香りと、爆風で切り裂かれたのであろう、ボロボロになった屋根の焼けた藁の匂いが同時に漂ってきた。マリーを見つけた泰三は店の前にすっと立った。マリーは額に汗を流しながら、慌ただしく壊れた椅子や調理台に向かい、ぶつぶつと独り言を言いながら人の気配に気づいてはっとした。泰三はマリーの店の前に立って笑顔で話しかけた。


 「傷の具合はどうですか、もう大丈夫ですか?」


 泰三の治療で大事に至らなかったのが不幸中の幸いだった。負傷した右腕をぎこちなく、ゆっくりと挙げて言った。


 「佐藤さんのお陰でこんなによくなりました」


 その時に右の手のひらに掴んでいた粒餡が零れ落ち、マリーの頬について二人は大きな笑い声を上げた。


 「上等、上等!」


 恥ずかし気に笑う彼女の褐色の顔に真っ白い八重歯が、まるで南国の椰子の木の合間から照らす、太陽の木漏れ日のように愛らしい。泰三はにやけた顔を悟られないように、わざと眉間に皺を寄せて厳しい顔つきをしてみせた。それを見てまたマリーが笑った。


 「マリー、馬に乗ったことはあるか?」


 突然の泰三の問いに驚いて、泰三が何を訊いたのかも分からなかった。


 「馬、馬ですか?」


 「そうだ、馬だ、馬に乗ったことはあるか?」


 「馬はないけど…水牛なら幼い頃に乗って遊んだことがあります‥‥‥」


 マリーの実家の裏には大きな水田があり、当時ほとんどの地方の農家には、現代のように原動機付きのトラクターなどは無かった時代で、農耕用として水牛が飼養されていた。タイの農村地域では、伝統的に水牛を家畜として飼っており、農家の生活や収入源ともなっていた。マリーの実家にも大きな水牛が三頭おり、幼い頃から農作業の合間に水牛に乗って遊んだりして、家族の一員のような存在でもあった。馬については彼女の実家の近くに馬を飼っている厩舎があって、馬はそこで見かける程度だったし、まして馬に乗ることなど予想もしなかった。


 「ははは、水牛か‥‥それは楽しそうだな、でも馬はもっと楽しいぞ!」


 泰三は、よく一緒に外乗に出掛けた、タムの馬に乗ってもらいたい気持ちがあった。タムの死は大きな心の傷となって、厩舎で彼の馬を世話する度に寂しさが増してくるのだった。 


 「馬が一頭いるんだ、タムの馬がね‥‥大福餅を作ってくれたお礼に、キミに乗ってもらいたいんだが‥‥」


 穏やかで優しい口調で泰三は彼女に話しかけた。水牛には乗ったことがあるが、これまで馬には一度も乗ったことがなかったマリーは少し戸惑ったが、日本の餅の作り方を親切に優しく教えてくれた泰三の誘いを断りたくはなかった。


 「佐藤さんが教えてくださるのなら‥‥‥」


 泰三の日本の軍人らしからぬ心遣いと穏やかな笑顔が、今は亡き兄の面影を想い起こさずにはいられなかった……


(続く)

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