第5話 種子島時堯伝
享禄元年(1528年)、種子島氏第13代島主・種子島恵時の子として、時堯(ときたか)は誕生した。恵時は戦国時代の波乱の中、島津家との同盟や種子島の安定を保つため尽力していたが、時堯が16歳を迎えた天文12年(1543年)、日本の運命を変える出来事が発生する。
それは、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着したことに端を発する。南蛮商人たちは、鉄製の武器—鉄砲—を持ち込んでいた。時堯は、商人たちの見世物として行われた鉄砲の射撃の威力を目の当たりにし、その驚異的な破壊力に深く感銘を受けた。
「これこそ、戦を支配する新たな力だ」と時堯は確信し、鉄砲を二挺購入することを決意する。
そのうち一挺は鍛冶職人八板金兵衛に渡され、日本製の銃を作り上げるよう命じた。金兵衛は数ヶ月の間、試行錯誤を繰り返し、ついに日本人の手による鉄砲を完成させた。この鉄砲は後に「種子島銃」と呼ばれ、戦国の日本に革命をもたらすことになる。
時堯が家督を継ぐと、島津家との関係が重要な局面を迎える。時堯は、島津忠良の娘を娶り、島津貴久に従い、大隅国攻めに参加することとなった。弘治元年(1555年)、時堯は島津軍とともに大隅国を攻め立て、戦場に立つ。
大隅国攻めの戦闘シーン
時堯率いる種子島軍は、島津軍の支援を受けて、大隅国に向けて出陣した。大隅国は、島津氏の敵対勢力が拠点とする地であり、その征服は島津家にとっても戦略的に重要であった。
戦の前夜、時堯は兵士たちに鉄砲の使い方を教える。新たな兵器に驚きつつも、鉄砲を使いこなせる者は少ない。だが時堯は冷静に指示を出し、彼の軍は次第にその威力を理解し始めた。
「鉄砲の音を聞けば、敵は一瞬にして動揺する。その隙を突け」と、時堯は部下に伝えた。
戦闘は猛然と展開した。島津軍と連携しながら、時堯は鉄砲を駆使して敵軍を撃退していく。銃声が鳴り響き、敵軍はその破壊力に恐れをなす。鉄砲による遠距離攻撃は、戦局を一変させ、時堯の軍は次々と敵陣を突破する。
その後の戦闘でも、鉄砲はその威力を示し、時堯はその使用を徹底した。戦場での彼の姿は、まるで新たな戦の神のように映ったという。
時堯の戦闘が続く中、私生活では波乱が巻き起こる。島津家との繋がりを深めるために、時堯は島津忠良の娘を妻として迎えた。しかし、島津家と争っていた禰寝氏からも一人の姫を迎え、密かに側室として迎え入れる。
その姫との間には男子が生まれたが、時堯はそのことを隠し通すことを決めた。だが、時堯の正室はこの秘密を知り、激怒して娘二人を連れ、種子島を去り、鹿児島に帰ってしまった。
永禄3年(1560年)、時堯は家督を長男・時次に譲る。しかし、時次は永禄5年(1562年)にわずか7歳で早世。時堯は再び家督を継ぎ、その後、次男・久時が家督を継ぐこととなった。
時堯の心は、戦の激化と家族の問題で常に揺れ動いていた。鉄砲の力で戦を制しても、家族内の問題が彼にとっては一番の難題であった。
時堯は、天正7年(1579年)に死去する。享年52。戦国時代の荒波を乗り越え、鉄砲という新しい力をもたらし、時堯は種子島の名を歴史に刻んだ。彼の死後、その名は後世に伝えられ、種子島銃は戦国の日本で名高い武器として、その威力を語り継がれることとなった。
時堯の墓所は、種子島氏の初代の墓所である御坊墓地と二代目の墓所である御拝塔墓地に分かれて存在する。
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