第30話 閑話 とある少女のやらかし……の、後始末
――レナード子爵家王都邸宅。その隣に立つ空き屋敷。
上流階級の栄枯盛衰は激しいものがあり、王都において没落した貴族や商人が手放した空き屋敷は数多く存在する。レナード邸隣の空き屋敷も『元は庶民の所有物』という点を除けば凡百の不動産に過ぎない……はずであった。
強いて珍しい点を上げるなら二十年ほど買い手が付かなかったことであるが、築年数が古い邸宅の販売が難しいことなど当たり前であるし、『前の持ち主が庶民』という事実は外聞を気にする貴族が敬遠するに十分な理由となっていた。
売れないことが当たり前。
商売に精通しているからこそ、最初に違和感を持つべきであったレナード家前当主ガルド・レナードが見逃してしまったのも無理はなかった。
そんな屋敷の玄関ホールに、純白のシスター服を身に纏った女性が足を踏み入れた。年の頃は二十代の半ば。軽く波打った金髪に純白の肌、穏やかな顔つきをした美女であり、服装も相まってまさしく“聖職者”と呼ぶにふさわしい外見をしている。
黙ってさえいれば。
黙ってさえいれば。
「……おうおう、こりゃあひでぇな」
黙ってさえいれば完璧なシスター、王宮内教会の大神官、キナ・リュンランドは呆れを通り越して感心するしかなかった。屋敷の淀みきった空気は実害となって人体をむしばみ、長期間の活動を困難にさせている。キナとて教会式の浄化術を身に纏っていなければ五分とこの場にとどまれないだろう。
この屋敷が二十年近く売れなかったのも当たり前だ。たとえ購入希望者が現れても玄関に入った時点で気づかされるだろう。この屋敷はダメだ、と。
「ったく、神槍(ガルド)の爺さまとリリアは何の対策も無しに踏み込んだのか? こんな場所に? 真面目に修行しているこっちが馬鹿らしくなってくるな」
もしもこの場にリリア――キナを“姉御”と呼び慕う少女――がいたのなら即座に反論しただろう。姉御は真面目に修行なんてしていないでしょう、と。
しかしここにリリアはおらず、キナにツッコミをできる人間もいない。キナは面倒くさそうに頭を掻きながらも鋭い目つきで玄関ホールの壁紙に目を走らせた。
(呪術……。いや、もっと原始的な呪いか? 施術者が消えてずいぶん緩和されてはいるが、悪意と殺意の塊のような術だな。病人や心の弱った人間は冗談じゃなく死んじまうぜ)
緩和されてなお五分と立っていられないほどの澱みだ。リッチが健在だったときに踏み込んで影響のなかったガルドとリリアの非常識さが察せられるというもの。
「大神官殿」
部下の神官がキナに駆け寄ってきた。その顔は今にも倒れてしまいそうなほど血の気が引いている。
これが常人の反応だよなぁとキナはなぜかホッとしてしまった。
「おう、どうした?」
「朗報です。“神聖派”の連中、全員が逃げ出しました。結果的にではありますがこの件の主導権はこちらが握ることになります」
国家宗教である大聖教には大きく分けて二つの派閥がある。キナも所属する“人道派”と、それに敵対する“神聖派”だ。人数的には人道派の方が多いが、経済的には神聖派の方が強い。
特に最近は人道派のキナが王宮教会の大神官に選ばれたせいか神聖派の横やりが多くなっており、今日の件も神聖派が途中から割り込んできたのだが……。
「はん、尻尾巻いて逃げ出すとは情けねぇ。金と女に溺れているからこうなるんだ」
「まったくです」
「……顔色が悪いな。ちっと休んできてもいいんだぜ?」
「いえ、大丈夫です。ヤツらとは鍛え方が違いますから」
「頼もしいねぇ。んじゃ、遠慮なくこき使わせてもらおうかな」
「…………」
自らの軽率な発言を悔いる神官を引き連れてキナは玄関ホール正面に設置された階段をのぼった。
神官から最新の報告書を手渡されたので軽く目を通す。事実関係に変更はないが、新たに二つの禁書級魔導書が発見されたらしい。今まで発見された禁書や魔導具を使えば王宮の一つや二つ楽に落とせるだろう。
「マジで国家転覆を狙っていたんだな、そのリッチとやらは」
「えぇ。神聖派の連中が逃げ出してくれて助かりました。こんなものをあいつらが回収したらどんな悪用をするか分かったものじゃないですから」
「ちげぇねぇ」
二階に到着し、廊下に歩を進めた瞬間に一瞬立ち止まる。高濃度の魔力を感知したのだ。正確には、高い濃度の魔力の残滓といったところか。
「うわぁ」
後ろにいた神官が小さく呻いた。彼も二階に来たのは初めてだったのだろう。
廊下の窓ガラスは枠ごとすべて弾け飛び、壁一面は高熱によって焼けただれている。しかしすべてが黒焦げというわけではなく、所々に爪痕のような亀裂や氷結、液状化などが見受けられた。
おそらく多種多様な攻撃魔法が使われたのだろう。それこそ未だに魔力が残滓するほど強く、大量の魔法が……。
廊下の壁が崩壊せずに残っているのが奇跡としか言いようがない。たぶん窓から爆風の類いはすべて放出され、なにより――攻撃の対象となった
そんなものがあるのか? と問われればキナも『神話の中になら』としか答えられないのだが。
魔力の行使の中心点。リッチがいた場所にキナは足を向けた。
説明されなくても分かる。そこはすでに
「…………」
一歩。踏み入れる。
さぁ、っと。春の日差しのような柔風が吹き抜けた。
淀んでいた空気が消えた。
壁にも、床にも、一切の傷も汚れも存在しない。
何より……屋内であるというのに花畑にいるかのような良き香りと暖かな日差しが感じられた。
もしもキナが幽霊であったのなら、ここが天国であると錯覚してしまうだろう。
「な、え? なんですか、ここは?」
付き添ってきた神官が戸惑いの声を上げた。あぁそうかとキナは苦笑する。彼はまだ経験したことがなかったのかと。
しかしそれも必然だ。
こんな空間、現在は一人しか作り出せないと言われているのだから。
うろたえる神官の胸板をキナが裏拳で強めに叩いた。
「確認するぞ? 神聖派の連中は
「……いいえ。神聖派のお偉いさんは玄関ホールで引き返して、他の連中も追従しましたから。ヤツらは二階にすら来ていません」
「そうか。不幸中の幸いだな」
「はぃ?」
疑問符を浮かべる神官の胸板をもう一度叩く。
「……神召長への先触れを頼まれてくれ。至急、王宮教会の大神官としてご報告したいことがある、とな」
この国においては神官の上に十二人の大神官が存在し、大神官の上に三人の神官長がいる。そして、神官長のさらに上。現状、すべての神官の頂点に立つのが神召長である。
その権威は教会そのもののと言っても過言ではなく、
神官が冷や汗を流し、喉を鳴らした。神召長の名はそれだけ重く、厳かなのだ。
「確かに、確実に伝えます」
深々と腰を折ってから神官は踵を返した。先ほどまでの青い顔が信じられないほどの速さで階段を駆け下りていく。
その背中を見送ってからキナは苦笑を漏らしてしまう。面会日時の確認をするために先触れを頼むだなんて真っ当な貴族のようではないかと。堅苦しい貴族の生活が嫌で逃げ出したのは自分だというのに……。
しかし相手は神召長、そして
キナという人物がわざわざ先触れなどという手段を執る。それは人払いの願いを意味していた。少なくとも神召長であれば察してくれるだろう。
「……はぁ~、どうしてこうなった……」
思わずキナはその場にしゃがみ込んでしまった。
いや、この事態はキナが引き起こしたようなもの。リリア・レナードという少女に大聖典を渡したのは紛れもないキナなのだから。
神官でもない人間に、神召長から下賜された大聖典を譲り渡す……。よくて懲戒、悪くて罷免という行動に出たのはひとえに可能性を感じたからこそ。リリア・レナードであるならばと確信したが故。
リリアが大聖典の所持者になれば、いずれその身に宿る『神性』が呼び起こされると踏んでいた。
だが、わずか9歳で結果を残すなんて予想できるはずがない。
深い深いため息をつきながらキナは改めて報告書に目を通す。便宜上リッチとされているが、かの“神槍”ガルドの槍にすら耐えてみせたのだからアレはリッチではなく
そんな存在を滅してみせたリリアが使ったのはごくごく基本的な心身浄化の呪文と、初歩的な護身法。とてもではないが
なのに、彼女は浄化してしまった。
浄化した場所は“聖域”となってしまった。
本質的には呪文など必要なかったのだろう。リリアが浄化すると決めたから浄化された。ただそれだけのことで。
そんなことができるのは神に身を捧げ、神に認められた神召長か――
「……やらかしてくれたなぁリリア。こうまで騒ぎになるともう誤魔化せないぜ?」
だが、不幸中の幸いであるとキナは考える。
神聖派の連中はリリアが
ならば今のうちに人道派が囲い込み、リリアに対する盾となるしかない。
(いや、あいつに盾が必要とも思えねぇがな……。ま、あたしらの権力闘争に巻き込む必要もねぇだろう)
およそ二百年ぶりの“聖女”誕生だ。まず間違いなく神聖派の連中はリリアを手に入れようとするだろう。
だからこそ、そうなる前に。守るための準備を整えなければ。
「…………」
リリアが聖女であるから、なんてことは二の次だ。
キナの本職《・・》も関係ない。
自分を“姉御”と呼び慕ってくれる妹分を教会の醜い争いに巻き込みたくはない。そんな人間じみた感情によってキナは神聖派との全面戦争すら覚悟した。
後に、神召長との面会叶ったキナ・リュンランドは断言する。
――聖女が現れました、と。
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