序章 2

 人攫いや詐欺師だのは甘言を弄して近づいてくる。耳に優しい言葉で欲望をくすぐって。あるいは、甘い菓子を見せてくるかもしれない。


 望むものを与えてやるとか。けれど、そんな言葉に耳を傾けてはいけない。


 ――だとしてもその声は優しすぎた。



 縫衣ぬいは押し込められた納戸の、暗闇の中で膝を抱えていた。椎茸やおが屑の匂いのする、乾いた冷気の中に。


 養父母の怒りを買った、自分が悪いんだ。だからまた、こんな所に閉じ込められた。――そう思いながら震える。欲深い自分が悪い――そう思わなければ、憎しみと不遇さに狂ってしまう。


 あまりにくだらない発端。養父母が饅頭を食べている姿を、物欲しそうに見てしまった。その目がいけない。心が意地汚い。



かぐわしいのう」


 と闇の中で声がした。優しげな女の声だが、どこか棘がある。――桃の毛羽だった表皮のような。縫衣は尋ねた。


「だ、誰……?」

「く、く。そなたは、実によく、いるな。食べ物に、あるいは温もりに……。向こうの屋敷の中に、饅頭だの角砂糖だのがあるぞ。飢えるなら、それを取ればよかろう」


 縫衣はびくりと体を震わせ、闇を見渡した。けれど何も見えない。


「ほら、答えなさいな。娘よ……。なぜに耐える? ――それとも、口がきけぬか」


 魔性の者かとは思ったが、その声が苛立ちはじめた気がして、ついに縫衣は答えた。


「い、嫌な童だと思われたら、また追い出されて、盥回たらいまわしにされるから……」


「ほう。――とはいえ、欲しいとは、思わぬのか? なぜ、そなただけが遠ざけられる?」


 縫衣は両手で耳を塞いで、その声を遮ろうとした。けれど、ますます声は殷々いんいんと響いてきた。


「大丈夫さ。そんなに恐れずとも」


 ふと顔を上げると、暗闇の中に二つの、小さな蒼い光が見えた気がした。ついで、青白い手が差し出された。


「わたしと共にいれば、与えよう。奪われてきたものを。諦めてきたものを……」

「――え?」

「そなたは、すべてを手に入れるだろう。奪われずに、遠ざけられずに。取り戻せるのさ……。さあ」


 すると、縫衣の心の中に奇妙な映像が浮かんできた。亡くなったはずの、実の父母が笑顔で立っており、父の右手には白い干菓子ひがしが載っていた。


 それは『白花糖しろはなとう』という、淡く甘い、夢のような菓子だった。幼いころ、たまに父母が買ってきてくれた。


「すべてを……」


 縫衣は震えながら、左手を持ち上げる。





  ◇



 ――わたしは、求めてはいけなかった。


 けれど、あのとき手を伸ばした。その手に何がもたらされるのか。そんなことも知らずに。もし知っていれば――あんなふうに追われることはなかった。





  ◇



 暗い森の下生えを踏み、駆け抜けるのは、暗緑色の着物に鉢巻、それに同じ色の袴を帯びた少女。髪を後ろに縛って流し、やや線の細い小顔にある両目の底は、深い暗さが潜んでいた。


 とうに縫衣の息は上がり、肺が燃えるようだが、構わずに進み続ける。その右手には刀――目の醒めるような白い柄に、刃の根本には白花紋しろはなもんが彫刻されている。


 ふと木の根を踏んで体勢を崩す。なんとか刀は離さなかったが、地面に転がって膝をつく。振り向くともうそこに、黒い獣が迫っていた。


 その獣は瘴気を体じゅうからくゆらせ、赤く熟れた柘榴の如き口内に、乱杭歯がびっしりと生え、濁った涎が垂れていた。



「求めるがいい」


 ――またあの、女の魔性の声。


 自身の左手を見ると、ずいぶんと黒ずんでいた。これ以上左手の力を使ら、どうなるかわからない。


「わかっているだろう? 死にたくなければ、わたしに頼るしかない……。そうだろう?」



 縫衣はのしかかってくる獣の、赤く輝く瞳を見た。狂おしく血を求めるようだ。グルグルと唸りを上げて大口を開く。


「やめて、いやッ!」


 刀を押し出すが、それすら獣の牙に止められる。――刀は音をたてて地に落ちる。


 縫衣はついに左腕を上げて、獣の鼻頭に手を押し付ける。


「そうだ、それでいい……」と満足そうな、魔性の声がする。


 獣を捉えた左手が、意思を持ったかのように蠢く。


 肩や肘、腕が震え、冷たい振動に襲われる。


 ギャアイイイイィィン……


 獣の断末魔の哭き声がこだまする中、異変は終わらない。黒い獣の体は、縫衣の左手を中心に歪み、ねじれていく。獣の体は――いや、獣を構成する瘴気が、少しずつ左手の中に吸い込まれてゆく。――喰われてゆく。


 違う、あの女の魔物が喰ってゆく。


 冷たくも粘質な振動が、縫衣の左腕の中に入ってくる。


「それでよい、何も考えずとも。わたしに身を委ねるがいい……。我が器よ…………」


 左腕の冷たさはいつしか全身に広がり、心が暗闇に呑み込まれてゆく感じがした。同時に、闇の冷たさは温もりに変わってゆく。心臓が脈動し、体の芯が熱くなり、浮遊感に包まれはじめる。その快楽がなにより、怖かった。快楽に呑まれてしまう感じがして。


「いや、だ……。やめて……。やめて!」

「恐れずとも、よい。――わたしに任せるんだ。その心を、その体を……」


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