序章 2
人攫いや詐欺師だのは甘言を弄して近づいてくる。耳に優しい言葉で欲望をくすぐって。あるいは、甘い菓子を見せてくるかもしれない。
望むものを与えてやるとか。けれど、そんな言葉に耳を傾けてはいけない。
――だとしてもその声は優しすぎた。
養父母の怒りを買った、自分が悪いんだ。だからまた、こんな所に閉じ込められた。――そう思いながら震える。欲深い自分が悪い――そう思わなければ、憎しみと不遇さに狂ってしまう。
あまりにくだらない発端。養父母が饅頭を食べている姿を、物欲しそうに見てしまった。その目がいけない。心が意地汚い。
「
と闇の中で声がした。優しげな女の声だが、どこか棘がある。――桃の毛羽だった表皮のような。縫衣は尋ねた。
「だ、誰……?」
「く、く。そなたは、実によく、
縫衣はびくりと体を震わせ、闇を見渡した。けれど何も見えない。
「ほら、答えなさいな。娘よ……。なぜに耐える? ――それとも、口がきけぬか」
魔性の者かとは思ったが、その声が苛立ちはじめた気がして、ついに縫衣は答えた。
「い、嫌な童だと思われたら、また追い出されて、
「ほう。――とはいえ、欲しいとは、思わぬのか? なぜ、そなただけが遠ざけられる?」
縫衣は両手で耳を塞いで、その声を遮ろうとした。けれど、ますます声は
「大丈夫さ。そんなに恐れずとも」
ふと顔を上げると、暗闇の中に二つの、小さな蒼い光が見えた気がした。ついで、青白い手が差し出された。
「わたしと共にいれば、与えよう。奪われてきたものを。諦めてきたものを……」
「――え?」
「そなたは、すべてを手に入れるだろう。奪われずに、遠ざけられずに。取り戻せるのさ……。さあ」
すると、縫衣の心の中に奇妙な映像が浮かんできた。亡くなったはずの、実の父母が笑顔で立っており、父の右手には白い
それは『
「すべてを……」
縫衣は震えながら、左手を持ち上げる。
◇
――わたしは、求めてはいけなかった。
けれど、あのとき手を伸ばした。その手に何がもたらされるのか。そんなことも知らずに。もし知っていれば――あんなふうに追われることはなかった。
◇
暗い森の下生えを踏み、駆け抜けるのは、暗緑色の着物に鉢巻、それに同じ色の袴を帯びた少女。髪を後ろに縛って流し、やや線の細い小顔にある両目の底は、深い暗さが潜んでいた。
とうに縫衣の息は上がり、肺が燃えるようだが、構わずに進み続ける。その右手には刀――目の醒めるような白い柄に、刃の根本には
ふと木の根を踏んで体勢を崩す。なんとか刀は離さなかったが、地面に転がって膝をつく。振り向くともうそこに、黒い獣が迫っていた。
その獣は瘴気を体じゅうから
「求めるがいい」
――またあの、女の魔性の声。
自身の左手を見ると、ずいぶんと黒ずんでいた。これ以上左手の力を
「わかっているだろう? 死にたくなければ、わたしに頼るしかない……。そうだろう?」
縫衣はのしかかってくる獣の、赤く輝く瞳を見た。狂おしく血を求めるようだ。グルグルと唸りを上げて大口を開く。
「やめて、いやッ!」
刀を押し出すが、それすら獣の牙に止められる。――刀は音をたてて地に落ちる。
縫衣はついに左腕を上げて、獣の鼻頭に手を押し付ける。
「そうだ、それでいい……」と満足そうな、魔性の声がする。
獣を捉えた左手が、意思を持ったかのように蠢く。
肩や肘、腕が震え、冷たい振動に襲われる。
ギャアイイイイィィン……
獣の断末魔の哭き声がこだまする中、異変は終わらない。黒い獣の体は、縫衣の左手を中心に歪み、ねじれていく。獣の体は――いや、獣を構成する瘴気が、少しずつ左手の中に吸い込まれてゆく。――喰われてゆく。
違う、あの女の魔物が喰ってゆく。
冷たくも粘質な振動が、縫衣の左腕の中に入ってくる。
「それでよい、何も考えずとも。わたしに身を委ねるがいい……。我が器よ…………」
左腕の冷たさはいつしか全身に広がり、心が暗闇に呑み込まれてゆく感じがした。同時に、闇の冷たさは温もりに変わってゆく。心臓が脈動し、体の芯が熱くなり、浮遊感に包まれはじめる。その快楽がなにより、怖かった。快楽に呑まれてしまう感じがして。
「いや、だ……。やめて……。やめて!」
「恐れずとも、よい。――わたしに任せるんだ。その心を、その体を……」
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