見えざる支配者
project pain
section1 Fabula animum frangens
なにげない日常<1>
−−朝
「オハヨウ、ミサキ、オハヨウ」
猫型ペットロボットのリリィがぎこちない動きをしながら起こしに来る。美咲はその声で目を覚まし、ゆっくりと起き上がる。
ベッドから降りるとリリィはまるで人間の様に視線を合わせようと目の部分に当たるレンズをピント調整している。
美咲が起きると部屋はエアコンが快適な温度を保ち、照明が柔らかに部屋を照らす。美咲は窓の外に広がる東京の街並みを一瞬眺め、深呼吸をする。新鮮な空気が部屋に満ち、彼女の心も少しだけ軽くなる気がした。
美咲はキッチンに向かい、タイマーセットしていたコーヒーメーカーで朝のコーヒーを淹れる。コーヒーメーカーは彼女の好みに設定されていて、コーヒーの濃さから抽出温度、時間まで調整されている。時間は猫舌の美咲が飲む頃にはちょうどいい温度になっている。
美咲はカップを手に取って淹れたての香り高いコーヒーを一口飲みながらテーブルに座るなりスマホで自分のSNSを確認する。美咲は@misaのアカウントでやっていて、現在のフォロワー数は10万人を超える。昨夜の投稿に早速「いいね」とコメントがたくさん来ている。投稿内容はライフハック、日常の写真、自己啓発に関するメッセージ等。
美咲はふと、現実世界での人間関係の希薄さに思いを巡らせる。
オンライン上では多くの人々と繋がっているが、現実では孤独を感じる事も少なくなかった。大学時代、美咲は友人達と頻繁に遊びに行き、キャンパスライフを楽しんでいた。週末には皆でカフェに集まり、将来の夢や悩みを語り合っていた。職場では同僚とのやり取りは仕事の話に限られており、プライベートな会話や飲み会はほとんどない。美咲は表面的には順調に見えるキャリアを築いているが、心の中では深いつながりを求める気持ちが日に日に強くなっていた。
「今朝の投稿しなくちゃ」
美咲は冷蔵庫から朝食を取り出してテーブルに並べた。中央には鮮やかなブルーベリーとイチゴが飾られたアサイーボウル。その横にアボカドトーストが美しく盛られている。クリーミーなアボカドがトーストの上に均等に広がり、その上にはスモークサーモンと微細に刻んだ赤玉ねぎがトッピングされている。少量のオリーブオイルが光を反射し、食材の鮮やかな色合いを引き立てていて、見た目にも爽やかな印象を与えていた。それを撮影してSNSにアップする。
朝食を食べ終わるなり美咲は出勤の準備を始める。鏡の上にディスプレイが貼られたスマートミラーが美咲の全身を映し出す。左上には現在時刻、天気、今日の予定、そして今日の運勢が表示されていた。今日は晴れのち曇り、最高気温は25度。
美咲は軽くうなづきながらクローゼットから季節に合った服を選び出した。
「今日のニュースを教えて」
スマートミラーは即座に反応し、画面に最新のニュースヘッドラインを映し出す。画面には経済、テクノロジー、エンタメのトピックスが並ぶ。それを一瞥しながら彼女は手際よく身支度を整える。選んだ服を身にまとい、鏡の前でスタイルを確認した。
「うん、これで完璧。さて、リリィ。行ってくるね」
「イッテラッシャイ、ミサキ、イッテラッシャイ」
リリィはその小さな身体を揺らしながら温かみのある声で応答する。パンプスを履いた美咲はスマートロックを解除して玄関を出た。ドアは閉まると同時に自動的にロックがかかる。スマホのアプリで解錠できるので鍵が不要なのは助かる。
玄関を出ると外は快晴で穏やかな朝の光が差し込んでいる。美咲はイヤホンを耳にはめてお気に入りのプレイリストを再生した。ポップミュージックが流れ始め、彼女はそのアップテンポのリズムに合わせる様に歩き出した。東京の街は朝の活気に満ちており、人々が急ぎ足で行き交っている。
朝のラッシュアワーはピークに達していた。ホームには列ができ、忙しそうに行き交う人々のざわめきが響いている。電車は次々と到着しては出発していく。美咲は電車がホームに来るのを待ちながら、スマホで先程の投稿をチェックした。フォロワーからのコメントが早速増えている。美咲の口から思わず笑みがこぼれた。
「一番線に電車が到着致します。黄色い線の内側までお下がりください」
やって来た電車は滑らかにブレーキをかけながらホームのドア線にピッタリ合う様に停車した。その正確さに技術の進歩を感じずにはいられない。
「この車両、無人運転か・・・」
美咲は車両先頭部の運転席を見上げた。美咲が乗る電車は有人運転から徐々に無人運転車両へと更新されつつある。かつては運転士が座っていた場所には今は誰もいない。代わりにLEDモニターが設置され、行き先と現在時刻が表示されている。無人運転は本当に安全安心なのか。彼女は少し戸惑いを感じていた。
ドアが開くなり彼女は美咲は人波に流される様に車内に入った。車内は既に多くの乗客で満員で、立ち位置を確保するために微妙なバランスを取っていた。美咲はスマホを取り出し、SNSをチェックし始める。
「素敵な写真ですね!」
「こういう朝食作ってみたい!」
「インスピレーションをもらいました!」
スクロールするたびにフォロワーからの温かいコメントが目に入る。その中には、新たにフォローしてきた人々からの歓迎のメッセージもあった。美咲の口元には自然と微笑みが浮かぶ。
車内は鮮明なデジタルディスプレイが設置されていて、乗客に向けて最新のニュースやエンターテイメントコンテンツが流れていた。今週のクイズやショートコントが映し出され、笑いや知識の提供を通じて乗客の気分を和ませようとしていた。しかし乗客達はそんな事を気にせずにそれぞれのスマホを見ている。メッセージを送り合っている者もいれば動画を見ている者、ゲームをやっている者、人それぞれだ。
「今日もレインボーラインにご乗車いただき、ありがとうございます。次は新都ガーデンスクウェア、次は新都ガーデンスクウェアです。デンライナー、グランドライナーは次でお乗り換えです」
電車が到着すると美咲は降りる準備を始める。駅を降りるとすぐにオフィスビル群が目に飛び込んできた。ガラス張りのビルは朝日の光を受けてキラキラと輝き、忙しさが感じられる通りには人々が行き交っていた。
オフィス街特有の少し冷たい空気感と、行き交う人々の足音が彼女の周りを包み込む。スーツ姿のサラリーマン、カフェで買ったコーヒーカップを手にしたOL、スマホを読みながら歩く若いビジネスパーソン。そんな彼らを横目に、美咲も自分のペースで歩を進めていく。
美咲は会社の受付カウンターに設置されたカードリーダーに社員証をかざした。ピッという軽い音とともにゲートが開き、彼女はオフィスのエレベーターへと足を進める。エレベーターのドアが開くのを待ちながら、美咲はスマホを手に取り、再び今朝の投稿を確認する。フォロワーからのコメントは増え続けており、その温かな言葉に彼女の気持ちも少しだけ上向いていく。
オフィスに入ると同僚達が忙しそうに働いている姿が目に入る。キーボードを打つ音や電話の声、そして誰かが同僚に指示を出している様子が、オフィス特有の活気を感じさせる。
「おはようございます」
「おはようございます、佐藤さん」
美咲も自分のデスクに向かい、ノートパソコンを立ち上げて日のタスクを確認した。午前中はクライアントとのオンライン会議が予定されており、マーケティングキャンペーンの新しい提案をプレゼンする重要な仕事が控えている。
朝礼が終わると美咲はヘッドセットを装着してプレゼンテーションの準備を始めた。
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