第8踊 一筋の矢が結ぶ縁 矢野由美
重苦しい雰囲気を振り切るように、体育館を後にした僕たちは、次の部活動見学へと向かった。
吹奏楽部や演劇部などの文化部を回ってみたものの、正直どれも心に響くものはなかった。
高塚さんも同じようで、感情を表には出さないけれど、あまり乗り気ではないのが伝わってくる。
次はどこに行こうかな……
そんなことを考えていると、不意に澄んだ空気が鼻をくすぐった。
どこか静けさと落ち着きを感じさせるその空間に、僕の視線は自然と引き寄せられる。
弓道場
木製の看板に、その文字が書かれていた。
ときおり右から左へ矢が飛び、続いて「パンッ」と的を射抜く音が響く。
その音に興味をそそられたが、同時に少し気後れもしてしまった。
こういう場所って、なんとなく「一見さんお断り」な雰囲気があるからだ。
どうしようか迷っていると、高塚さんが道場の前で振り返る。
「気になるなら、入ろっか」
そう言うと、迷う素振りも見せずに一歩を踏み出した。
「……そうだな」
まるで僕の心を読んだかのようなその一言に、不思議な気持ちになりながら、彼女の後を追った。
道場の中に入ると、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。
神聖で澄みきった空気に包まれたその空間は、まるで外の世界とは切り離された別世界のようだった。
僕らは正座をして、先輩たちの射法を見学する。
ふと、見覚えのある顔が視界に入った。
あの人は……入学式の日に案内してくれた先輩だ。
その先輩が披露しているのは「射法八節」と呼ばれる一連の所作らしい。
動きのひとつひとつが驚くほど滑らかで、まるで一筆書きのようだった。
• 足踏み:足を静かに開いて重心を安定させる動作。わずかな狂いも許さない静謐さがそこにあった。
• 胴造り:背筋を伸ばし、体の軸を整える。無駄のない動きに、静かさと力強さが同居している。
• 弓構え:矢を持ち、弓を握り直す動作。風が草を撫でるような自然さに、思わず息を呑む。
• 打起し:弓がゆっくりと天に向けて持ち上げられる。祈りを捧げるようなその動きに、空間の空気が張り詰める。
• 引分け:弓を引き絞る姿には、鋼のようなしなやかさが宿る。
• 会(かい):矢を放つ寸前、彼女は完全に静止し、目は遠くの的を見据える。緊張が極限に達する瞬間だった。
• 離れ:矢が弦を離れると、空気を切り裂く音が響き渡る。その美しい軌跡は、見る者の心を奪った。
• 残心(ざんしん):矢が的に届くまで微動だにしないその姿に、一言――美しい、と思った。
一連の動作が終わると、僕はその美しさに完全に心を奪われていた。
横を見ると、高塚さんも真剣なまなざしで見入っている。
彼女も同じように心を揺さぶられたのかもしれない。
先輩が僕たちに気づくと、さっきまでの神聖な雰囲気は消え、柔らかな笑顔で話しかけてきた。
「あっ、君、入学式の日の……えっと、片桐くんだよね!」
「あ、はい! その節はどうもお世話になりました」
「いやいや、先輩として当然だよ~! あ、そうだ、自己紹介がまだだったね。私は矢野由美。弓道部の2年で、主将をやってるよ!」
軽くドヤ顔をしながら自己紹介をする先輩。
その言葉には納得感があった。彼女の射法八節の美しさは、部の主将にふさわしい威厳と技術を感じさせたからだ。
しかし、次の瞬間、先輩の表情がニヤリと変わる。
「片桐くん、女の子連れで部活見学だなんて、いい度胸だね~。もしかして彼女さん?」
「はい、そうです。いい度胸ですよね」
「ちょっと待てーーっ! 違うから! 高塚さん、なんですんなり受け入れるの!?」
僕が必死に否定する間、高塚さんと矢野先輩は楽しそうに笑い合っている。
「君、おもしろいね~。名前は?」
「高塚咲乃です」
「咲乃ちゃんね! 私のことは由美でいいよ~」
「わかりました、由美先輩」
会話が盛り上がる二人を横目に、僕はただため息をつくしかなかった。
でも、不思議とさっきまでの重苦しい空気は消えていた。
最後に先輩は「よかったら二人とも入部してね!」と入部届を渡し、また練習に戻っていった。
僕と高塚さんは顔を見合わせる。
言葉を交わさなくても、目だけでわかった。お互いに同じことを考えている、と。
たぶん……僕たちは弓道部に入るんだろうな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます