◆5
とてもスッキリと満足した目覚め。異世界に来て3回目ではあるが、こんなに良いものなのかと実感している。お金がかかっているこの寝具、最高すぎるな。やはり、ダンテは何故不眠症だったのか実に疑問だ。
そして、素晴らしく美味な一つ星レストランの料理を堪能出来るとは役得過ぎる。前世での生活とはまるっきり違う。なんて素晴らしい生活なのだろうか。……不能男認定をされなければ、の話だが。
「え……バ、バッサリ、ですか」
「えぇ、ショートにしてください」
昨夜カーチェスに指示して午後に呼んだ理容師は、思ったよりも早く来訪してきた。恐る恐る、といった態度をとる40代くらいの女性だ。きっと社交界では婚約破棄の件が噂になっているだろうから、その反応は当然だ。
噂好きの貴族達が大勢その場にいて、そして時間も経ってるんだ。もう既に社交界で広がっていることは不思議じゃない。尾ひれまで付いているかもしれないが。
だが、俺のこの態度にだいぶ困惑しているようだ。驚きすぎて手元が狂う事はないだろうが、早く始まってくれるとありがたい。この伸びきった髪と早くおさらばしたいんだ。
では失礼します、とハサミが入れられた。ハサミの音と、切られた髪がパサ、パサ、と落ちていく音が静かの部屋に響く。誰もしゃべらないという事は、それだけ委縮しているという事だろう。そこまで恐ろしいのか、俺は。
だが、これでこのうっとおしい髪とおさらばだ。ベッドに入る際は邪魔過ぎた。これで今夜からもっと素晴らしい目覚めを味わえる事だろう。
「い、いかがでしょう……?」
「ちょうどいいですね」
切り終わり手鏡を渡される。後ろから折り畳みの大きな鏡を当てられ後頭部までチェックするが、さすが、カーチェスが呼んだ理容師だ。仕事が完璧だ。
前世ではこれよりもっと短かったが、この顔にはこれくらいがちょうどいいか。7:3分けの長めの短髪。後ろは刈り上げだ。うん、良さそう。
「さっぱりしました、ありがとうございます」
その言葉に、彼女は鏡を落としてしまった。口をあんぐりさせて、恐ろしいものでも見たような表情が俺の持つ手鏡に映っている。それもそうだ。ダンテが目下の者に「ありがとう」だなんて一言も言った事がないのだから。しかも敬語で。
つい自然と口から出てしまったが、言わない方が良かっただろうか。だが、俺はちゃんと人付き合いの礼儀作法を知っている。ダンテとは違ってな。
そもそも、以前のダンテのように演技をしたところでどうせぼろが出るんだ。それだったら今まで通りにしていればいい。変わりましたね、と言われても……まぁ、乗り切れることだろう。
だが、落とした鏡は大丈夫か? 割れたような音はしなかったが。
「もっもっ勿体ない御言葉ですっ!」
だが、俺のお礼の言葉が原因なのか彼女は顔まで赤く染めていた。お礼の言葉と共につい笑顔も出してしまったからだ。
ダンテは容姿端麗で顔もいい。だが、今までは不眠症で隈が濃すぎるほど疲れた顔をしていて、髪で隠れていた為周りは知らなかった事だろう。隈はまだ残っているが、睡眠は十分とっているし疲れもとれているから、今の顔は今までよりずっとマシなはずだ。そのおかげで前髪を切った瞬間の周りの反応は見ものだったな。
やはり顔の整ったイケメンは得だ。これは使える。
次に来訪したのはブティック、洋装店だ。この国で服飾業界を牛耳っているのはルアニスト侯爵家と契約を結んでいるブティック。だが、こちらも有名店だ。
そのブティックを経営しているのは、この国の侯爵夫人、セレナ夫人だ。彼女はデザイナーでありつつも経営面共に腕のいいブティック代表だ。
そんな人気店の代表をよく連れてこれたな。……とも思ったが、頼んだのはこのブルフォード公爵家の執事だ。
今まではルアニスト侯爵と契約している方のブティックを利用していたが、婚約破棄をしたためそちらのブティックを利用するのは当然だ。だが、何事かと急いで来たのだろう。
だが、客間のソファーに腰かける俺の、目の前に立つ夫人は、硬直していた。恐らく心の中は、こうだろう。
この美男子は一体どこのどいつだ。
ついさっき散髪したのだから、その気持ちは分かるけどな。
「ご夫人、ダンテ様の前で無礼ですよ」
「……っあぁ、これは失礼いたしました。ご機嫌麗しゅう、ブルフォード公爵様」
流石カーチェスだ。
正気に戻ったブティックスタッフであろう者達が、持ってきた洋服を着せたマネキンをせっせと並べる。だが……
「黒以外はありますか」
「えっ……?」
「黒はもう持ってるんです」
目の前の服は黒、黒、全部黒だ。夫人が黒ばかりを選んで並べた理由はきっと、ダンテは常に黒を身に纏っていたからだろう。
俺も記憶にはあったが、クローゼットの中が全て黒である事を目の当たりにし、驚きを通り越して呆れを覚えた。今も仕方なく黒の服を着ている。だが流石に俺も、葬式じゃないのだから他の色を着たい。
「派手なものではなく、落ち着いたものを見せてください」
「かしこまりました……」
装飾も控えめに、青、緑などの服を少し多めに購入した。この家には余るほどの財産があるため使いすぎという言葉は存在しないからな。
ルアニスト侯爵の他にも、元婚約者が公爵家の財産に手を出していたのは知っていた。元婚約者の際限ない金遣い、侯爵の横領、ブルフォード公爵領を管理するための必要経費と日々高額のお金が動いていた。
それなのに、全然減らないのだ。ギャンブルはやっていたが、全勝無敗だった為そんなにお金は必要なかった。
それなら、埃を被らせずもっと使ってやったほうがいいに決まってる。経済も回るってもんだ。
「とてもデザインがいい。着心地もいいですし、気に入りました」
「も、もったいないお言葉です……」
さすがの夫人も、こんな言葉はダンテの口から出るとは微塵も思わなかった事だろう。だが俺は思った事を正直に言ったまで。それに、周りと同じく黒ではない他の色の服を着た俺に頬を火照らせ目が離せないようだ。
「腕のいい夫人に折り入って話があるのですが、お時間はおありですか」
「……」
それを聞いた夫人は、呆然とした顔を浮かべ、絶句していたのだった。
ブルフォード家の当主となったのだから、お仕事はちゃんとしよう。
あとは、業者も呼ばないとな。
これから、屋敷の中も見直すつもりだ。ブルフォード公爵邸は今お通夜状態。こんな所で長年生活するなんて耐えられない。使用人達は毎日働いても楽しくないに決まっている。
俺は労働者には楽しく働いてもらいたいと思っている。勿論甘やかすという訳ではない。必要な時には厳しくするつもりだ。ブラックな職場なんて俺は嫌いでね。もう経験したからよく知ってる。あの職場は本当に酷かった。
まぁもうここに来ておさらばとなったのだから忘れよう。
そんなブルフォード公爵、そして公爵家の劇的な変化は瞬く間に社交界に広まっていった。
皆思った事だろう。婚約破棄をしてすぐの大きな変わりように、一体何があったのだろうか、と。
「令嬢との婚約破棄後から、あれだけ興味を見せなかったダンテが身なりを整えたんだ。噂好きなお貴族様方は不思議に思うだろう。どういう風の吹き回しかと。だが、きっかけは婚約破棄だという事は一目瞭然。多少なりとも、元婚約者に向ける周りの目は変化するだろうな」
「ダンテ様……それは、令嬢への、その、言い方は悪いのですが……」
「腹いせのつもりか、と言いたいのか?」
「……」
カーチェスは口ごもった。あの婚約破棄の件の後の事だからな。そう思うのも無理はない。
「あんなデタラメを言いふらしてくれたんだ、これぐらいいいだろ」
あんなデタラメとは、不能男と言い放った事だけではない。俺は憑依後まだ社交界に顔を出していないが、社交界の情報を常時入手し俺に伝えてくれるカーチェスからとあるものを報告された。
これまで、ダンテがほぼ公爵邸から出なかった事をいいことに、ルアニスト侯爵と娘は俺の悪い評判を社交界に広めていた。
もちろんデタラメではあるものの、本人が何も言わないのだからとやりたい方だ。侯爵もそうした方がなにかと都合が良かったのだろう。
周りの貴族達は、そんな男と婚約を結ばされたルアニスト嬢を可哀想にと同情心を抱いている。本人はそんな悲劇の女を演じる事を楽しんでいるようだ。
だが、自分の家かのようにブルフォード邸に赴いていた婚約者は、屋敷では人前とはまるで違う我儘ぶりを発揮していた。
そして今も、ようやく婚約破棄が出来た為おめでとうと祝福をされているそうだ。元婚約者を罵り、新しく結ばれた婚約にお茶会と称した祝賀会じみた事までしている始末。
不能男といい変な噂といい、しかも悪い評判まで……やってくれるな。
「……さて、一応お礼という事で横領の件に関しては目をつぶってやったが……そのままというのもいい気がしない」
「ま、さか、ダンテ様……」
「あぁ、そのまさかだ」
あの貴族達の集まる中、不能男だと言い放ってくれたんだ。そのお陰でこれから俺は貴族に会う度会う度変な目で見られる事になるだろう。なら、お礼はキッチリしなきゃなぁ?
それに、せっかくルアニスト侯爵からブルフォード公爵家の実権を取り返したんだ。なら、少しでもこの国の為に貢献するのも悪くない。まぁ、それは建前だがな。
さて、種まきはしたからこれから水撒きをしないとな。
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