あの笑顔をもう一度

冬部 圭

あの笑顔をもう一度

「助けて」

 穂波からの連絡は要領を得ず、啜り泣きの合間に助けてばかりを繰り返していた。

「待ってて、すぐ行くから」

 そう答えて家を飛び出す。自転車を必死に漕いで穂波の家に辿り着いた時、僕は役に立たないことを痛感した。


 翌日、僕も学校へは行けなかった。実況検分や事後処理が慌しく続く中、少しずつ感覚が麻痺していくようだった。穂波は一晩中震えながら涙をこぼし続け、僕は慰めの言葉すらかけることができなかった。

 結局、穂波の伯父が取り仕切った葬儀にも、穂波は参列できなかった。ずっとうつむいたまま押し黙っていた。そんな穂波の傍らで、いつしか僕も考えることを止めていた。

 穂波はしばらく葬儀を取り仕切った伯父の家で暮らすことになった。駅でいえば三つだけしか離れていないので、すぐに会いに行ける。ぼんやりとそんなことを考えた。

 少しずつ落ち着いてきて、何か穂波に声を掛けよう、何か手紙でも書こうかと思う余裕が出てきたけれど、何を言えば良いのか全く思いつかず、ペンを取っても何も書けず。何もできなかった。手を差し伸べなくてはという焦燥感と、触れただけで壊れてしまいそうな僕たちの関係の危うさを感じた。


 事件から一週間が過ぎ、ようやく登校してきた穂波は明らかにやつれていた。

「大丈夫?」

と穂波に声を掛けるクラスメイトに穂波は何も答えることができなかった。

 昼休み、僕は穂波を屋上に誘った。

「二人とも、いなくなっちゃった」

 穂波が呟いた。再び、無力感が僕を襲う。

「何もできなくて、ごめん」

 気の利いた言葉は浮かばなかった。だけど、何か声を掛けたくて、何とか振り絞った言葉は謝罪だった。

「ヒロはいなくならないよね?」

 痛切な懇願。

「そばにいるよ」

 僕は穂波を失わないための「正しい答え」を考えすぎなのかもしれない。考えすぎて何もしないよりは、間違っていても何かしなければ。そんな焦燥感にかられて、そっと穂波の手を握る。

「ありがと」

 穂波は小さな声で、でも、しっかりと答えてくれた。

 その後、予鈴が鳴るまでお互い黙ったまま手をつないでいた。このぬくもりを無くさないようにしなければ。そう思った。


 ひと月が過ぎるころには、お互い少しずつ笑顔が戻ってきた。でも時折、ふっと真剣な顔をして黙っている姿を見て、まだ悪夢が続いているのだと理解した。

 どういう行動が最善なのかはあまり考えすぎないようにした。何を求めているのかも気にしすぎないようにしようと思った。瞬間の閃きに似た衝動的な言動でいいから、穂波に関わっていこうとした。


 ひとりの時に、穂波のどういうところが好きなのか、なんで好きなのか考えるようになった。

 明るい笑顔が好きだった。体重を気にしているくせに甘いものをたくさん食べる一貫性の無さも嫌いではなかった。僕みたいに細かいことを気にせず、正しいと思うことを素直に口に出す強さ。後先考えない刹那的な部分。僕にとって、彼女が特別だった部分が今は影を潜めている。

 いつか、再び前の彼女に戻れるのだろうか? 彼女の日常は大きく損なわれて、もう、戻れないような気がする。僕は諦めかけていることを自覚する。

 僕は彼女の日常が壊れた後に、取り返しがつかないことが起こったことを認識した。彼女の日常が壊れても、彼女が変わらない様に関わることができたかもしれない。でも、慌ただしい状況に流されて、やるべきことを怠ったのかもしれない。そうして、今になって、謝罪の気持ちから彼女に寄り添うふりをしているのでは? 同情、悔恨、憐憫。そんな、あまり良くない感情から彼女に接していないか? 思考はどんどんネガティブになる。


 夜の間、ずっと、暗く沈んだ感情にとらわれ、朝、教室で穂波から声を掛けられて少し気分が楽になるという繰り返しは、僕の精神力を少し鍛えた。

 やがて、前の穂波に戻ってほしいとは考えないようになった。僕にとってはその方が楽だったから。それが良いことなのかどうかは分からない。


 二年生の進路相談の時期になった。穂波はもともと進学希望だったけど、置かれている環境が変わったので希望を変えると言っていた。

 僕は特に希望がなかったので、入ることができる進学先があればといういい加減な選び方をして両親に叱られた。

 穂波は伯父夫妻に進学した方が良いと勧められているそうだ。

「なんで、進学希望にしないの?」

 放課後、校舎の屋上で、穂波に尋ねた。

「独り立ちしたいから」

 穂波は、そう答えた後、「伯父さんたちにあまり迷惑を掛けられないし」と付け加えた。

「やりたいことがあったんだろ。別にあきらめなくても」

 無責任なことを言っているのは自覚している。だけど、穂波の所為じゃないことで、いろいろなことを穂波が諦めるのは許せなかった。

「そうだ、同じ街に進学しようよ」

 ずっと、言えなかったことを口にした。穂波は一瞬息を止めたけれど、

「素敵な提案だね」

と返してきた言葉には熱がなかった。

「じゃあ、今度の学年末テスト」

「学年末テスト?」

「順位が上だったほうが、二人のそれぞれの進路希望を決めるのはどう?」

 普段の成績からしたら、僕の勝ち目は極めて薄い。だけど。二学期の期末ではなく、学年末ならあるいは。

 少しの沈黙の後、穂波は

「負けないよ」

と答えてくれた。


 それから、僕は必死に頑張った。正攻法、裏技、穂波の点を上回れるようにあらゆる手を使った。

 いきなりやる気を出した僕に、教員たちは驚いた様子だった。何故か僕たちの事情を聞きつけて、僕に肩入れしてくれる教員もいた。理由は何であれ、真面目に学業に取り組む生徒に対して教員たちは好意的だった。

 どちらかというと優秀ではない部類の生徒だった僕が、なんとか穂波の背中に追いつきたい気持ちで頑張る姿は滑稽だっただろう。


 二学期の期末は58/156と24/156。まだまだ、開きがあった。

 学校では何気ない会話を交わしつつ、わからない箇所を穂波に教えてもらったりした。

 家でもできる限りの努力をした。家族には事情を話さなかった。不思議なものを見るような母と、やっとやる気になったかと勘違いした父は放置した。


 学年末テスト、僕の成績は17/156だった。やり遂げた気分で放課後を待った。

 放課後、いつもの屋上で穂波の成績を聞いた。9/156。

 真面目に授業に取り組んだのは穂波も同じだった。

 そもそも、わからない所を穂波に聞いたのでは、穂波の成績を上回れないことにその瞬間ようやく気付いた。

 出来る限りのことをしたけれど、力及ばず。でも、

「約束通り、私がヒロと私の進路を決めるね」

と言った穂波の笑顔は、僕が渇望したあの笑顔だったから、僕は報われたのだと思った。

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あの笑顔をもう一度 冬部 圭 @kay_fuyube

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