第5話:罪と罰

 


(また、昔の夢)



 不思議な感覚だった。


 34歳のエレオノーラ・ヴィリアントとしての意識はある。これは夢だと認識もしている。


 しかし体に渦巻く感情は17歳のエレオノーラのものだった。荒々しく巨大な感情に息苦しさを抱き、17年前の記憶を追体験するように体が動いた。

 まるで2つの意思を同時に操っているようだった。


 闇だけが広がる空を眺めながら、「もう死んでしまおうか」と17歳の私は考えていた。学園の生徒たちだけではない、貴族社会からも嫌われ、醜い男に嫁がされた人生。この先いいことなど何もないだろう。ならば命を絶ち、来世に期待した方がいいんじゃないか──


 そこまで考えて、ベッドの側に置いたチェストの引き出しからナイフを取り出した。

 もしゴーシュが寝室に忍び込んできたりしたら、これで刺してやろうと考えていた。まさか自分の命を終わらせるために使うとは思っていなかった。


 雲が流れたのだろう。隠れていた月が出てきて、部屋にうっすらと光が入った。

 ナイフに月明かりが反射され、冷たい光が走る。しばらく冷え冷えとした光を見つめたあと、首筋にナイフの刃をあてた。ヒヤリとした感触が全身に走った。


 目を強く閉じ、ぐっと力を込めた時、浮かんだのは──鏡に映った醜い自分の姿だった。


 反射的にナイフを床に投げていた。呼吸を荒くつき、脂汗が額からだらだらと滝のように流れた。

 前髪を乱暴にかきあげた。はっはっと獣のように呼吸が荒くなる。歯の根が合わず、奥歯がガチガチと鳴った。


 湧きあがったのは、とてつもない嫌悪だった。

 あの顔を、学園の生徒たち、元婚約者、両親、屋敷のメイドたちの記憶に刻まれている。今死んでしまえば、噂は面白おかしく悪意をもって広まり、醜い自分が彼らの中の記憶に残ってしまう。その事実が吐き気になり、小さくえずいた。


 しゃがみこみ、膝を両腕で抱えこむ。顔を膝に押さえつけながら、呻いた。

 どうすればいいか分からなかった。周りから嫌われてしまった自分が、これからどう振る舞えばいいのか見当もつかない。聞ける人もいない。八方塞がりだ。


 その時、遠くの方から何かが割れる音がした。びくりと体を震わせ、顔を上げる。少しの間のあと、部屋のドアを激しく叩かれた。しわがれた声が響く。



「エレオノーラ! いるんだろう!? あけろ!!」

「ご主人様、おやめください……!」

「うるさい!」



 女性の悲鳴が聞こえた。

 はっと立ち上がり、床に落ちたナイフを引き出しの中にしまった。そしてガウンを深く着込むと、ドアを開けた。



「主人の出迎えもせず、何やってんだ?」



 醜い。


 酒とタバコの匂いが混じり、鼻先を掠めた瞬間、胃から何か込み上げてきた。

 セリフは怒りに満ちているが、顔はニマニマと笑っている。性的な欲求をまるで隠そうとしていない。反抗しても、小娘だから力で征服してしまえばいい。そんな考えが手に取るようにわかった。


 ──真逆の存在でありたい


 本能的な願いだった。心の底から湧き出た願いに、はっとする。閃光のような光が一筋、体を貫いたような気がした。


 急に黙ってしまった私の反応が不満だったのか、「おい、何か言え!」と手を伸ばしてきた。その手を両手で包むように握る。嫌悪感と吐き気と不快感と、まるで泥水を飲むようだ。だけど自分に残された道はこれしかないと、何か確信めいたものを感じていた。




「どうぞ、お部屋へ」




 *



 男の荒い吐息を全身に浴びながら、私は目を固く閉じていた。


 肉欲に溺れた視線はクモが動いているよう。

 首筋を舐める舌はナメクジが這っているよう。

 全身を撫でる手のひらはムカデが蠢いているよう。


 何度も何度も何度も込み上げてくる胃液を飲み込んでは、胃酸の熱で食道がカッと燃えた。あんな醜い顔を周囲の人間の記憶に刻まれたまま死にたくないと思っていた。しかし今は、覆いかぶさるこの男の首筋をナイフで切り裂いてしまいたい衝動に駆られていた。


 タバコと酒と油ぎった男の匂いが鼻の中に満ちた。何度目か分からない胃液を飲み込んだ。


 片手で首を絞められた。うめき声さえもあげられず、ひゅっと息を詰まらすと「こうすると締まりがよくなるんだ」と男は高笑いと共に、得意げに言った。

 己の欲求を満たすため、私の体を、精神を、全てを蹂躙する。瞳から涙が一筋こぼれた。


 ──これは、罰だ。



「鏡写しだ」


 使用人の言葉が蘇る。

 己の欲求を満たすために、相手を蹂躙する行為。それは自分も行ってきたことだった。


「お許しください、エレオノーラ様……」



 学園の廊下に額をつけて謝罪を繰り返す少女──ミランダ・グレイ男爵令嬢の姿を思い出す。

 私の婚約者であるアーサーに色目を使ったとでっちあげて、公爵令嬢の権力を振りかざし、学園で孤立させた。──分かっていた。彼女はアーサーに色目など使ってはいなかった。ただのクラスメイトとして談笑していただけだ。


 アーサーは彼女に恋をしていた。私には決して向けない優しいまなざしが、彼の気持ちを物語っていた。だが彼は決して想いを言葉にしなかった。ミランダとはただのクラスメイトであろうと努めていた。次期王子という立場も、彼女との身分の違いも分かっていたから。彼は想い必死に秘め、私を愛そうと努力してくれていた。


 私は見て見ぬふりをすればよかった。

 アーサーがミランダに密かに心を寄せていると気づいたのは、私だけだったのだから。しかし許せなかった。一瞬たりとも彼の視界に入らないで欲しかった。ミランダを憎み、恨み、あらゆる手で排除しようと画策した。「アーサーのため」と言い訳をして、嫉妬の炎を燃やして燃やして燃やし続けて、焼け野が原になった私の世界。残ったのは──


 奥歯を噛み締める。ギリリと歯が削れる音が脳内に響いた。

 目の前にいる男を睨みつける。



(この男と、真逆であれば、きっと)



 暗闇の中、ようやく見つけた一筋の糸。糸を頼りに歩いていっても、何が待っているかは分からない。身を灼け尽くす業火かもしれない、死後まで踠き苦しむ呪いかもしれない。それでも、この男だけが、今の自分に与えられた唯一の道標。


 やり直しができない一度きりの人生で、私は決意をした。



 ***



 飛び上がるようにして、目を醒ました。

 はっはっと自分の荒い呼吸が耳を震わす。酸素が少ない。溺れているかのようだ。


 先ほどまで見ていた悪夢をやり過ごすように、目をつむって頭を振る。脳内にこびりつく夢を消し去りたかった。


 時計を見れば、もうすぐ朝食の時間だった。息を整えた私は、ベルを鳴らしてメイドを呼び出し、朝の準備をお願いをする。顔を洗い、髪を整え、グレーのシンプルなワンピースに着替える。

「朝食は帰ってきてから食べるわ」と声をかけ、屋敷を出た。


 徒歩5分ほどの場所に建つ教会へ向かう。毎朝の習慣だった。


 朝の教会は好きだ。静寂が包み込み、空気が澄んでいて、まるで自身も神聖なものになったような気がする。教会に入って深呼吸すると、今朝のもがき苦しむような感情が少し薄れた。


 色とりどりのステンドグラスから朝の光が入り込む。その光を浴びながら、この国で信仰されている豊穣の女神像に向かって祈りを捧げる。


 ゴーシュと違う道を歩もうと決意して15年以上。

 私は正しい道を歩けているのだろうか。


 領主の仕事を全くせず散財を繰り返すゴーシュを見て、まずはじめに私が行ったのは領地経営だった。彼の代わりに領地を支えている秘書のネルゲイに頭を下げて、教えを請いた。


 横暴に振る舞っていた私が急にしおらしくなったため、はじめは訝しげな目線を向けられた。しかし人手が圧倒的に足りておらず、さらに「秘書が領主の代わりになるのか」などと馬鹿にされ、不利な交渉を強いられていたネルゲイは、私の申し出を受けた。一か八かの賭けだったのだろう。


 領地経営の知識はなかったが、帳簿の計算の仕方や、各領地の名前や名産品は頭に入っていた。点々と存在している知識を繋げて線にするために、私は朝から晩まで働いた。


 ターンカール領で有名なのは裁縫技術だった。知識としては知っていたが、実物を見ると、驚くほどの技術がそこにはあった。


 工房で働く子女たちに「中央の花型模様は畝織りにして、その上から桃色の糸でクロス・ステッチをいれます」とさらりと説明されて驚いた。何十時間もかかるような図案を刺繍できるほどの腕前と、最も適している糸と生地を瞬時に選び取る知識を持ち合わせていた。


 反対に、平民の識字率が他の領地と比べて低いのが課題だった。


 識字率があがれば、賃金が高い職につける可能性が増える。賃金が増えればターンカール領で落とす金が増え、領地が潤う。

 教育の裾野を広げる上で最大の障害は、やはり費用だった。授業料や教科書代、学び舎の建築費だってある。個人的な慈善活動では全く足りなかった。


 教育の重要性を説くために、まずはじめたのは孤児院での授業だった。


 家から「結納金だ」と放り投げられたドレスや宝石をすべて売って、教科書を数部と文字が書かれた大きな紙を購入し、教師を一人雇った。紙で練習すると費用がかさむため、砂の入ったトレーと棒を用意し、文字を書く練習をさせた。


 教師を一人しか雇えなかったため、孤児院の中でも年長の子どもにだけ教えるよう指示した。そしてその生徒たちが、班分けした年少の子どもたちに教えるという方法にした。


 子どもの順応は早い。文字の読み方やつづり方を覚え、読み書きの技術を少しずつだが習得していった。成長し、他の領地へ働きに出る者まで出てきた。


 評判を呼び、子どもに読み書きの技術を身につけさせたいと申し出る平民の親も増えた。

 彼らには安い教育費で授業を受けられるようにした。


 元から有名だった裁縫技術と、平民の識字率の向上により、領地は昔と比べて驚くべき発展を遂げていた。


 15年以上、ほとんどの時間を領地の発展のために尽力してきた。

 誰かに感謝されるたび、自分の罪が少しだけ赦される。そう信じて、ここまで闇雲に走ってきた。


 私は祈る。


 どうか今日も、ターンカール領の民たちが健やかに過ごせますように。


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