黒の怪物
てす
P.S.星の目覚め
肺が痛い。
走らなければ。
まだ追われているのだろうか。
雨がひどくなってきた。このまま走って逃げられるとは到底思わない。
考えうる全ての不安がステラの頭を埋め尽くす。
霧がかかった少年の頭では今の状況を正しく理解することは容易ではない。
使い古した色褪せた靴は気づけば両方なくなっていた。
足の裏には周囲の古びた建物から出た割れたコンクリートや窓ガラスの破片。
加えて何度も転んだせいかひじやひざは擦り傷だらけだ。
ただそんなことを気にしている余裕はステラにはない。
時間的な余裕。心理的な余裕。
そして体力的な余裕もなかった。
息がつまり足がもつれ前に倒れこむ。
しばらくは動けそうにもない。遠くではまだ争いの音が聞こえる。
あっちに戻るわけにはいかない。
今まで全く生きることに執着したことはなかったが、今は例えこの瞬間この星の酸素が全てなくなったとしても全力で息を止めて醜く耐え続けようとするだろう。
姉を助けに行かなければ。
その思いは正義感などのきれいな類ではなく、
どこか狂気に近いものをはらんでいるように見える。
血の気が引きまるで鉛のようになったひざ下をなんとか持ち上げ前に進む。
人気のないアパートや半壊した高層ビル。荒廃した街を進むと突如それは現れた。
途切れる大地。視界に広がるどこまでも続く曇り空。
異様なほど大きな橋。そしてその前にある高い鉄製のフェンスと施錠された扉。
それは追い詰められたステラの心に小さな希望と未知への恐怖をちらつかせる。
生まれてこの方この疲れ切った町しかない島から出たことはない。
この橋は別の島につながっているのだろう。
崖下に広がる真っ暗な闇は今にもステラを飲み込もうと波打っている。
ステラは崖沿いの高いフェンスの前。とある場所で立ち止まった。
このフェンスの真上は有刺鉄線が切れている。
気づけばもう背後から煩わしい音が聞こえることはなくなっていた。
そして代わりに耳元で女の声が聞こえる。
ここから「出るべき」でしょう?
ステラは手を伸ばす。針金のようなフェンスが手を刺し、滴る雨が赤く染まる。
フェンスの反対側に立ち崖の下を見る。真っ黒だ。
ステラの瞳に映った黒は波打つ闇かそれ以外か。
彼は飛んだ。
そして沈む。
徐々に解像度の低くなっていく視界の中でステラは見る。
崖上で不気味に佇む黒髪の女性。彼女はその時確かに笑っていた。
もちろん表情なんてわからない。姿すら曖昧である。
ただ聞こえるのだ。
水に沈むステラの脳に不自然なほど明晰に。
その女の笑い声が。
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