昔がたり・弐(五)(☆)

 その報せを受けた時、蘇芳は何かの間違いではと本気で思った。

 まさか自分が紫月の正室にと望まれるなんて……、と。

 いつにも増して不機嫌が長いこと続く樹の様子から、嘘でも間違いでもないと徐々に信じられるようになってきたけれど。


『どうしても嫌だと思えば断ってくれていい』


 紫月の言葉を樹づてに伝えられたが、好き嫌い以前に断るなど大それた真似できる筈などなく。娘の桔梗がこの結婚を大喜びしていること、尾形家から送られた使用人が蘇芳の代わりに屋敷で働いてくれることなど、蘇芳の懸念事項も解決されたため、大いに戸惑いながらもこの縁談を受けようと決意した。


 祝言に向けての支度などで悩みや不安を抱える暇がない程、日々はめまぐるしく過ぎていく。

 いざ迎えた祝言の最中ですら、間違いや粗相だけは決してないように、とにかく堂々としよう、との意識する余り、余計なことを考える余裕など皆無だった。

 一方で、この場に蘇芳の身体こそ存在するが、別の誰かに言動や行動を操られていて、蘇芳自身の意志では何一つ動いていないような気もしていた。


 祝言の儀を終えた後、身を清め、白装束に着替えて寝所へ。いよいよ床入りの儀へと入る。

 花嫁の褥を先に敷き、後から花婿の褥を敷き──、この辺りから、蘇芳は急に強い緊張と不安に襲われ始めた。


 燈明の頼りない明かりの中、自分と同じく白装束の紫月に手招かれ、ぎこちなく彼の左側へ。これから起こることを想像し、身を固くしていると……、紫月は夜着をめくり、ごろんと褥へ寝転がった。


「……え?」


 予想外の行動に目をぱちくりさせる蘇芳に、紫月は褥をぽんぽん、と叩き、隣に寝転ぶよう促した。


「疲れただろう?早く横になるといい」


 紫月の真意が汲み取れず、困惑していると「今宵はこのまま寝てしまおう。誰も見ていないんだ。どう過ごそうとバレやしないさ」と平然と言ってのけるではないか。


「あの」

「ん?」

「それでは私のお務めが」

「お務め?」

「その……」


 武家の妻妾が夫の閨に上がれるのは二十五まで。

 その間に子を成していれば二十五を過ぎても上がれるが、成していなければ石女うまずめと見做され、閨事からは遠ざけられる。

 蘇芳のよわいは二十三。年が明ければ二十四になり、紫月の子を成すための猶予は実質一年しか残されていない。


「怖がっているのに無理強いはしたくない」


 言い淀んでいると、起き上がった紫月が真剣な顔で告げる。


「私は……、……とは、違う」


 続けて、聞こえるか聞こえないかのつぶやきには、静かだが激しい怒りが滲んでいた。


「申し訳、ございません」


 褥の上、深々と平伏すれば、顔を上げさせようと紫月の手が肩に触れ──、触れる手前で、ハッとしたように動きが止まり、力なく自らの膝へと落ちていく。


「何故謝る。蘇芳は悪くない。何一つ悪いことなどしていない」

「ですが」

「だが、一つ言っておきたい。憐れみや償いのつもりで其方を迎えた訳では決してないと」


 思いもかけなかった言葉に、両手は床に着いたまま、弾かれたように紫月を見上げる。その反応に、紫月は秀麗な顔を曇らせた。


「もしや、蘇芳はそう感じていたのか?償いで室に迎えられたと」

「…………」


 沈黙が答えを示している。

 すると、紫月は露骨にがっくり、肩を落とした。


「紫月様……?」

「蘇芳は樹とまったく似てないと思っていたが……、よりによって朴念仁なところだけは似たのだなぁ」


 領主たる威厳は何処へやら。

 冗談交じりながら、かつて月若と呼ばれていた幼き頃によく見た、ふてくされた態度を前に、蘇芳の困惑は深まっていく。


「仕方ないか。私の方が二つも下だし、蘇芳にとって弟のようなものだったから」

「え?あっ!」


 ここまで言われれば、さすがに紫月が何を言わんとしているか、理解した。

 理解した途端、先程とは違う種類の緊張が蘇芳を襲う。紫月の顔が恥ずかしくてまともに見返せない。


「うーん、やはり今宵は寝てしまった方がいいな」

「も、申し訳ございま……」

「謝らないでくれ。今はそれでよい。私のそばで笑っていてくれるなら、それ以上は何も望まぬ。ゆっくりでよい。ゆっくり、名実共に夫婦めおとになっていこう」


 紫月がどのような顔で、どのような気持ちで今の言葉を伝えたのか。

 顔を見ていなくとも、蘇芳には大方の予想がついた。


 時に苛烈に、したたかに振舞っていても、この御方の真の優しき心根は幼き頃より変わっていない。

 優しさは弱さの裏返し。乱世に置いて無用かつ弱点と成り得る。

 でも、その優しさがあるからこそ救われる者は必ずいる。国を統べる上で優しさが必要な時とてあるかもしれない。


 蘇芳は顔を上げ、姿勢を正す。

 紫月を真正面からまっすぐ見据え、三つ指をつく。


「僭越ではございますが、この蘇芳、全身全霊を持って紫月様にお仕えします」


 今は務めすら満足に果たせない、優しさに甘えるばかりの、情けない身ではあるけれど。立場にも向けられる想いにもふさわしい、名実共に彼の妻になっていきたい、と、蘇芳は決意を新たにしたのだった。




 そして、翌年の暮れ。

 二人の間には嫡男となる男児が、その後も二年置きに男児二人と女児一人、合わせて四人の子宝に恵まれた。

 明るく素朴な人柄、奥を取り仕切る才覚も踏まえ、蘇芳は『尾形の御袋様』と家臣団からも領民からも慕われ、名実共に紫月の妻としての立場を確立した。




 昔がたり・弐(了)

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