昔がたり・壱(後編)(☆)
※直接的ではないですが、性暴力を匂わす描写があります。(樹、伊織、周は行っていません)
(一)
城下の一角に立つ自邸の門を伊織と潜った樹は、前庭を抜け、屋敷の裏手へと回る。
母屋と台所の境目にあたるその場所には大きな井戸があり、その井戸端に襷がけ姿の若い娘がいた。娘は両の掌を擦り合わせ、井戸屋形の滑車を使い、鶴瓶桶で水を汲もうとしている。
「おう、帰ったぞ」
「
樹を義兄と呼んだこの娘、蘇芳は桶から一旦手を離し、顔を綻ばせた。
裳着を迎えてまだ一年も経たない、数え十四歳らしいあどけない笑顔だ。
「久しぶりじゃのう、蘇芳殿。どれ、儂が代わりに汲んでやろう」
「いけません、お客様のお手を煩わせるなど……」
「よいよい、かまわぬかまわぬ。のう、樹?」
「こいつは客であって客じゃねぇ。甘えとけ」
でも……、と、控えめに食い下がる蘇芳から桶を奪うと、伊織はがらがらと滑車を井戸へ落としていく。水を汲みながら、蘇芳に気づかれないよう、ちら、と彼女の腹周りを横目で見やり、すぐに逸らす。小袖の上からでもごまかしきれない腹のふくらみが、伊織を居たたまれなくさせる。
「かたじけのうございます」
「今は大事な身。力仕事は極力、他の者に代わってもらうのじゃ」
返事の代わりに蘇芳は再び微笑む。が、先程の笑みと比べ、どことなく固い。
伊織と蘇芳のやり取りを眺める樹に至っては苦渋に満ちた顔をしている。
裳着を迎えて間もない少女が子を宿す。それ自体はさして珍しいことでもない。
成人と共に夫を迎えることもザラである。
蘇芳の懐妊が問題なのは、紅陽に強引に手をつけられたあげくの結果であり、『たった一度で?』と、そのたった一度で蘇芳への興味をとうに失くしたため認知すらされなかったからだ。
妾腹の腹違いの妹とはいえ、樹にとって蘇芳は大切な妹で、元服直後に戦で父を亡くし、家の主となった身であればこそ、守るべき対象であったのに。
次期領主の座を約束された紅陽でなければ、八つ裂きにしていただろう。否、周と伊織の二人掛かりによる(言葉と物理を最大限駆使した)猛説得がなければ、紅陽相手であろうとかまわず刃を向けていたかもしれない──
「おい、伊織。何ぼさっとしてやがる。さっさと上がれ。置いてくぞ」
「義兄上、無礼ですよ?親しき中にも礼儀あり、です」
「こいつや周に対して礼儀なんてあるかよ……、いって!」
「もう!」
堪りかねた蘇芳が頬を膨らませ、樹の尻をばちこん!と強く叩く。叩かれた反動で、樹が持つ桶の水がちゃぷん、大きく揺れる。
「ぶふっ!ふ、二人とも元気だのう」
「はいっ。元気がなければ義兄上といても、心の臓がいくつあっても持ちませんから!」
「あぁん?おま……、言いやがったな?」
くすくすと実に楽しげに、蘇芳はあっけらかんと笑う。
屈託のない笑顔に、幼き頃の杜緋の笑顔が重なる。
どうか、この娘の笑顔は消えることのないように──、と、伊織は心中ひそかに願った。
(二)
「……と、あの二人にも不遇な時代があって」
「周殿。二つ三つ、よろしいか」
「ん?」
「あの二人も『暇な浪人風情』で狼藉者たちのこと、言えた義理ではないのでは?」
「あ、気になったのそこ?」
「やってる行いが今と大して変わらぬ。変わったのは年と、
「うん、たしかにね」
「それから、まことに不憫なのは蘇芳様であって、あの二人ではない」
きっぱりはっきり正論言い切る氷室に、さすがの周も返す言葉が出てこない。
「だが、主や周殿、樹殿が今の御屋形様を領主に据えたのは正しいと思う。でなければ、人も土地柄も豊かな国にはなっておらぬ」
「蘇芳様も最初のお子共々今はお幸せに暮らしてるしね。御屋形様が『正式な妻は蘇芳以外有り得ん。蘇芳を娶れなければ一生妻帯せぬ!』ってねぇ……、最初で最後の我儘を。あの樹がすっかり卒倒してねぇ、可っ笑しかったらなかった」
「目に浮かぶようだ」
氷室の口角が、ほんのごくごくわずかに上がる。
また珍しいものを見てしまった。ほっこりしていると、引きずるような足音が主殿へと近づいてくる。
「す、すまんのう……、待たせた」
「うわぁ、顔色真っ青」
腹を強く押さえ、伊織はふらふらと周と氷室の間に胡坐をかく。
「伊織を待ってる間、氷室ちゃんと昔の話をしていてね」
「……昔の話?」
「伊織と樹が傾奇者ぶって領内暴れてた頃の……」
「わああああ?!やめい!黒い歴史をほじくり返すでないっっ!!」
「ほじくり返すも何ももう話しちゃったし?」
「主、心配するな。今も昔もお主がやってることに大差ないことがわかっただけだ」
「いやあああああ!」
畳を転げまわりそうな勢いで、羞恥に悶絶する伊織に、周と氷室はうるさそうに耳を塞いだのだった。
昔がたり・壱 (了)
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