第12話 邲(ひつ)の戦い(紀元前597年 鄭)

 しんの士会(し・かい)に潁水(えいすい)の戦いで敗れたのと前後して、荘王(そうおう)はある青年を令尹(れいいん。宰相)として抜擢しました。

 彼の名を、蔿艾猟(い・がいりょう)といいます。


 蔿艾猟いがいりょうは、かつての若敖(じゃくごう)氏の乱で非業の最期を遂げた蔿賈いかちゃんの忘れ形見、すなわち蔿賈いか息子で、別名を孫叔敖(そんしゅくごう)といいました。

 孫叔敖そんしゅくごうは、父の蔿賈いかちゃんが優れた将軍だったのに対して優れた政治家で、荘王をよく支えて国を豊かにしつつ民衆をく導いたことで、楚屈指の名宰相の一人に挙げられています。


 周りの小国を侵略したかどうかは、個人的に気になるポイントですが。



 潁水えいすいの戦いの翌年、荘王はまたもていを攻め、今度は服従させました。

 その後、前年に貴族が君主を殺すという事件のあったちんを滅ぼし、絶世の美女と名高い夏姫(かき)を楚に連れ帰ったりします。ただし陳については、家臣に諫められてすぐに復活させていますが。


 この陳での反乱(氏の乱)は、君主側の行いが「え!? こいつフィクションの暗君じゃなくて実在人物なの!?」というくらいにクソすぎて、殺されても「残念でもないし当然」というのが……。

 君主を殺した貴族(夏姫かきの息子)も、男塾っぽく言うなら「三人の腐れ外道どもに母を辱められて、己も白昼堂々侮辱されて。それで下を向いているくらいなら、俺はすぐにでも男をやめてやるぜ」という気持ちだったでしょうか。

 このあたりの話も書きたかったんですけどね(ため息)。


 そしてさらに翌年(紀元前597年)、服従したはずの鄭がまたも晋へ通じようとしたため、荘王はまたまた鄭を攻めました。

 ……何回やりゃ気が済むんだこの天丼。


 今回は晋の全軍(中軍・上軍・下軍)を引っ張り出すつもりだったのか、楚の全軍(中軍・左軍・右軍)で出撃しています。

 そして荘王の思惑どおり晋も全軍で出撃したのですが、黄河に至ったあたりで「鄭が楚と講和し、ベテラン将軍の潘尫(はん・おう。第6話に登場)が鄭に入った」との報が入りました。


 このとき晋の中軍の将(ちゅうぐんのしょう。晋軍のトップ)だった荀林父(じゅん・りんぽ。は「父のような人物」という意味の尊称)は、

「救援にはもう間に合わない。だったら、楚軍が撤退した後に改めて鄭を攻めても遅くはないだろう」

 と言い、引き揚げようとしました。


 上軍の将(しょう。軍の指揮官)に昇進していた士会しかいもまた、

「荘王と孫叔敖そんしゅくごう、名君と名宰相が治める今の楚は、徳(服従した者を安撫する)・刑(離反した者を攻める)・政(政治)・事(軍事)・典(法典)、礼(礼法)がまっとうに運用されている。こういう相手を攻めるのはよろしくない」

 と賛成します。


 しかし、中軍の佐(さ。軍の副官)である先縠(せん・こく)が、二人に異を唱えました。

「ハア!? 軍を編成して出動しておきながら、敵が強いからって退却するとか、男のやることじゃねーわ! 男を下げてすごすご帰るなんざ、おめーらジジイどもならできるんだろうが、俺はごめんだね!」

 と、勝手に自分の部隊を率いて黄河を渡りはじめます。


 先縠せんこくは、曾祖父が覇者・文公ぶんこうに仕えて以来の名門のお坊ちゃまなので、手柄を立てるチャンスを失いたくなかったのでしょう。しかし、トップを無視した独断専行はいけません。


 これを見て、司馬(軍のトップである楚と違い、こちらは将帥の補佐)の韓厥(かん・けつ)が、荀林父じゅんりんぽに進言しました。

「もし先縠せんこくどのが敵の手に落ちたりしたら、あなたの罪は重大ですぞ。もはや進軍するしかありません。戦が上手くいかなかったときは、元帥お一人で罪をかぶるより、みんなで分担した方がましではありませんか」


 かくして晋軍全体も、先縠せんこくを追って黄河を渡りました。

 なんかもう既にここからグダグダのにおいが漂ってますね。


 さて、晋軍が黄河を渡ったという情報は、宿営していた楚軍にも伝わります。

 荘王と孫叔敖そんしゅくごうはここらで引き揚げようとしましたが、伍挙(ご・きょ。第5話などに登場)の父であり長老格の伍参(ご・しん。ごさんとも)が反対し、荘王に戦闘を勧めました。


 孫叔敖そんしゅくごうは内心おいおいちょっと待てやジジイ、と思いましたが、立場は自分が上でも長老相手なので、なるべく下手に出て説得しようとします。

「あのね、おじいちゃん。俺らは去年は陳を攻めて、今年はこうして鄭を攻めて、戦争が続いてるでしょ? 戦って勝てなかったら、おじいちゃんの肉を食うだけじゃ話はおさまらないよ?」


 どんな説得だ、という気もしますが、言われた伍参ごしんも引き下がりません。

「では、勝てたなら、令尹れいいんには戦略なしということになりますのう。敗れたとしても、この爺の肉は晋の軍中にあるでしょうから、とても召し上がれますまいて」

 ニヤリと笑って、白くなった髯(あごひげ)を撫でました。


 このクソジジイー!! とキレそうになった孫叔敖そんしゅくごうでしたが、ぐっとこらえ、引き揚げの指示を出そうとします。

 そこで伍参ごしんは荘王に改めて説きました。

荀林父じゅんりんぽはトップに就任してから日が浅く、命令を徹底させることができていません。先縠せんこくの小僧は自分勝手で、命令に従う気がありません。こんなざまで戦に勝てるはずがない。ましてや、我が楚軍は王自らが率いておられるのに、晋軍を率いるのは君主ではなく臣下です。王の軍が臣下の軍を避けたとあっては、天下の恥ではありませんか」


 天下の恥。これには荘王も、苦笑いして頭を掻くしかありませんでした。

「こいつぁ、てートコロを突かれちまったナ……。孫叔敖そんしゅくごう、もう少し北へ行くぞ。戦うかは向こうの出方次第だが、俺ぁ天下に恥を晒さねーギリギリのラインを探る」


 荘王に言われては、孫叔敖そんしゅくごうもこれ以上反対はできません。軍を北上させ、管(かん)という土地に宿営して晋軍を待ちました。

 晋軍が現れて陣を張ると、荘王は使者を送り、「俺ら別に晋と戦うつもりはネーからさ。お互い、あんまり長居しないうちに帰ろうや」と申し入れます。


 晋軍が現れる前に帰っては、「王の軍が臣下の軍を避けた」と言われるおそれがあります。しかし、互いに陣を張り対峙した上での話し合いによって帰るのであれば、何ら後ろ指を指されることはない。

 これが、荘王の考える「天下に恥を晒さないギリギリのライン」でした。


 荀林父じゅんりんぽと士会は申し入れに賛成しましたが、先縠せんこくはそれが不満で、使者が帰ってから部下を楚軍に派遣してこう言わせました。

「すんません、さっきの返事は間違いっす。俺ら、楚軍を叩き出すように君主から命じられてるっす。だから仕方ないけど、仕方ないけど戦うしかないっす」


 正反対のことを言われた荘王は、呆れて天を仰ぎました。

「マジで意見の統一できてネーんだナ、アイツら……。仕方ネー、もう一回使者を出すか」

 幸い、今度は先縠せんこくからの妨害もなく、無事に結盟の日取りが決まりました。


 ところが。

 晋軍の中に、魏錡(ぎ・き)、趙旃(ちょう・せん)という二人がおりました。

 二人とも、先縠せんこくと同様に名門の家柄でしたが、卿(けい。上級貴族)になりたくて果たせずに不満を抱いていたのです。


 ですので手柄を立てたいという気持ちが強く、最初は荀林父じゅんりんぽに楚軍へ攻撃をかけたいと願い出ましたが許されず、今度は結盟にあたって楚の人を招く使者に立ちたいと願い出て、こちらは許されました。


 魏錡ぎき趙旃ちょうせんが出て行ったことを知った上軍の佐の郤克(げき・こく)は、「何考えてやがんだ、荀林父じゅんりんぽのとっつぁんはヨ!」と吐き捨て、先縠せんこくに詰め寄りました。

「オイ、先縠せんこくサンヨ、アイツらアンタと同じタカ派じゃネーか! 奴ら絶対ゼッテー楚軍に攻撃仕掛けるぞ! 今のうちに防備固めとかネーと、キレた楚軍が襲ってきたら一発パツイチで終わっちまうゾ!?」


 郤克げきこくは郤缺(げき・けつ)という名将の息子で、当人も父に劣らない将才の持ち主ではあるのですが、脚が悪くびっこを引くような歩き方がコンプレックスでした。

 そのため、少しでも自分を軽んじるような態度を見せた者には身分が上であろうと誰彼構わず噛みつき、力でねじ伏せてきたのです。


 郤克げきこくの迫力に、一瞬ひるんだ様子を見せた先縠せんこくでしたが、目をそらすとふんと鼻を鳴らしました。

「先に鄭が戦を勧めてきたが、下軍の佐の欒書(らん・しょ)が反対した。今また楚が和議を求めてきたが、友好を実現できない。命令がふらついてばかりいる軍が、いくら防備を整えたとて無駄なことよ」


 郤克げきこくの頭に、かっと血が上りました。

「テメー! 友好を実現できないって、自分テメーを棚に上げてよく言えたなこの野郎!」

 郤克げきこくは拳を固め、先縠せんこくに殴りかかります。しかし、一瞬で割って入った士会に受け止められました。


 士会は郤克げきこくの目を見て、ゆっくりと首を振ります。それだけの動作で、郤克げきこくの頭に上った血が元に戻りました。晋軍中でただ一人、士会だけが、この狂犬をおとなしくできたのです。


 握った郤克げきこくの拳を外し、士会は先縠せんこくを諭すように言いました。

こくの言うとおり、あの二人が楚軍を怒らせて攻めてこられたら、我らはあっという間に壊滅する。防備を整えておくにこしたことはない。攻めてこないとわかってから防備を解いて結盟しても、友好を損なうことにはならないのだから」


 しかしそれでも、先縠せんこくはふて腐れたような顔をしてうんと言いません。郤克げきこくは肩をすくめ、士会に促しました。

「パイセン、このお坊ちゃんにゃ言ってもムダっスわ。俺ら上軍だけでやりましょうや」

「そうだな……。だが、下軍にもこれを伝えておかねば。連絡が間に合えばいいが」


 さて、楚の人を招く使者として向かったはずの魏錡ぎき趙旃ちょうせんは、郤克げきこくの想像どおり楚軍に不意打ちを仕掛けました。

 しかし、兵の勇猛さにおいて楚の右に出る国はありません。二人とも、あっさり返り討ちにあってしまいました。


 おまけにタイミングの悪いことに、後になって荀林父じゅんりんぽが出した迎えの車が出す土煙が、潘尫はんおうの息子である潘党(はん・とう)に見つかってしまったのです。潘党はんとうは晋軍の来襲と勘違いして急報し、孫叔敖そんしゅくごうは「晋軍」に荘王が囲まれるのを恐れて進軍を命じました。


 楚軍の兵車(古代ローマのチャリオットとは遠い親戚)は疾走し、兵士は早駆けして晋軍に襲いかかります。

 防備を整えていなかった晋の中軍と下軍はなすすべもなく、飢えた狼に食べられる草食獣のように蹂躙されていきました。


 パニクった荀林父じゅんりんぽは、こともあろうに、「最も早く黄河を渡って帰った者に褒美を出す」という命令を出してしまったのです。おかげで晋軍は大混乱におちいり、中軍・下軍の兵士たちは我先にと舟に群がりました。


 しかし舟は少なく、とても全員が乗ることはできません。先に乗った兵士が、後から乗ろうと舟の縁を掴む兵士の手の指を斬ったため、船底には斬られた兵士の指が両手ですくえるほどに転がっていたそうです。


 三軍中二軍が壊滅した一方、防御態勢を整えていた上軍は動きに乱れがありません。そこで荘王は、潘党はんとうに遊撃隊を率いさせ、楚に従う唐(とう。小国?)の軍とともに向かわせました。


 郤克げきこくの息子の郤錡(げき・き)は、迫る楚軍を迎え撃とうと士会に進言しましたが、士会は首を振ります。

「楚軍の勢いは絶頂だ。全軍で集中攻撃をかけられてしまえば、上軍は全滅する。ならば敗北の非難を三軍で分散し、戦わずに民を生かすのも悪くはない」


 と、自ら殿しんがりとなって撤退に入りました。

 俗に、撤退戦の殿しんがりは、「十人中九人が死ぬ」と言われるほどの激しさです。しかし、このときの士会の指揮は精緻を極め、ほぼ損害なし(!!)で撤退に成功しています。


 報告を受けた楚軍首脳部、特に荘王は、「ええい、連邦のモビルスーツ……じゃない、晋の士会は化物か!」とか、「あの士会何回やっても倒せないorz」と叫びたかったことでしょう。

 いやほんと冗談抜きにチートだよこの人の強さ。


 その後、楚軍は邲(ひつ)に陣を張りました。潘党はんとうが、荘王に京観(けいかん)を築くことを進言します。

 京観けいかんとは、戦勝を記念して築かれるモニュメントです。……ただし、材料は敵兵の死体ですが。


 しかし荘王は、進言を拒否しました。

「お前は解っていない。そもそも『武』という字は、ほこを止めるという意味だ。また『武』とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの。しかるに、余には七つのどれも備わっておらん。京観けいかんとは、元来は不逞の輩を懲らしめるための大きな築山だ。しかし今、晋にさしたる罪過はなく、民はみな君主に忠誠を尽くしている。京観けいかんを築くなど許されるものではないわ」


 結局荘王は、黄河の神を祀り、先君の廟を建て、戦勝を報告したのみで引き揚げました。


 実際のところ、「武」の字は「ほこ」と「止(=足)」から成り、「ほこを進める」という意味だそうですが。なにそれ正反対じゃん。



 この(二大国決戦の割にはえらいグダグダな)ひつの戦いによって、晋と楚の力関係はついに逆転し、野蛮人扱いだった楚が中原諸国を抑えて実質的な覇者(周王の代役としての諸侯のまとめ役)に躍り出ることとなったのです。

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