恋心

 小学四年生の夏、僕は初めて恋に落ちた。初恋で一目惚れだった。

 その日は、学校に忘れ物を取りに行った帰りに、運悪くいじわるな六年生の三人組に捕まって、中庭に連れていかれ、おもちゃにされていたところだった。

 怖くて声が出ないし、身体が蹴られて痛かった。ランドセルを投げつけられ、中庭の土でぐちゃぐちゃに汚れた服を見て、涙がぽろぽろ流れてきた。


(助けて…)


 声にならない言葉が悠佑の開かれた口から空気に溶けていく。

 三人組の一人が悠佑に向かって足をかざしてきたので、反射的に目をつぶって身体を縮こまらせた。すると、


「何してんだ、やめろよ!」


 三人組の誰の声でもない声が悠佑の耳に入ってきた。悠佑が顔を上げると一人の男の子が悠佑の前で手を大きく広げて立っているのが見えた。悠佑は、今クラスで流行っている戦隊ヒーローを思い出した。窮地に陥った人たちを颯爽と助けるヒーロー。この人が悠佑のヒーローだと思った。そしてこれまでに感じたことがない、胸の高鳴りが止まらなかった。彼のことは知っている。同じクラスの月城樹つきしろいつき。樹はクラスの中心人物的な立場で、いつも人に囲まれている。運動神経がよくて、誰にでも気さくに話しかけるので、悠佑とも普通に話すけれど、いつも一緒にいる関係ではなかった。その彼が今、悠佑の前に立って上級生から守ろうとしてくれている。


 六年生三人組は、今度は樹に殴りかかろとしていたが、


「こらー!何してる!」


と先生が中庭のほうに向かって叫ぶ声が聞こえ、三人組は舌打ちをしながらも先生に見つかるのは面倒なようでそそくさと、荷物を持って帰っていった。樹がこちらを振り返り、悠佑を見下ろす。「大丈夫?」と言って、手を伸ばしてくれたと同時に先生が中庭に入ってくる。悠佑達のクラスの担任だった。


「どうした、服がよごれているじゃないか」


 樹に引っ張り上げてもらい、立ち上がった悠佑の様子を見て、先生が目を見開く。どうやら何かを察したらしい。悠佑は困惑した。確かにあの三人組は怖かったし、蹴られたところは痛いけれど、何より大事にしたくなかった。家族に心配をかけたくなかった。悠佑がどう言い訳をしようか黙って俯いていると、


「俺が突き飛ばしました」


 平然とした声で樹が言った。悠佑は驚いて樹の方を向く。横顔は堂々としていたが、これは大嘘だ。樹はむしろ助けてくれた方なのに。


「そんな訳が無いだろう。助けて、中庭に来てって職員室に駆け込んで先生を呼んだのはお前だろ?」


 先生はあきれた声で言った。先生が来たのは偶然じゃなく、樹が呼んでくれていたらしい。どこまでヒーローなんだ。


「それもそうだった。じゃあ泥遊びしてました」


 ケロッとした顔で腕を頭の後ろで組むと、これまた樹は平然と嘘をついた。樹の服は全く汚れていないのに、泥遊びなんておかしい。それでも樹の堂々とした態度に悠佑は思わず吹き出してしまった。樹はそんな悠佑を見て少し驚いたが、すぐに歯を出して笑った。その表情に不覚にもドキッとしてしまう。先生は訳が分からないといった顔で、笑いあう僕たちを見ていた。結局、先生には本当の事情を話して、親には言わないでほしいとお願いした。樹も一緒に頭を下げてくれた。先生は渋っていたけれど、あまりに真剣な二人の様子に仕方ないと言って三人だけの秘密にしてくれた。「気を付けて帰れよ」というセリフを残して先生は中庭から出ていった。中庭には悠佑と樹の二人が残った。


「ありがとう」


 すぐに悠佑は樹に深々と頭を下げてお礼を言う。樹と話すときこんなに緊張したのは初めてだ。


「早く気づけなくて、ごめん。ケガしてるよね?」


 樹が眉を下げた心配そうな顔で、悠佑の顔を覗き込む。樹が謝ることなんて一つもないのに。


「大丈夫大丈夫!」


 樹にこれ以上心配かけまいとわざとらしく明るい声を出し、笑顔を作る。


「大丈夫なわけないだろ!あんな、年下に三対一なんて…」


 樹は悔しそうに顔をゆがませる。それだけでさっきの恐怖とか、身体の痛みとか一気に軽くなってしまった。自分のためにこんなに怒ってくれる人がいることに、先ほどとは違う涙がこぼれた。悠佑の泣き顔を見た樹は、明らかに動揺した様子で悠佑の周りをワタワタしていて、それがおかしくて笑みがこぼれた。


「ほんとに大丈夫!そりゃ怖かったけど、助けてくれて嬉しかった…」


 悠佑が本心を言っていることに気づいた樹は、やっとほっとした顔をした。


「でもこれ、親になんて言おう…」


 悠佑は自分の服の裾をつかんで泥まみれになったものを見つめる。絶対に変に思われる。


「それなら、俺にいい考えがあるんだけど」


 樹はそういったかと思うと背負ってあったランドセルをそばに置いて、中庭に寝転びだした。樹の突飛な行動に悠佑は開いた口がふさがらない。つくづく予想のできない男子だ。教室で周りに人が集まるのも納得がいく。樹には何か惹きつけられるものがある。


「何してるの⁉」


 思わず悠佑が叫ぶが、時すでに遅し。樹の服は見る見るうちに泥だらけになっていく。少しの間、寝転がったまま行ったり来たりして、全体的に泥をつけると立ち上がった。


「よし、じゃあ悠佑の家、行こう」


 何事もなかったようにランドセルを背負って、悠佑に話しかけた。


「え、何?どういうこと?」


 状況が理解できずに突っ立っていると、


「俺が悠佑の親に説明するよ。二人で泥遊びしましたって」


 と言った。


「そんな、樹くんにそんなことさせられないよ!」


 樹の提案に、悠佑は首を横にぶんぶんと振る。


「でも、俺の服ももうこんなだし、いいじゃん、どうせなら二人で叱られよーぜ」


 と笑った。

 樹は周りをよく見ている。そして人の気持ちを察して、欲しい言葉をかけ、行動するのが上手だ。僕と同じ小学生とは思えない。さっきも悠佑の気持ちを察して先生に言い訳してくれたし(バレバレの嘘だったけれど)、今も僕のために自分の服を汚してまで親に説明をしようとしてくれている。こんなことしても樹には何のメリットもないのに。


「ごめん、」


 申し訳ない気持ちがどんどんと膨らんで、謝罪の言葉を口に出す。


「ごめんじゃなくてありがとうがいいな、俺」


 そう言って、樹は再び歯を見せて笑った。そして悠佑の手を握って門に向かって歩き出した。つながれた手から自分の心臓の音が樹に伝わってしまいそうで恥ずかしいのに、つないだ手を離さないでずっとこのままでいたいという気持ちも入り混じって、自分の恋心を自覚した。

 結局親には怒られたけれど、変に思われずに泥遊びで通ってしまったのが面白かった。樹の方を見ると、いたずらっ子みたいに笑っていた。お母さんも樹のことが気に入ったようで、怒った後に「今度は家で遊んだら?」と言った。その提案に二人で顔を見合わせて元気よく返事をした。この日から樹と悠佑の距離はぐっと縮まった。暇さえあれば二人で遊び、お互いの家族とも仲良くなって、お互いがお互いを大切に思う親友となった。



 自分が普通ではないのだと気づいたのは、小学六年生の修学旅行の時だった。

 修学旅行の部屋割りと班決めは、樹が大人気で引っ張りだこになっていた。悠佑は完全に出遅れてしまい、気づいた時にはすでに樹をかけたじゃんけんが始まっていた。今更そこに入る勇気もなく、突っ立っていると、


「悠佑~班と部屋に一緒にしよー」


 そう声をかけてくれたのは夏目新なつめあらた。三年生の時からずっと同じクラスで、かなり仲がいいほうだと悠佑は思っている。夏目と同じなのは安心だった。

 部屋も班もわかれてしまったけれど、悠佑は樹と同じクラスだというだけで、内心とても満足していた。五年ではクラスがわかれてしまっていたのだ。けれど相変わらず二人は仲が良かったし、悠佑は樹のことが好きだった。


 そんなこんなで迎えた、待ちに待った修学旅行。バスに座ってガイドさんの話を聞く。バス内は、班ごとに固まって座っていて、班の区切りで悠佑の前の席に樹が座っていた。樹はバスの席の隙間から悠佑を覗いたりしていて、こういうお茶目なところも可愛いと思った。悠佑は心の中でキュンキュンしながら手を振った。

 一日目はあっという間に終わって、気づいたらホテルに着いていた。今日は、午前中はクラスで団体行動だったので、樹は暇さえあれば悠佑の隣に来てくれて、一緒に行動することができた。樹を独り占めできるのが少し申し訳なくも思いながらも、嬉しかった。ホテルに着いて豪華な夕食を食べ、クラスごとにお風呂に入ったが、樹の身体を直視できなくて、なるべく距離を取りながら、早めに済ませた。



「なあ、好きな奴いる?」


 歯磨きを終え、布団を敷いてぼちぼち寝るかと言ったところで、夏目が口を開いた。

 他の男子たちは「急に何だよ~」と言いながらも、部屋の電気を消し、にやにやしながら布団に入って互いの顔を近づける。言い出しっぺの夏目は「俺はいないけどな~」と言ってのけ、他の男子に話を回す。みんなそれぞれの好きな人の名前をあげていき、「まじかよ~」「あいつのどこが好きなん?」「お前らライバルじゃん(笑)」などと言って盛り上がっている。そしてとうとう悠佑の番になった。悠佑は今まで誰にも言ったことがなかった自分の気持ちを、この場で初めて打ち明けることになった。


「悠佑の好きな人って誰?」


 夏目の言葉に、部屋にいる全員が悠佑に注目する。悠佑はドキドキしながら、好きな人の顔を思い浮かべ口にした。


「樹」


「………え?」


「あ、だから、樹」


 緊張で声が小さくなってしまったんだと思い、もう一度口にしたがそういうことではなかった。部屋の空気が一瞬で凍ったのが分かる。悠佑は、これは言っちゃいけないことだったとすぐに察した。暗がりでもみんなの顔が引きつっているのが見えた。思い返せば、他の男子が口にした好きな人はみんな女の子で、男の子の名前を言っている人は一人もいなかった。今まで自分の気持ちを言ったことがなかったせいで、全く違和感に気づかなかった。

 僕は、僕はもしかしたら普通じゃないのかもしれない。


「あ、」


 何とか言い訳しようと口を開くと、


「もう消灯時間だぞ!そろそろ寝ろー!」


 という先生の声と部屋の扉が開く音がした。周りは焦ったように布団をかぶり、眠っているふりをする。悠佑も同じように布団をかぶった。先生は部屋には入ってこずに、扉を閉じた。足音が遠ざかっていく音が聞こえたが、誰も続きを話し始めることはなかった。悠佑も怖くて話しかけることが出来なかった。


 二日目。一泊二日なので今日が最終日だ。悠佑は昨日、全く眠れなかった。色々と考えてしまったからである。朝、目が覚めてから、朝食まで部屋の誰とも話さなかった。避けられているわけではなかったけれど、悠佑も気まずい気持ちで、なんと話しかけたらいいか分からなくなっていた。もしかしたら誰かが昨日のことを樹に言うかもしれない、というのが怖かったけれど、幸い誰かが昨日のことを口にしている様子はなく、安心した。しかし、樹が悠佑に話しかけるたびに、誰かが冷たい目線を向けているように感じて樹を避けるように行動してしまった。そうして、修学旅行は終わった。



 修学旅行の振り替え休日が終わり、普通授業が始まった。悠佑はいつも通り家を出て、学校に向かった。純粋に樹に会えるのが楽しみだった。軽い足取りで教室に行き、クラスのドアを開けると、教室にいた全員が一斉に悠佑を見た。いつもと明らかに様子が違う。嫌な予感がする。震える足取りで中に入ると、黒板に何か文字がかかれていた。それを見た瞬間、絶望した。悠佑は膝から崩れ落ちた。


《ゆうすけは男好き》


 そうでかでかと晒された文字は、乱雑だったが、はっきりと白のチョークで書かれていた。クラス全体を見まわすと、引きつった顔をした人や、気まずそうに俯く人、「きも」ぼそっとそうつぶやく人色々いたが、そのすべてが好意的なものではなかった。そして、その渦の中心にいたのは、夏目新だった。夏目は悠佑の反応を見て、周りの友人たちと、くすくす笑っていた。


「みんな聞いて~、悠佑の好きな人は樹でーす!男子は気を付けたほうがいいぜ、いつそーゆー目で見られるか分かんないからさ~(笑)」


 夏目の友人の一人がそう言うと、周りにいる男子が「こえー(笑)」と言って笑った。


(違う、違う。僕は男子が好きなわけじゃない、樹が好きなだけなのに)


 目頭が熱くなって、慌てて目を伏せる。今、泣いたらダメだ。

 女子たちは「男子サイテー」と言いながらも笑っていた。


「てかさ、樹が自分を好きになってくれると本気で思ってんの?」


「気持ち悪い。」


 続けて発された夏目の言葉に全身が熱くなる。きっと今悠佑は耳まで赤くなっているだろう。すでに悠佑の心はボロボロになっていた。


(僕って、気持ち悪いのか…)


 自分が人を好きになることで、周りを不快にさせてしまった。何よりも樹に被害が及ぶこと、迷惑をかけることが苦しかった。言わなければよかった。あの時、僕も「好きな人はいない」と言って自分の胸の内に大事に大事にしまっておけばよかったのに。秘めておけばよかったのに。悠佑は自分を責めた。


 続々と登校してくる生徒たちも、黒板と周りの様子を見て気まずそうに席についていく。床に座り込んだ悠佑に声をかける者はいなかった。そして、予鈴のチャイムぎりぎりに樹は来た。入ってすぐに座り込んだ悠佑に気づいて駆け寄り、「どうした?」と声をかけ、背中をさすった。悠佑は嬉しくて、その手に安心して、必死に我慢していた涙がぽろぽろ流れた。夏目は待ってましたというばかりに樹に話しかけた。


「樹~悠佑って樹のこと好きらしいぜ。そんなに優しくしたら、もっと好かれて襲われちゃうんじゃね~の~?(笑)」


 教室でぎゃははと下品な笑い声が響き渡る。

 それで樹が黒板に気づいた。


(終わった。全部知られてしまった。樹は心配してくれたけど、黒板を見たら僕のことを気持ち悪いと思ったに違いない)


 しかし、そんな悠佑を暖かい何かが包み込んだ。それが、樹が悠佑を抱きしめているのだと気づくのに数秒かかった。


「大丈夫」


 樹の声が耳元で響く。短い言葉だったけれど、とても頼もしかった。


「おいおい、そういうことするとまた勘違いするんじゃねえの~?(笑)」


 夏目達は樹の行動に驚きながらも、焦った声色で言葉を紡ぐ。


「だから?」


 さっきの「大丈夫」といった声と同一人物か疑うほど、低く怒りを込めた声に、教室がぴりつく。


「え?」


 樹の言葉に夏目は戸惑っている。きっと樹もクラスの人達と同じように、すぐに悠佑から離れると思っていたのだろう。悠佑を気持ち悪がるのだと思っていたのだろう。悠佑さえもそう思っていたのだから当然だ。


「だから、悠佑が好きな人のことでお前らに迷惑かけたのかよ」


 低く安定した樹の声は、やっぱり同い年とは思えなくて。


(どうして、いつも欲しい言葉をくれるんだろう)


 樹といると自分がとても弱くなったように涙が止まらなくなる。


「…っ」


 夏目は何も言い返せずに唇を噛んだ。

 本鈴が鳴り、樹が黒板を消していると、少し遅れて先生が入ってきた。



 この日から悠佑に対するいじめが始まった。女子は悠佑が近づくと「気持ち悪い」と言ったり、くすくす笑ったりして馬鹿にする。男子は悠佑とあからさまに距離を取り、少しでも悠佑に近づくとわざとらしく身体をそらしたりした。先生も明らかに違うクラスの様子に気づきながらも、見て見ぬふりをしていた。次第に悠佑の話は同級生の間に行き渡り、悠佑の味方は学校でただ一人だけになった。


 樹だけは、どんな時も悠佑のそばを離れなかった。次の日も、また次の日も樹はいつも通り悠佑に話しかけてくれた。いつも守ってくれた。悠佑はとっくに樹がいないと生きられないような身体になってしまっていた。それが良くないことだと分かっていても、悠佑は樹から離れることはできずに、樹にすがってしまっていた。樹もそれが分かっていながら、悠佑を受け入れてくれていたと思う。悠佑の好きとは違えど、樹も悠佑のことをとても大切に思ってくれていたのだ。


 結局、卒業式まで悠佑へのクラスの態度は変わらなかったけれど、あれ以上悪くなることもなく、悠佑も樹がいたので、不登校にならずに学校に通うことが出来た。悠佑の気持ちに対する樹の返事はなかったが、このまま一緒にいてくれるならそれも悪くないと思えた。この先も当たり前に一緒にいると思っていた。

 式が終わって、外で記念撮影をしている同級生たちを横目に悠佑と樹は親を連れて、そそくさと学校から出た。夏目達が親に余計なことを言わないようにするためである。


 その後、悠佑の家と樹の家で卒業祝いをかねて、外でご飯を食べようということになった。樹のお母さんはかっこいい顔立ちで、可愛いよりは美人という言葉がお似合いの人だ。性格はサバサバとしていて、重い話でも軽く受け流してしまいそうな、ポジティブな雰囲気がある。樹の服が汚れたことを改めて謝りに行ったときも、「元気でよろしい!」と悠佑の肩を叩きながら、笑っていたくらいだ。樹の母の上にちょこんと座っているのは、樹の弟の柚樹(ゆずき)くんだ。まだ四歳なので、とても幼くて可愛いが、顔は樹にそっくりで、樹の小さい頃はこんな感じだったろうなと思わず想像してしまう。樹の父親は、今日はどうしても仕事を休めなかったらしく、泣きながら出ていったと、樹の母が教えてくれた。


 小学校の思い出話に花を咲かせ、食事を終えた後、店を出る。外はすっかり薄暗くなっていて、そろそろ解散しようとしていたところで樹が口を開いた。


「あのさ、悠佑」


 その声色は少しだけ震えていて、緊張感があった。悠佑は自然と身体が強張り、樹と向き合う。


「どうしたの?」


 お互いの親も不思議そうに立ち止まって二人を見ている。柚樹くんは樹の母親の腕の中で、すやすやと寝息を立てている。


「俺、引っ越すんだ」


 その言葉が一瞬理解できずに、頭が真っ白になった。

 てっきり一緒の中学校に行くものとばかり思っていた。だから、卒業式も悲しくなかったのに。悠佑は何も言葉にすることが出来ない。樹のお母さんが「あんた、まだ言ってなかったの⁉」とあきれた声で樹に話しかけ、悠佑の母も「聞いてなかったの?」と言った。どうやら知らなかったのは、この場で僕だけだったらしい。悔しさと恥ずかしさと色々な感情で悠佑の頭に血がのぼる。誰も、教えてくれなかった。樹でさえ。多分お母さんは、僕が知ってるうえで話題に出していないのを察して、口を出さなかったのだろう。


(樹が、いなくなる?)


 樹は悠佑が何も言わないのを心配して顔を覗き込む。樹の表情が変わっているような気がしたけれど、悠佑の視界はぼやけていてはっきり見えなかった。一度こぼれると次々に流れて、溢れて、止まらなくなる。そうして、その日はお互いの母親に連れられ、樹と僕はあっさりとお別れをした。


 樹は、悠佑が樹に依存していることを分かっていた。それで中々言い出せなかったのだと今では理解できる。でも当時の僕は樹に裏切られた気持ちでいっぱいだった。それでも時間は止まってくれなくて、春休みの中盤、樹の引っ越しの日がやってきた。母親に引っ張り出され、強制的にお見送りに行った。正直、樹に会いたくなかったけれど、どうしようもできなかった。


「悠佑…」


 リュックを背負った樹がこちらに気づく。悠佑はその顔を見た途端いろんな感情が沸き上がった。


「どうしてっ!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出ていた。


「嫌だよ、嫌だよ行かないで。行かないでよぅ……」


 最後は涙と一緒に、絞り出すように声を紡いだ。情けない。顔を上げられずに目を伏せていると、一つの影が伸びてきて後ろに伸びた悠佑の影と重なった。悠佑の腕が引かれ、暖かいぬくもりに包まれる。樹は悠佑を力いっぱい抱きしめた。


「大丈夫」


 耳元ではっきりと口にした声は、あの時よりももっと力強く、そして頼もしかった。


「大丈夫。また、絶対会える」


 そう言って樹は笑った。いつもと変わらない、悠佑の大好きな笑顔だった。

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