夏来にけらし

季節は初夏。高校二年生だと言うのに、真新しい制服に身を包んだ理由はただ一つ。


「―――今日からこのクラスに新しい仲間が増える。入れ」


担任の言葉を合図に、見知らぬ世界へと身を投じれば、三十人以上の人間から品定めをするかのような視線を向けられる。


白いチョークを持った担任が、黒板に私の名前を書いていく。その音をぼんやりと聞きながら、教室の後方にある窓の外の景色を見つめた。


私が生まれた街よりも遥かに栄えているのは、ここが都心だから。かと言って、無数のビルや朝の満員電車には慣れっこだ。

何故なら、田舎から越してきたわけではないから。


「―――転校生の、古織ふるおり柚羽ゆずはだ」


教卓の前に立った私は、深いお辞儀をした。

声にならない言葉を、唇に乗せながら。



「―――へえ!じゃあ古織さんは、この街のことを知らないんだね」


他所からやって来た転校生というものは、どこの学校でも質問攻めをされるのは当たり前だ。


私も例外ではないのだけれど、それはつい三分前に打ち切りになった。


唯一私に色々なことを聞いてくる少女以外はもう、誰も質問してきていない。

その理由は、私が声を出せないから。


「この学校は都会の一角にあるけれど、タチの悪い不良に支配されているんだよ」


【そうなんだね】


この学校のことを丁寧に教えてくれる彼女へと、返事の代わりに見せているのはスマートフォンの画面。


声が出せない私は、こうして音を持たない文字で、自分の意思を伝えることしか出来ないのだ。


私は半年前に声を失った。

当時警察から指名手配をされていた男に偶然にも遭遇してしまい、それが原因で声が出せなくなったらしい。


何故曖昧なのかというと、私もよく覚えていないからだ。事故に遭い、入院し、退院したのが先月。

都心に来た理由は、声を取り戻すため。


元々住んでいた場所からはそう遠くはないのだけれど、この街には大きな大学病院があるから引っ越してきたのだ。


何か質問はある?という彼女の問いに、私はメモ帳のアプリに言葉を打ち込んでいく。


【校舎の案内をお願いしてもいいですか?】


満面の笑みで頷いてくれた彼女に微笑み、私たちは席を立った。



「―――この突き当りにあるのが、PC室。その隣は第二資料室で…」


流石はマンモス校。全校生徒が千人を超えるだけあり、校舎内はとても広い。教室を除いて、授業で使われる場所や施設を案内してもらった私は、親切な彼女に頭を下げた。


「気にしないで。あ、私のことは聡美さとみって呼んでね」


そう言って、屈託のない笑顔を浮かべた彼女を見て、自然と頬が緩んでいくのを感じた。


まさかこんなにも優しい子に出逢えるとは思っていなかった。

声を出すことが出来ない私に対して、大抵の人は面倒だという理由で離れていくと思っていたから。


彼女は「はい」か「いいえ」で答えられる質問をしながら、校舎内を先導して歩いていく。その途中、ある階段の前で足を止めると、周りに人がいないことを確認してそっと耳打ちしてきた。


「柚羽ちゃん。この階段は絶対に使っちゃだめだよ。階段は中央のものか、職員室の横のものを使うのが暗黙のルールなの」


どうして、と唇を動かす。

けれどそれは音になっていない。

私は慌ててスマートフォンを取り出し、言葉を乗せようとしたのだが。


「──暴走族の溜まり場に直通しているから、だよ」


私の声にならない言葉に返事をしたのは、突然現れた男の子だった。


中性的な容姿。ほんの少し捲られたワイシャツの袖からは、白く細い腕が見える。


彼は妖艶な微笑みを飾りながら、私たちの元へと歩み寄ってきた。


「ココ、中央高校は、関東一の暴走族・神苑のメンバーの殆どが通っているからねぇ」


男性と私たちの距離が縮まるほどに、隣にいる聡美の顔が強張っていく。


どうしたの、と唇を動かそうとした瞬間、聡美は私の手首を掴んだ。ただならぬ様子から、この男の子が危険な人物であることを匂わせている。


「外の世界、真夜中の時間では神苑のメンバー。学校では不良のグループと化している、という感じかな?」


そうだよね?と彼が首を傾げた途端に、聡美は私の手を引いて走り出した。


「(さ、とみちゃん…!?)」


全速力で走る聡美につられ、私も後を追うように足を動かした。

そのせいで、伝えたい言葉を伝えることが出来ない。


さっきの男性は誰なの?


聡美とはどういう関係なの?


あの人が言っていた、暴走族ってなに?


聞きたいことが、たくさんあるのに。


走って、走って、走った先で。

ようやく足を止めた聡美は、真っ青な顔で口を開いた。


「さっきの…男は、神苑の元メンバーで、幹部だったの。私たちと同じニ年生。名前は、諏訪晏吏」


スワ アンリ、と聡美は言った。

聡美は唇を震わせながら、音を乗せていく。


「柚羽ちゃんが転校してくる前、アイツに関わってはいけないって、神苑の総長が言ったの。破ったら、制裁を下されるから」


「(せいさい?)」


またも、私の言葉は音になってはくれない。

彼女には永遠に聞こえないまま、熱を孕んだ風によって掻き消される。


「私は、諏訪がどんな奴かなんて知らない。何が神苑の怒りに触れて、どうして追放されたのかも知らない。けれど、これだけは知ってるわ」


聡美はゆっくりと顔を上げ、大きな瞳を揺らしながら、言葉を紡いだ。


「諏訪晏吏は、死神。シニガミって呼ばれてるのよ」


「(っ…!)」


さっきの男性は予想通り、危険人物だった。それだけでなく、暴走族とやらの元メンバーで。


暴走族の幹部がどんな位置にあり、どのような役割を果たしているのかは分からないけれど。言葉の意味通りなら、長を補佐する立場にあるはず。


「(…そう、なんだ…)」


暴走族なんて、今の時代は居ないものだと思っていた。だって、夜に騒音を響かせながらバイクを走らせるなんて、警察に捕まってしまうかもしれないのに。


そんなことをして何が楽しいのかなんて分からないし、何のためにやっているのかなんて分からない。理解しようとも思わないし、理解したくもない。


けれど、これだけは言える。

この学校にとって、私がやって来たこの場所には、権力者がいるということ。

一般生徒に恐怖を与えるほどの、強大な存在が。


「とにかく、あのスワアンリとは関わっちゃダメ。あの階段には近づいちゃダメってことは、覚えて」


「(は、はい…!)」


「それから、出来れば神苑の連中にも近づかないこと。美形が多いからって、身体の関係を持とうとする馬鹿な女が多いけど、真似なんかしちゃダメだよ」


「(はい…!)」


返事の代わりに何度も何度も頷けば、聡美はホッとしたような笑みを浮かべた。


「…よかった、分かってくれて。実は私と仲が良かった子たちはみんな、神苑の連中に心を奪われて…」


「(…友達、が?)」


「一度関係を持った後、捨てられて…それで…」


壊れたお人形のように、家に閉じこもっているの。と。

聡美は今にも泣きそうな顔で、そう言った。


私は音を持たない無機質な言葉を伝えるわけにはいかず、届かないことを分かっていながらも、唇を動かした。


きっと、届かない。でも、画面の文字じゃなくて、私の声で届けたいの。


「(教えてくれて、ありがとう)」


「っ…」


お願い、伝わって。

音になってくれない声だけれど、どうか。


もう一度唇を動かせば、聡美に思い切り抱きしめられた。


「聞こえてるっ…聞こえてるよっ」


「(…よかった)」


「ちゃんと、聞こえたよ…っ」


涙に濡れた声で、私の名前を何度も呼んでくれている。ただ、それだけで嬉しかった。嬉しくて仕方がなかったの。


程無くして顔を上げた聡美は、この上ない優しい微笑みを飾る。


「柚羽って、呼んでもいいかな?」


「(うん…!)」


唇を動かしながら頷けば、聡美は笑った。


好きだな、と。ただ漠然と、そう思えた。

私はそう簡単に人を信用する人間ではないけれど、彼女は心を砕くに値する人だと思う。


友達、と名を付けていい関係なのだと信じながら、教室へと戻る道を軽い足取りで歩く。



この時の私は、油断していたのかもしれない。

そうでなければ、あんな事が起こるはずがなかったから。


「柚羽っ…!」


「(っ──!?)」


突如倒れてきた何枚もの木の板を避けようと、聡美が私の腕を引いて後退る。その結果、私と聡美は怪我なく無事で済んだけれど。


私たちが避けたことによって、その後ろに居た人間に被害が及んでしまった。


「っ…」


「おいっ、大丈夫か!?──クソっ、お前らが避けたから紗羅が怪我をっ…!!」


私の腕を掴む力が、強まる。

隣にいる聡美の顔が、青くなっていく。


「嘘、でしょ……」


怪我を負ってしまったのは、細くて、白くて、綺麗な女の子。その身を案じる男は血相を変えながら、板を退けていく。


「(さと、み…?)」


立ち上がった私は、呆然としている彼女へと手を差し出したのだけれど。


聡美は唇を開いたまま、微動だにしない。


時間が止まったかのように静寂に包まれた廊下に、何者かの足音が響く。

迷うことなく、真っ直ぐに此方へと向かってくる。


ゆっくりと振り向けば、そこには美しい男が佇んでいた。


「──俺の女に怪我をさせたのは、お前か?」

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