第54話


緊迫したこの場に不釣り合いな軽快な音が鳴ると、店から小さな悪魔が出てきた。

気絶している女をおんぶしている。背丈が全然違うから、子供が大人をおんぶしているような違和感がある。


俺は、物陰から出ると歩道の真ん中に立った。俺の存在には、気づいているはず。それでも真っ直ぐ、こっちに向かって歩いてくる。



一歩………。


また、一歩…………。



俺は、注射針を肌に突き刺した。後は、中の液体を押し込むだけ。



だけ……。



一歩。


また、一歩………。



コイツは、悪魔だ。俺の娘を殺した男たちと変わらない。いやっ、それ以上の悪魔に違いない!


今、ここでコイツを止めないと新たな犠牲者が出る。俺のような血の涙を流す親が増える。



一歩………。



「そこ、通りたいんだけど?」



「………………」



無言で道を開けた。



俺は、一体何をしてるんだ?


復讐するんだろ?


娘の無念を晴らすんだろ?



そうだ。復讐が、俺のすべて。



ビュッッ。


今度は、躊躇なく薬を体内に注入した。

前を歩いていた女の姿が、だんだんと小さくなっていく。

早くしないと逃げられる。

まだ体に変化は…………ない。何も起こらない。

しばらく待つが、何も起こらない。



「ハハハッ……ハ………。……はぁ……くだらねぇ」



騙された。全財産つぎ込んだのに。



カモにされただけか………。


向きを変え、歩き始める。自殺できる場所を求めて。



廃墟と化したラブホテル。おばけ屋敷のようだ。何年も放置され、今では巨大すぎるゴミ。

そんな場所に俺は、引き寄せられた。埃だらけのホテルの一室で、安い酒を浴びるように何時間も飲む。


時間の感覚がひどく曖昧で、今が夜なのか、朝なのかさえ分からない。

まぁ何時だろうが、これから死ぬ自分には関係ないが。



ガシャッッ!!



目の前に積んだ空き缶やビンのタワーが、崩れた。



「……………」



そろそろ終わりにしよう。


俺は、ふらっと立ち上がる。

おぼつかない足。吐き気。体は、確かに酔っているが、頭は妙に冴えていた。

酔った自分を、もう一人の自分が近くで冷静に見ているような……そんな奇妙な感覚。

その感覚を無視するように俺は、割れたガラスの中から一つ選び、躊躇なく喉元をかき切った。


首から流れ続ける赤い液体は、腹を通過し、足から床へ。



温かい……。



俺は、赤い床に横になる。

昔の記憶がよみがえってきた。


まだ幸せだった頃。大切な人がそばにいて。俺が、一番笑っていた時期。



マナ……。ごめんな。こんな不甲斐ないパパを許してくれ。



天国でさ、ママと三人で、今度こそ幸せになろう。



……………………………。


……………………。


……………。


………。



神は、いた。



一時間後。

俺は、血だらけの服でホテルを出た。朝日が、眩しい。



俺は、神に死ぬことを拒否されたーーー



こんなこと、まるでマンガの中の世界。馬鹿馬鹿しいが、現実だから仕方ない。



『俺は、不死身になった』



理由は、分かっている。

さっき注射した、あの薬が原因だろう。

それ以外に考えられない。切りつけた首筋を指先でゆっくり触る。



「ハハ……マジか」



傷は完治され、跡形もない。あんなに大量の血を失ったはずなのに、体に異常は一切感じなかった。むしろ、調子が良い。



これが、覚醒者……なのか?



今のところ、体に外見上の変化はない。人を襲う前の奴等のように、獣の姿にもなっていない。

俺は、公園まで走り、血まみれの服をゴミ箱に捨てた。次に、若いホームレスが着ていた服と帽子を財布の中身と交換した。

現金に免許証、保険証、クレジットカード……今の俺には必要ない。


産まれ変わったような気分。

最高の気分。今なら、何でもできそうだった。

若い頃のようにエネルギーが、体から溢れている。

俺は、歩き続けた。


何時間も。


休むことなく。


太陽が、真上を少し過ぎた頃。俺は、知らない街に立っていた。疲れ知らずのこの体。

駅前広場。人、人、人。それを見て、初めて今日が祝日だということを思い出した。



ヴゥーーーーーー!!

ヴゥーーーーーー!!



サイレンが、鳴り響く。急に静かになる街。小走りで建物の中に入る者。リュックやカバンから取り出したマスクを談笑しながら装着する者。共通しているのは、黒い風から身を守っているという点。


俺は、逃げるふりをして、細い路地に入った。薄暗く、湿っぽい。カビと埃の臭いがした。

もし、本当に俺が覚醒者になったのなら、この黒い風の中でも平気なはず。今さら、死ぬことに恐怖はない。


「さぁ……来い」


黒い風は、地面を這うように俺に向かってくる。




「……?」



気のせいだと思う……。

一瞬、誰かの笑い声が聞こえた気がした。


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