編纂者より
和綴の冊子があった。
絹の繊維が混ざった白い手漉きの和紙に繊な雲龍紋が金線で刷られ、その上に篆書や隷書、楷書や草書が綴られ、稀に甲骨文字も鏤められていた。傍ら擱かれたままの毛筆には黒地に漆が塗られ、その上に金の雲龍細工が施され、雲の部分には一部朱色が附されている。九龍紋が彫られた青みのある黒い石には墨汁が乾涸びていた。
一対の龍が玉を奪い合うよう戯れる姿が金泥を以て描かれた墨が隣に置かれている。
「小説さ」
彼が言う。
私は手に取ったまま頁をめくり続けた。
「丁寧に綴じてある。吟味されたであろう用紙は端正に揃えられ、眩いくらいに鮮やかだ。文字の細さも精緻だし、とても繊細な筆運びが爲されている。書体の択び方にも意味があるに相違ない。
君は哲學の愛好家だから、内容もそう云う類のものなんだろうな。それにしても小難しいタイトルにしたものだ。尤も私などはこの装丁を眼にしただけで手で触り、閲覧してみたくなるが。書籍の愛好家には装丁や冊子の厚みや活字やマテリアルなどにこだわる人も多い。それが事實であることは間違いない。
しかし公募に応ずる爲には、この体裁では」
私の言葉に眼を細め、顎を持ち上げて微笑を泛べる。
「そう云うコンセプチュアル・アートConceptual Artだから。
ただ龍安寺石庭のよう枯山水であることを希うばかりだよ。昨今文學に於いては左樣な藝術にステイタスはない。然し商業性や顧みられることが少なくとも无価値な譯ではない。いく許かの人々には欣びを齎し得る。
読ませるよりも骨董のよう手で玩ぶ爲に作ったと思ってくれ。点綴する文字を眺めたかっただけさ。右端を貫孔され、糸を通して縛られた、ただの紙の束でしかない。装飾する文樣は平仮名や漢字。物品として黙す表情は媚びるでなく蕪雑、在るものである何かと云う以上ではない。だから訴える。存在はなぜ人を惹くのであろうか、と。
男女の情の機微もなくば都会の孤独もない。それが僕には心地よい。抒情性もなく、洞察もドラマもない。
非常にwell-doneだ」
それがこれから見て戴く代物、左に擱く壱冊之和綴本 ― 人間存在の實存的分析による存在論考 ―「空」である。残念ながら原本を汎用に再現することは到底稚拙なる我が才能の及ばぬ處であり、ご覧に入れられるのは通常フォントによるものでしかない。諸賢が空想を膨らませて笑味されることを幸甚と感ずる次第である。
なお本来は巻末附録にすべきものであるが、私個人の判断で巻頭に略歴を附す。
彼の戯れ舐る執拗な理論が純粋なる論理性によって導かれたものではなく、先天的(ア・ポリオリ)な、またそうでなくば少なくも生理的な、諸要請から増殖繁茂したものであることが理解されよう。
最後に、我らが眞神(まがみ)の郡(こおり)、かつては久邇(くに)にありし我ら一族に、永久(とわ)の彌榮(いやさか)あらんこと、清爽の魂魄を以て祈念し、此處に我が筆を擱く。
平成廿四年壬辰 壬寅雨水 土脉潤起 雪冰溶化成爲雨水之候
神(カム)彝韋彝ヰ啊ゑえ烏乎甕が裔 眞神眞邦統羅祇之王彝之家 朝臣
史文篇纂書藏官正弐位 天平家三九八代粛蕭が長子雨蕭が子 普蕭
補註
※ 彝韋彝(い)ヰ(ゐ)啊(あ)ゑえ烏(う)乎(を)甕(お)。眞神族の最高神。「彝韋彝」は三文字で「い」と読む。眞神族の聖なる語「い(彝)」を荘厳して三文字で記す習慣がある。
※ 冊子前後に書画彫工等の記載があるが、武家官位(名誉職的な官職・位階)のようなもので、眞神地方特有の配慮からくる戯言。實際の製作には一切携わってはいない。
※ 冒頭記載に著作権等が明記されているが、電子書籍化した際に併せてapplication化を行ったときに附加したもので、当初のオリジナル版にはなかった。
※ 土脉潤起とは「つちのしょう、うるおいおこる。すなわち「雨が降って土が湿り気を含む」の意。二月廿日頃。
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