第4章第3話「音を楽しむ、と書いて音楽」

 ――そうして月日は流れて、11月のオーディションがやってきた。この日のために今日までずっと頑張ってきたんだ。喧嘩して、悩んで、藻掻いて、自分を見つめ直して。そして、トラウマを克服して俺は大学内でもありのままの自分の音でチェロを弾けるようになった。何も気負わず、楽しく、大好きな仲間たちとチェロを弾ける時間が楽しくて溜まらない。

 もちろん、今日のオーディションがとても大事だっていうのは分かっている。でも、気負い過ぎなくたって今の俺たちなら大丈夫だって自信を持っていえる。控室にみんなで集まって、顔を見合わせた。みんな、明るい表情をしている。きっと今こんなにも楽しそうに笑っているグループはないだろう。このオーディションで来年からのことが全て決まるといっても良いくらい重要な試験。それは、分かっているけど俺たちはそれでも、笑顔は忘れなかった。

 俺たちの順番は、ラストだったのでそれまでは客席で他のグループの演奏を聞いていた。2組前になってから、俺たちは控室に移動をしチューニングをしたりと準備を始め、1組前にステージ袖へと向かうことになっていた。


「ねぇ、ステージ行く前に掛け声を沢渡くんから欲しいな」


 移動をしようとそれぞれ楽器を持ち始めた時に、真柴さんはそんなことを言ってきた。

 

「え、掛け声とかやるの? 運動部じゃないのに?」

「掛け声は運動部だけって決まりじゃないし、せっかくだからやろうよ」

「私もやりたい!」

「俺も俺も!」

「ほら、早くしないと時間なくなっちゃうわよ!」


 みんなにそう押されて俺は、戸惑いつつもえっと……と言葉を紡いだ。


「色々あったけど、何とか今日までやってこれました。大事な試験だってのは分かってるけど、音楽を楽しむっていう字を忘れずにとにかく楽しんで全力で最高の音楽を奏でよう!」

「「「「おー!!!!」」」」


 まるで、俺たちは運動部かのように声をそろえて士気を高めた。それから、堂々とした足取りで控室を出てステージへと向かった。

 暗いステージ袖から明るいステージ上に出て行くこの瞬間は、何度味わっても緊張する。だけど、ワクワクもする。だって、これからこの広いコンサートホールに俺たちだけの音が響き渡るのだから。ワクワクしないはずがないだろう。


 静かに椅子に座り、楽器を構える。今まで演奏前に客席を見る余裕なんてなかったけど、今日は何となく見たくなって気づかれないように客席を見渡した。学生の演奏会だというのに、ホールはぎっしりと埋まっている。この人たち全員を楽しませる音楽を奏でられるだろうか。いや、奏でるんだ。今の俺たちになら絶対に出来る。


 三笠先生の指揮棒が上がり、静かにピアノが響き、すぐに俺のチェロが入る。最高の瞬間。今までで1番良いデュオが奏でられた。昨日も最高だったけど、当然コンサートホールは音響が良いのも相まって、今までで1番のドヴォルザークを今俺たちは弾けている。周りに遠慮せずに、自分の出したい音で大好きなチェロを弾けるのってこんなにも楽しいんだ。この楽しさを俺は、ずっと封印していたのかと思うと悔しい気持ちになる。過ぎてしまった時間は仕方ない。時間は戻らないし、止まることはない。これから、このアマービレのみんなと一緒に後悔しない音楽を奏でていけば良い。俺たちはまだ、3年生で後1年も大学にいられる時間がある。


 最初、10分から15分の曲を演奏すると聞いた時は長いなと感じた。だけど、今ではあっという間だ。もう終わってしまう。最後のデュオのターンがきてしまった。ちらっと真柴さんの方を向けば目があった。初めて会ったあの夜のように、眩しい瞳。俺の音を見つけてくれて、ありがとう。何度感謝したってしきれない。


 演奏が終わってから、客席を見渡すとみんな楽しそうな満足そうな表情をしていた。俺たちの音楽を楽しんでくれていた。もし、トップが取れなかったとしても、この景色が見られただけでも俺は幸せだ。


 そうして、楽しい音楽の時間は終わってしまった。大きな拍手がコンサートホールに響き渡る。拍手の音は今まであまり好きではなかったけど、今は好きだと思える。


「最高だったよ、ありがとう」


 ステージ袖に避けてから、真柴さんは小さな声でそう言ってきた。


「俺も、最高に楽しかった。また、弾きたいな」

「うん、絶対にまた弾こう」


 それから結果発表までの少しの時間が1番緊張した。絶対に大丈夫と分かっていても、緊張はしてしまう。結果発表は、トップ3から発表されていく方式で、それ以下のグループは来年、旧楽奏堂で行われるコンサートに出られる権利はなくなってしまうことになっている。順位は一応つけられているから知りたい人は、後々データで見られるようになるそうだ。

 トップ3、トップ2で俺たちの名前は呼ばれなかった。いよいよNo.1の発表が始まる。ここで呼ばれなかったら俺たちはトップ3以下だった、ということになってしまう。そんなことはない、と信じているのだけれど……。


「それでは、トップ1の発表を行います。プログラム15番ドヴォルザークのピアノ五重奏曲イ長調作品81第一楽章、指揮三笠笙吾……ピアノ真柴琴乃、ファーストヴァイオリン中園詩織、セカンドヴァイオリン東宮舞、ヴィオラ城ケ崎奏良、チェロ沢渡凪音――」


 俺は今、軽く放心状態に陥っていて何が起きているのか分かっていなかった。声をあげることが出来ない中、隣の奏良がドンドンドンドンと肩を叩いて泣きながら喜んでいる。女子たちも、みんなボロボロ泣いている。


 あぁ、そうか。俺たちは、念願のトップを取れたのか。大勢いる室内楽専攻の中から成績トップに選ばれた。え、ということは来年には俺がチェロを好きになったきっかけで、音楽の楽しさを知ったあの旧楽奏堂でコンサートが出来るということ、なのか? 信じられなくて身体の震えが止まらない。


 それからどうやって、控室に戻ってどうやってホールを出たのか覚えていない。俺たちはホール前のベンチに座ってみんなでぼんやりと夕方の空を眺めていた。


「……トップ、取れたんだな」


 数分の沈黙の後、俺はぽつりとそう言葉にした。言葉にすると重みが違う。俺たちは、本当にトップを取ってしまったのか。


「そうよ!! あたし達、No.1になったのよ!!」

「No.1やばくね!? まじで言ってるっ!???」

「ドッキリじゃないよね……?」

「ドッキリなんかじゃない。私たちは、正真正銘実力で、トップを取ったのよ。これは、誇って良いことよ」

「すごいな、すごすぎて怖くなってきた」


 今までずっと、平凡に生きてきたから。トップを目指したいなんて思ったこともなければ、取れたことだってない。いつだって平均点。そのうえ苦学生で、そんな俺だけど、学年1のトップの真柴さんに誘われて、みんなと一緒にやってきたからこんな見たことの無い成績を得ることが出来た。一人だったら、どう転んでも辿り着くことが出来なかった、見ることのなかった世界。


 人って、たった1つの出会いで運命が変わってしまうのか。もし、あの日真柴さんが声をかけなければ、そもそも俺があの音楽バーでバイトをしていなければ、その前にチェロをやっていなければ、ここにはいない。

 奏良という親友を得ることも出来なければ、真柴さん、中園さん、東宮さんという異性の友達も絶対に出来なかった。あんなデカいホールで自分の名前が呼ばれる日なんて永遠にこなかっただろう。


「ありがとう……っ」


 もう、このみんなに伝える言葉はこれ以外ない。何度言っても足りないけど、言わせて欲しい。さっきは、放心状態で涙は出なかったのに今更涙がボロボロと零れ落ちてしまって止まらない。

 そんな俺を笑うことなく、みんなは見守ってくれていた。

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