エンバーケイション——晴れを待つ
霙座
1
夕暮れの桃色とオレンジ色の空の狭間に向かって、たたんととん、たたんととん、と車両が遠ざかる。緩やかにカーブした線路を走り去った車両が見えなくなってから、引き戸を開いた。倉庫の入り口のようなこれが改札口。切符を回収する金属の箱、誰もいないホーム。
切符売り場は閉まっていて、蛍光灯の明かりがじいんと音を立てる。無人駅を出ると向かいに廃業した商店があって、ジュースの自動販売機がこちらにも道路の向こう側にもある、が、それだけだ。
幅の狭い道路の消えかけた白線の手前に立つ。
波の音が聴こえた。
右手から差し込む落ちかけた太陽と、俺だけだった。電車は海の上を通ってきたように思うが、どちらに進めば海に出られるかもわからなかった。
足音が、良く響いた。長い髪が背で跳ねていた。
左側から結構なスピードで走ってきた女性は、駅に向けてペースダウンして、自動販売機の前で止まった。首筋の日焼けの痕に汗がきらきら光る。飲み物を選んでいただけの横顔をつい見つめていた。
「あの。何て読むんでしたっけ」
駅の看板を指して尋ねると、自動販売機の前で人差し指をボタンに掛けて、女性は驚いた顔でこちらを見た。他に誰もいないことをきょろきょろと確認してから答えた。
「あまはらし」
驚かせたことに気を悪くはしていないようで、そのまんまやろ、と女性は笑顔を見せた。
雨と晴れ。
その駅名は、語感より漢字で読んだ方がずっと素敵だと思った。
白色のTシャツと黒のランニングパンツ。手首にはGPSウォッチ、素足で、締まったふくらはぎにビビットカラーのナイキのシューズが矢鱈と目立つ。かき上げた前髪から汗が肩に落ちた。
「どこから来たんけ? 県外やね」
「東京です」
ピ、とボタンの押下音がして、続けてペットボトルが落ちるガタンという音。ポカリを拾い上げ、もう一度俺を見て、挨拶の代わりに首を少し傾けた。
「あ、待って」
「なに」
再び走り出した女性を呼び止めた。方言が混じった口調は、少し強くて一瞬怯むが、女性の顔には人懐こい笑みが浮かんでいる。
「えっと、海って、どう行けば出られるんですかね……?」
きょとんとしてから女性は「そうやね、案内手書きでわかりにくいもんね」と、道のわからない俺を馬鹿にするでもなく、手招きした。
「踏切、一応あるから」
「一応って」
軽四車両も通れないような小径に曲がると、片方の遮断機だけがついた踏切があって、真っ直ぐ奥には落ちる太陽に照らされて光る海が見えた。踏切と両脇の建物のシルエットに切り取られた赤い空と白い海。
「ああ、海あった」
心の声がかなり大きめに出た。日本海だ。
「汽車で来たんやったら、窓から海は見えたやろ?」
「汽車?」
海の真上の崖を走ってきた車両は電車じゃなくて、ディーゼル車ということだった。なるほど、と俺は頷いた。
「海を見に来たん?」
「海っていうか、好きなアーティストのPVで」
今度は女性がなるほどと言うので、知っているんですか、と食いついたら、田舎でも音楽くらいあるよ、と苦笑された。
「なら通り過ぎたね、駐輪場」
ロケ場所は地元のひとならすぐピンとくるのだそうで、帰りに見たらいいよと女性は通ってきた方向を指さした。
そして走り出す。
行ってしまう、と思って俺はまた、自分が思ったよりも大きな声を出した。
「ありがとうございます。あの、名前! 教えてもらえませんか」
女性は目を丸くして半分振り返った。ポニーテールから汗が舞って、髪が顔を隠して通り過ぎた後、夕日に照らされた赤い頬が困ったように笑っていた。
「また会えたらね」
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