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「私の父は誰にでも優しく明るい人でした。大らかな性格で人当たりもよく、とても子煩悩。いつだって父は私に甘く、怒ったところなど見たことがありませんでした。それに父は学生時代から勉強が好きで成績はいつも上位。そのためでしょうか。わたしはよく父の膝の上で平仮名を教えてもらったのを憶えています。たまにしか取れない休みも私が行きたいとせがめば喜んで動物園に連れて行ってくれる……。子どものわがままならなんでも聞いてくれるそんな父が私は大好きでした。

 そして、父を好きだった理由は幼心にもう一つあったのです。それは父が勤める会社がスマイル君を作っていることでした」


 へー。


『えーっ! ちょっと聞いた雉間! 京のお父さんの会社、スマイル君を作ってるんだってよ!』

「そそそ、それは本当なんですか京ちゃん!?」


「はい。でも作ると言っても父は新製品を考えるって立場だったそうです。よくスマイル君絡みの試作品を持って帰って来ることがあって、それが当時の私にはすごく嬉しかったんです」


『いいなぁー、試作品のスマイル君。私も欲しいなぁー』


 なぜ俺を見る?


「ですが今から七年前の夏、私が八歳の時に事件は起きました。

 ある休日、父は山登りに行くという言葉を残して行方不明となりました。色々と捜索はかけたものの父に関する情報は得られず、当時八歳の私にとってそれはすごく衝撃的なことでした。父が帰って来ないことを毎日のように嘆く私を、母が明るく慰めてくれたのを憶えています」


「……」


「その後、父がいなくなって一週間が経つと父について二つのことがわかりました。

 一つは、誰にも相談なく多額の保険に加入していたこと。

 そしてもう一つは家を出る数ヶ月前に、知り合いの借金の保証人になっていたことです。

 誰にでも優しい父のこと、寄り付く悪い人もいたのでしょう。この二つの事実が知れると親戚や父方の祖父母は、何かまずいことに気付いたかのように私たち一家と関わりを持たなくなりました。今になって思えば父はインドアで、山登りに行くような人ではありませんでした」


 そこで一度間を空け、京は今まで手付かずだったレモンティーに口を付けた。時間にして一瞬、京は一口だけすする。


「その後借金は母方の祖父と伯父の協力もあって二年をかけて完済しました。伯父は父の学生時代からの友人でしたから、何かと私たちに協力的だったんです」


「辛くはありませんでしたか?」


 久良さんの労いの言葉に京は首を横に振った。


「父方の祖父母と会えなくなったのは悲しかったけど、伯父が優しかったから平気でした」


 そして京はうつむきながら、ゆっくりとアルバムに手をかけた。


「そうです、あの時までは……」




 本当に悪いことをしたと思っています。


 父が行方不明になって十ヶ月後、母は妹を産みました。それが空です。空が生まれると母は日中の私たちの子守りを伯父に任せて仕事を始めました。伯父の仕事は翻訳家で、在宅とでも言うのでしょうか。子守りの合間を縫っては自室のパソコンで作業をしていたのを憶えています。私は朝学校に行くと放課後は母が預けた妹のいる伯父の家に行き、そして夜には迎えに来た母と三人で家に帰る……。そんな生活を二年続けました。学校が休みの日でもほぼ毎日、その二年間は伯父の家で過ごした記憶しかないくらい伯父には大変お世話になったんです。


 伯父は優しく物静かで変なところで几帳面な人でした。締め切りに追われる仕事柄か、来週の夕飯すら前の週には決めていないと気が済まない性格で、決まって冷蔵庫には来週までの献立を張っていたり、とにかく変わっていました。


 ああ、それと変わっているといえば、こよみの行事ごとがとても好きな人でした。どんなに仕事の締め切りが近くてもその日がクリスマスや子供の日であったなら、それを済ませてからでないと絶対に仕事をしない、そんな人でした。


 現に独身で一人暮らしの伯父の家には一見にも高価な七夕用の竹や鯉のぼり、クリスマスツリー用のモミの木など様々な物がありました。そういえば一度、七夕飾りに夢中で原稿の納品がギリギリになった、なんてこともありましたね。ちょっと変わっていたけど私には自慢の伯父だったんです。


 そんな伯父と最後に会ったのは借金を完済して一ヶ月ほどが経った九月。当時の私は十一歳、妹は二歳でした。それまでは毎日のように働き詰めだった母も徐々にですが仕事を減らし、伯父の家には次第に行かなくなっていました。


 そして伯父と会った最後の日。

 私はこれが伯父に会う最後だとも知らずに妹とケンカをしてしまったのです。いつもはケンカなど絶対にしないのですが、なぜだかその日に限って私は妹を泣かせてしまいました。ケンカの原因は私が持っていたスマイル君人形の取り合いで、伯父は妹の泣き声に気付くとすぐに自室から駆けつけては来たのですが……。




 伯父は私を見るなり無言で自室へと戻って行きました。




『えっ? 伯父さんは何しに来たの?』


「伯父さんはどうして来たのでしょうか?」


 久良さんの言葉に京はゆっくりとかぶりを振った。


「わかりません。ですがこの時の伯父の顔は、悲しいような、困ったような顔をしていたのを憶えています」


 そして小さく呟かれたような気がした。


「きっとこの時


『え?』


 京はアルバムをめくった。

 めくられたアルバムには伯父の家で撮られた沢山の写真が並んでいた。短冊が結ばれた立派な竹の写真や大きなクリスマスツリーの下で写る京と空。他にもお月見をする二人の姿や不格好な正月飾りに笑う二人など、京と空を写した写真がそこにはあった。いくつもの伯父の家で撮られたイベントごとに興じる写真。


 写真の中には京の話に出てきた冷蔵庫もあった。ハロウィンだろうか。はしゃぐ姉妹の後ろ、冷蔵庫には大人の綺麗な字で何日か分の献立が書かれていた。カメラのピントは当たり前だが如月姉妹。だがかろうじて、“やきそば”の文字だけは読み取れた。


「その日を最後に伯父とは会っていません。あの日、きっと伯父は姉妹仲良くしてほしかったはずなのに。できる事ならもう一度、伯父に会ってあの日のことを謝りたい。そうは思っていましたがそれは叶いませんでした。

 伯父の家に行かなくなってから一年後、祖父が亡くなりました。葬儀では妹の面倒を任されていたため伯父に会えず。ですが私にはそれ以上に悲しいことがあったんです。

 それは祖父の葬儀では母が泣いていたことです。

 私が大好きな父が行方不明になった時、母は泣くどころか私に微笑みかけていた。なのに祖父の葬儀では泣いている。それまで私は、母は私の前では無理に悲しい顔を見せず明るく振る舞っているのだと思っていましたが、どうやらそれは違ったようなのです。私はその時になってようやく理解しました。

 母は父を愛していなかったことを……。

 そして去年の六月、何度電話を掛けても出ないことから会社の人が伯父のアパートを訪問、伯父の亡骸を見つけたそうです。死因は祖父と同じく遺伝性の不整脈。伯父の葬儀でもやはり母は泣いていました」


 ……。


 話はこれで終わりのようだ。

 俺はずっと前から気になっていたことを訊いた。


「ところでさっき京が言った、“この時私は嫌われたんだと思う”って、あれはどういう意味だったんだ?」


 その質問に京は目をつむり、一呼吸置いてから答えた。




「はい。どうやら私は妹と違い、伯父に好かれてなかったようなのです。妹には毎年届く伯父からのハガキ……。あれは




 一瞬、俺は言葉を失った。


 それはもしかしたら俺が形式だけでも探偵でいたからなのかもしれない。他人事のはずの京の出来ごとが俺にはそうは思えず、どういうわけか何も言えなくなったのだ。


「あの、それはきっと京ちゃんの誕生日を知らなかっただけで……」


「それはありえませんよ」


 京は言下げんかに否定した。


「私も妹も、伯父には二年もお世話になったんです。つまり二回は伯父の家で誕生日を祝ったことがあるんです。だから伯父が私の誕生日だけを知らなかったなんて、そんなこと……」


 そこで京の言葉は切れた。そしてその言葉の先は継ぐことなく目元をぬぐう。


「伯父の家で妹とケンカになった日、きっと伯父は私が妹をいじめていると思い、怒りのあまり無言で自室に戻ったのでしょう。

 それに今思えば妹は父の顔を知らなかったため、伯父を本当の父親のように慕っていました。ですがそれに比べて、私は本当の父を知っています。だから心のどこかで私は伯父に馴染めずにいたのかもしれません。そんな私より妹が可愛いのは当然ですから」


 そう言った京の面持ちはどこか悲しげで寂しそうに見えた。


 開かれたアルバムのページには伯父の家で行われた、京と空それぞれの誕生日の写真が収められていた。笑った二人の表情から伯父が注いだ愛情の違いを見つけることなど俺にはできなかった。


 そして、横にはもう一人、俺と同じ気持ちの人がいた。




『……違う』




 姫乃さんだった。


『それは違うの。京の伯父さんはきっとそんなこと思ってないの。京も、妹の空も、みんな大好きだったの。伯父さんはもう亡くなっているから本当のことなんてわからない。だけど伯父さんは絶対にそんなこと思ってないの! 死んだ人の言葉なんて聞けない。だから残された人は死んだ人の想いで間違った解釈があっちゃいけないの。違う真意でとらえちゃダメなの! 京にそんなことを思われたら伯父さんは悲しいよ。死んだ人にだって心はあるし、その心は必ず誰かが継いでくれる。私にはまだどうやってハガキを送ったのかわからない。だけど何か特別な理由があったはずだから……!』


 向けられた視線に気付けば俺は頷いていた。


 自分でもそれがどうしてだかわからない。が、俺には姫乃さんの視線が無下には扱えなかった。


「京、アルバム借りるぞ」


「え、あ、はい。いいですけど、どうして」


「ふふっ、ここの探偵さんは京ちゃんが伯父さんに嫌われていたなんてちっとも思わないんですって」


 久良さんのその言葉が言われた時、京の表情が和らいだ気がした。

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