誰かにとっての光となれ

村田鉄則

誰かにとっての光となれ

 大学三回生の春のある日、午前二時、私は可愛い熊のプリントされた寝間着姿で琵琶湖に飛び込んだ。

 湖中に体が沈み、息が苦しくなる。最後の記憶は、人口の多い市に面したが故に発せられる琵琶湖のなんとも言えない生臭い香りが鼻孔をくすぐった記憶だ。ああ・・・私は死ぬときまで香りに悩まされるのか・・・

 そんなことを思っていると、ふっと私の体が軽くなった。誰かが私の手を引いているらしかった。辺りは暗く、誰かはわからないが、頭上に黒い髪がひらひらと水中で揺れているのが見えた。天上の月光を帯びて照り輝くその髪はひどく美しかった。

 暗転。

 目が覚めると、電灯が目に入った。私は琵琶湖に面した公園のベンチで横になっていた。水浸しになった私の服の上からバスタオルがかけてあった。

「車走らせて、ドンキで買ってきたんやで、感謝しぃな」

 いつの間にか私の横に座っていたジャージ姿の女性が話しかけてきた。

 髪型はロングのストレート。腰ぐらいまであるその黒髪は艶々している。睫毛が長く、くっきり二重、鼻筋も通っているその彫刻の様な顔に加えて、高身長で体型もスラッとしていて、まるで雑誌のモデルのようだった。琵琶湖の水と同じ香りがする。

「それでどうしたん?そんな格好で琵琶湖なんかに飛びこんで?」「あの・・・」

 私は言葉に困った。私はこの世におさらばしようと思っていたのだ。そう、自己臭恐怖症のせいで・・・

 自己臭恐怖症。これはあくまで症状に対する呼び名であり、診断名ではない。自分の臭いを気にするあまり、日常生活に支障を来すレベルにまで達したものだ。私の場合、エレベーターや電車など、自分以外の人が居る一種の密室空間に入るたびに自分の臭いが気になって、緊張して、ドクドクドク心臓の音が高鳴る。気が気でなくなるため、そんなときは私は体を固める以外何もできなくなってしまう。

 私の自己臭恐怖症が発症したのは中学二年生、体育の後、教室で一緒に着替えてたクラスメイトの女子の一人から「なんか生臭くね?」と私に目を向けられて言われたことがきっかけだった。その後、自分の臭いが気になり始め、周りの人のことをよく観察するようになった。すると、私が通るたびに鼻をすすられたり、鼻をつままれることが多い気がした。その経験を繰り返して体験することによって、私はどんどんどんどん自分の臭いというものに対して一種の恐怖というものを感じ始めた。"今、ここで、臭いで人に迷惑をかけてないか?”という恐怖だ。そして、私は今現在でもこの恐怖が治っていない。もう発症してから八年程経っているというのに。

 私は大学三回生。つまりは、大学の折り返し地点に立った。しかしながら、私は大学に二年間通っていく中でできた友達は一人も居ない。というかまともに会話したのは大学生協のおばちゃんだけだ。行きたいゼミに受かりはした。が、今日、初回のゼミを受けに、ゼミの教室に入った後、思い知ったのは自分の学科の人と私がいかにこの二年間関わってきてなかったかということだった。ゼミの他の女子たちも男子たちも、すでにゼミに入る前からコミュニティができている印象を受けた。そして、私以外のゼミ生は皆顔見知りであり、和気藹々と会話をしていた。私だけに対しては皆余所余所しい感じで接していた。今まで同じ学科の人と関わってきてなかったので、それは当たり前のことではあるが、改めてそれを実感した体験は、ひどく私の心を抉った。ああ、私は何で今まで大学でまともに人と関わってこなかったのだろう。というか、ゼミの教室という一種の密室空間では、私は自己の臭いについて気にしてしまい、そのことが頭を支配し、そのことしか考えられなくなり、まともに会話をすることさえできないのだが・・・

 自己の臭いに対して人一倍気を使っている私は防臭ボディソープ、制汗スプレー、ミョウバン(風呂に入れる用)、消臭スプレー(靴、服、空間)などなど臭い対策のグッズを買い漁っては試していたが、結局臭いに対する恐怖はとれず、部屋の至る所に使い差しのそれらが放置され、お金をドブに捨てたようなもの。魚が売っている所なら自身の臭いを気にしにくいのではと思い、魚売り場が売りのスーパーでバイトも頑張ってしているが、そんなバイトの給料もほとんどが臭い対策グッズで消えてしまったわけである。グッズを買うお金のために、一人暮らしの私の食事は昼も夜もおにぎり二個といつも質素だ。

 もう三回生である私は、インターンシップとかいう謎の制度による就活も始まる。自己の臭いが気になり過ぎる私、初回のゼミでさえ人とうまくコミュニケーションを交わせない私、そんな私がこれから、就活をしてまともに仕事に就くことができるのだろうか?

 そんなことで思い詰めている中、私はふと入水自殺を遂げようと決意したわけである。自殺して来世では自分の臭いに悩まない人間になりたい、そう思ったのである。

 だが、助かった。

「どうしたん?なんか思い返しでもしたん?」

 ジャージ姿の美女は回想する私をその大きな目でじっと見ていた。「なんか話してよぉ・・・私がいーへんかったら、助からんかったんやで。メシアやで私」「本当大変やったんやからあんたを運ぶの」「これドンキで買ったジャージなんやで私が仕事終わりに着てた服はコインランドリー行きや」「京都からの帰り道に催して公園のトイレ寄ったときに偶然見つけて良かったわ」「コーヒー買ってきたろか?」「私、これからバイトあるから浅井の方へ帰らんとだめなんやけど、まあ・・・一日くらいバイトサボってええか」「職場によぞい人がいてなぁ最近行くの億劫になってるからちょうどええわ」etc・・・

 彼女は、全く声を発さない私に対して延々と口を開けて話しかけてくる。今の私には、その言葉が雪解けをもたらす日差しのように暖かく感じた。彼女に感謝せねば・・・勇気を出して声を振り絞る。

「ぁぁ・・・ありがとうご・・・ざいましった!」

「噛み噛みやん!やけど、感謝の言葉ありがとう!」

 彼女は満面の笑みを浮かべながらチョップで空中に向かって突っ込みをした。

 私はこの動作がツボにはまり思わず吹き出してしまった。

「笑える状態ってことはもう大丈夫やな」

 そう笑みを浮かべながらつぶやき、私を一瞥してから、女性は立ち上がり、公園内にある駐車場の方へ向かった。私は彼女の後ろ姿を追いかけようとしたが、その私の行動に気づいた彼女は振り返って、バッテン印を腕で作ってから、手を振ってお別れの挨拶をした。 暫くその場で立ち止まってる。彼女の体はどんどん小さくなる。 やがて、姿が見えなくなったとき、

「駐車料金高っ!!!」

 という大きな声が聞こえた。それが私が聴いた彼女の最後の声だった。私はその言葉を聞いてまた吹き出してしまった。

 人との交流をあまりしていなかった私は、彼女との出会いを通して、もっと多くの人と関わろうと思い立った。もっと人と触れあうことで私の中で何かが変わる、そんな気がなんかしたのだ。

 まずはその日、調べて出てきた臭いに悩む者が集まるSNSに入った。そのSNSでは定期的にオフ会が行われていた。私はその日から直近の土曜日に関西で行われたオフ会に参加した。オフ会の開かれた場所は京都の商店街の中にあるカラオケ屋さんだった。見ず知らずの人に会うのは怖かったけれど、いざ会ってみると、優しい人ばかりだった。私と同世代の女性、福井からわざわざ来てくれた男性、オフ会の主催者の社会人男性、銀行で今年から働き始めたと言う新入社員の女性、そんな様々な人が同じ場所で同じ、自分の臭いに関する悩みについて語り合った。私はその他に、ゼミや就活、将来に対する不安について話した。すると、皆励ましの言葉をくれた。お互いの臭いを確認する作業もあったが、誰も臭くなかったし、私も臭くないと言ってくれた。来て良かった。そう思えたオフ会だった。自分以外にも同じ症状で悩んでいる人が居るそのことが一人でずっと悩んできた自分にとっては励みにもなった。

 日が経ち、2回目のゼミの日がやってきた。私の臭いに対する不安はまだ完全には消えていないが、将来のためにも、今回は同じゼミの人と話さないと!、そう決意した私は、勇気を振り絞って同じゼミの女子に話しかけた。結果、普通に私を好意的に受け入れてくれた。緊張していた私が馬鹿みたいだった。あまりにも学科の中で遠い存在だったらしく、ゼミ終わりラウンジで質問攻めにあったが。 それから一年、ゼミの教室という密室空間で臭いを指摘されることは無く、また、同じゼミの人と他の場所で会っても臭いとは言われない、そういった気づきを何回も繰り返していって、私の自己臭恐怖症はだいぶマシになった。電車やバス、エレベーターなど知らない人と近くに居るところ以外は変に緊張しなくなったのだ。

 現在、三回生の後半戦になった私は、インターンシップを頑張って行って、自分の適職を探している。

 季節は冬になった。

 あの日、あのとき、あの場所で彼女に出会っていなかったら、私の人生はどれほど絶望的になっていただろうか。いやそもそも彼女と出会わなかったら、私はこの世にいなかったわけであるが。

 彼女は冗談半分で自分のことを救世主と言っていたが、私にとって彼女はまさに救世主だった。いつかまた彼女に会えたら今度はスラスラと、はっきりした声で感謝の言葉を言いたい。

 電車が停車した。電車内で彼女に思いを馳せた私は、北陸線にある虎の付く駅に降り立った。粉雪が降っている。地面に真っ白な雪が少し積もっていて寒い。駅前にある阪神タイガースの神殿の前でスマホを弄る。今からバスと徒歩で浅井を回るので運行情報を見ているのだ。バスの本数は思ってたより少なく、駅前で長く待つことになりそうだ。しかし、そんなことは苦にならない。この旅で、彼女に会える可能性があるのだから。

 そんなことを考えながら、空を見上げて雪をぼうっと眺めていると、神殿の前にある駐輪場の方から声がした。

「えっ嘘やん!久しぶり!」

 そこにはママチャリに跨がっている彼女が居た。

 私は・・・

「あのときはありがとうございました!!」

 頭を下げ、そう大きな声を発した。

 今度は、はっきり言えた。

 あのときと同じように笑顔を浮かべて近づいてくる彼女。

 少し目に雫を浮かべながら、顔を上げる私。

 そんな私たちの上・・・天上から降ってくる粉雪が私には、幸運を呼ぶと言われるケセランパサランのように見えた。


 肩を寄せ合う私たちに日光が差す。

 その暖かさが私には心地よかった。

 

 私の心の中の氷雪を彼女が溶かしてくれたように、私も誰かにとっての光になれたら良いと思う。

 

 

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