ジェノヴァのカラスの復讐
九月ソナタ
前編
コルシカに旅行に行った時のこと、その古い「ブラワヨ」というホテルには応接間と暖炉があった。私は深夜、暖炉のそばにいた紳士から不思議な話を聞いた。彼はたしかある組合の融資係で、査定のことで島を回っているだと言っていた。
それはイタリアがまだ統一されてはおらず、コルシカ島がジェノヴァ共和国の領地だった十四世紀頃の話だった。
*
ジェノヴァのポワチという村に、マテュー一家が住んでいた。農夫の両親、娘は十七歳のメヌーと十五歳のチェリの四人、豊かではないけれど、それなりに幸せに暮らしていた。
ある時、港に野菜を運んで帰ってきた父が、今日は疲れたと言った。その夜、高熱を出し、翌日も床から起き上がれず、看病をしていた母も体調を崩し、やはり動けなくなった。
これはヨーロッパ中に流行しているぺストかもしれない。賢いメヌーは両親を別々の部屋に移し、妹には外の納屋に寝る場所を用意した。
すぐに牛一頭を売ったから、ベストが村まで広がってきた頃には、一年分の生活費と治療費を確保していた。
心配なのは妹のチェリのこと。教師になるという夢をもっている妹は秋から上の学校に進むはずだったが、それを一年延期させた。
しかし、ここにいては危ない。
ちょうどその時、コルシカ島からアシオという人のよさそうなおばさんが来て、仕事を斡旋していた。コルシカにはペストの心配はなく、ある静かな村にいるベルサー男爵一家が住んでいてメイドを探していると聞いた時、それはよい考えかもしれないと姉妹は話し合った。
両親が回復し、ぺストが収まればすぐに戻れるのだからと、チェリが島に渡ることにした。働けば、学費も貯めることができる。
「お姉さん、毎日手紙を書きます」とチェリが約束した。
コルシカ島に渡った最初の頃は頻繁に頼りが届いたが、チェリからの便りは間もなく途絶えた。最後の手紙から一年半もたつのに、手紙が全く届かない。
ペスト禍の間、コルシカ島では他所からの手紙の受け入れを拒否していたが、それがようやく解禁になった。メヌーは飛びつくようにして妹に手紙を書いたが、受取人不明で戻ってきた。
メヌーの父親は闘病二年で亡くなった。母親は弱ってはいるが、どうにか生きている。
メヌーはどうしても、妹に会わなければならないと思った。家の蓄えは少なくなってきていたが、母のために看護ナースを三日だけ雇い、妹の様子を見るためにコルシカに行くことにした。
ボワチ村から港までは乗合馬車で半日。ジェノヴァの港からコルシカの北側の町バスティアまでは船でさらに半日かかる。
船の甲板に立っていると、黒いよれよれのコートの老人が話しかけてきた。
「コルシカに行くのかい」
「はい。ベルサー男爵の領地です」
「あそこには、行かないほうがええ」
「どうしてですか」
しかし、その老人は何も言わず、立ち去った。
*
コルシカのバスティアの港町から、妹の住むベルサー男爵の領地までは、馬車で三時間ほどかかる。乗合馬車の値段は高すぎたが、カロルという老人がその方向へ帰るところだから、荷馬車でよかったら乗りなと言ってくれた。
カロルの荷馬車が田舎道を走っていると、雲が突然真っ黒になった。空には黒い竜巻がぐるぐると渦巻いている。
カラスのけたたましい声が聞こえたが、カロルが言った。
「カラスはこわくねぇさ。おまえさんの味方だ。こわいのは人間だ」
*
男爵の領地に近づいた頃には日が暮れかかっていた。
遠くで赤い玉が光っている。いや、何かが燃えている。馬車を急がせると、焦げた臭いがしてきた。
レンガの塀に囲まれたイチョウ型の鉄の扉の向うでは、大きな屋敷が狂ったように燃えていた。燃えているのが、ベルサー男爵の屋敷なのだった。メヌーは馬車から飛び降りて、門に向かって走った。
門の前には村人が集まって、燃える様子を呆然と見つめていた。
屋敷の中から猫が逃げ出してきたかと思うと、大量のカラスがやって来て、瞬時に猫を掴んで飛んでいった。
「チェリ」
メヌーが大声で叫んだ。
屋敷は炎に包まれ、ますます燃える上がりばかりで、中からは爆発音が聞こえた。
屋敷の中から三人の人影が走り出てきたが、その中に妹はいなかった。
「チェリはどこですか」
誰も答えてくれない。
煙で顔を真っ黒にした下男が足を止めた。
「チェリって、ジェノヴァのかい」
「はい」
「あの子なら、ここにはいない。とっくにやめたよ。勤めて間もなくやめた」
メヌーは力が抜けて、わなわなと地面に座りこんだ。
*
その晩はカロルが家に泊めてもらうことになった。
彼の古民家に着くと、妻のベルタがやさしく迎えてくれた。
カロルが男爵家の火事のことを話すと、ベルタは十字架をテーブルの真ん中に立てて、祈りを捧げた。
「男爵夫人は無事だったんだろうか」
ベルタがスープを皿に注ぎながら言った。
「明日、港に行ったら、わかるだろうさ」
その夜、メヌーは夢を見た。
メヌーはある古い屋敷に入って行った。
誰もいないが、不気味な感じがぬぐえない。これは幽霊の家なのか。
その時、二階の手すりから女性がさかさまになってぶら下がってもゆっくりと揺れていた。
キャー。
女性のスカートがめくれて顔にかかり、白い下着が見えている。
片足の靴の部分が二階の手すりにひっかかり、かろうじて落下せずにぶらぶらと揺れている。
夢の中のさかさまにぶらさがっていた女性の髪は茶色だったことを思い出し、少しほっとした。妹の髪は美しいブロンドなのだから。
メヌーは蝋燭をもって、外に出た。井戸で汗を拭きたい。暑すぎたから、夜風に吹かれたいと思ったのだ。
井戸のところまで来ると、黒い影が通りすぎたのが見えた。
こんな夜中に、誰かしら。
メヌーが外にある便所小屋に行って木戸をあけると、鼻の上にほくろのある髭の老人の顔が現れた。彼はつかまえて食べようとするように大きな口をあけて、長い手が伸ばした。
キャー。
メヌーは逃げようとして尻もちをついたが、大口の男の悪魔のような手が伸びてきたので、力をふりしぼり起き上がって、「助けて」と叫びながら走った。
途中で何かに躓いて、転んで、顔と胸を強く打った。もうだめかと思った、ところまでは覚えているけれど、目が覚めたら、朝になっていて、ベッドで寝ていた。
ああ、夢だったのか。
それにしてもおそろしい夢だった。
メヌーは起き上がって手を見たら、なぜか泥で汚れていた。
*
朝、町に向かっている時、カロルにそのことを話すと、
さかさま吊りが男爵家の娘のエーベで一年前に、鼻の上にほくろのあるのは主人のマゲリ男爵、数ヵ月前に毒殺されたのだと教えてくれた。
どうしてそんな夢を見たのだろうか。
馬車に乗せてもらって港に行くと、人々は昨夜の火事の噂をしていた。あそこで焼死死体が見つかったが、それは男爵夫人のイレニアだったという。
男爵一家は狙われているのかしら。
*
メヌーは気持ちを切り替えて、仕事斡旋所のアシオおばさんのところへ向かった。
「たしかにチェリは三ヶ月で仕事を変えたいと言ってきた」
とアシオおばさんが言った。
妹が自から仕事を辞めと知って、メヌーは少しほっとした。
「男爵一家は、家族そろって性格が陰険だということを知らなかった。ジェノヴァから新しく引っ越して来た一家で、私もよく知らないで紹介してしまって悪いと思っている。チェリは両親が治るまで本土帰るわけにはいかないと言うから、新しい仕事を紹介した。今度はちゃんとした貴族のビクトリオ侯爵だ。私も責任を感じるから、これから、一緒に行こう」
メヌーはアシオが用意してくれた馬車に乗って、ビクトリオ侯爵邸へと向かった。
港町を出て、石の眼鏡橋を渡り、そこから方向を変えて森の横を抜けると大きな屋敷があった。
ここが、妹が働いているビクトリオ侯爵の屋敷。もうすぐに会えるかと思うと、心臓が踊った。
アシオが門番に言付けをすると、彼は屋敷の中に行って、しぶい顔で戻ってきた。
「会うのは、ひとりだ」
公爵はローマにいて不在だが、公爵夫人はいる。夫人から面会が許されたのはアシオおばさんだけだった。
アシオは二十分ほどで戻ってきて、首を横に振った。
「チェリは確かにここで働いていた。とてもよい娘でみんなから気にいられていたが、一年くらいして、急にいなくなった。警察には届けてはあるが、事情がわかっていない」
メヌーは目の前が真っ暗になり、意識を失いかけた。
「あの日、お屋敷で祝いごとがあり、チェリは森で花を摘んでくると言って、元気に出かけた。でも、それっきり帰ってはこなかった。みんなで随分、探したようだ」
「それなのに、夫人はどうして姉の私に会ってくれないのでしょうか」
「それはあんたがジェノヴァ出身だからだよ」
「どういう意味ですか」
「ジェノヴァの人達の
*
ジェノブァは三年前からは共和国になり、今は選挙で選ばれた総督がいて、平穏になった。しかし、それ以前にはある残酷な貴族が独裁政治をやっていて、人を動物のように虐めたり、死刑にしたりしていた。
しかし、虐待にどうにも我慢ができなくなった市民が立ち上がり、その政権を倒したのだ。
その迫害の中心人物がベルサー男爵だった。革命が起きた時、男爵一家はコルシカに逃げてきたのだった。
男爵によって殺された市民の亡霊たちが、ベルサー男爵一家を追って海を渡り、コルシカにやってきて、復讐を続けているという噂だ。その頃からカラスが増えた。
「ジェノヴァからカラスだと、みんな言っている」
「亡霊って、海を渡れるものなのですか」
「そうとしか思えない。昨日も、男爵家の夫人が焼け死んだというではないか。あとひとりで全滅だ。息子のグロスがロンドンにいる。彼は亡霊の復讐を恐れているから、絶対にここには戻ってこないだろうよ」
メヌーはこのまま残って妹を探したかったが、田舎では病気の母が待っているし、持ち金もない。今は帰るしかなかった。
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