巨人の轡は夜に鳴る

雨籠もり

巨人の轡は夜に鳴る


「山泊か――」


 無謀だな、とフィオルはぼそりと言った。

 

 彼は一瞬だけこちらを見て、うっすらと妖しく微笑むと、組んでいる足を入れ替える――山中、山小屋のなかでの出来事だった。


 暖炉の薪が音を立てて崩れ落ちる。


 山小屋の主であるらしいフィオルは、かなり老齢の男性だった。北国か高山地帯の人間が着るような厚手の縫い物を肩から羽織り、時折指や肩を鳴らしている。


 窓の外には激しい吹雪が、殴りつけるように吹き付けている。夏も近付くこの時節にこの様子は、異常であるとしていいだろう。ただしこの場合、異常であるのはこの気象か、それともこの山そのものであるのかは、不明である。


 ばん、と刹那、窓になにかのぶつかる音が響いた。僕は反射的にそのほうを見やる。

 潰したような色の闇の手前に、べっとりとした赤の色が塗りつけたようにしてある。


「鳥だ」と僕の背中にフィオルは呟く。笑っている。


 何がおかしいのだろう。


 鳥か。


 僕か。


 フィオルは鼻を鳴らして立ち上がると、僕を通り過ぎて窓に触れた。それから、簡素な白のカーテンを下ろすと、ゆっくりとこちらを振り返る。


「可哀想に。吹雪で前も後ろも分からなくなる。地に足つけた人でも迷うのに、それすらない鳥がどうしてたどり着けようかね」


 地、か。


「地があれば、いくぶんかマシ、ということもあるのですか」


 と、元の椅子に戻るフィオルの背中に僕は訊く。彼はどっしりと安楽椅子に腰を落ち着けると、しわがれた溜息をついて、手すりに引っ掛けてあったブランケットで自分の身体を包むようにしながら、言う。


「地には流れがあるからね」


「流れ、ですか?」


「そうだ」


 彼の瞼のなかで、瞳だけが微細に動き、僕の全身を見る。


「獣道というものがあるだろう」


「ええ。あの、獣たちが何度も通るから、踏みしめられて、ひとつの道のようになる、という――」


「その通りだが、少し違う」


 違う?


「なにがです?」


 フィオルは静かに答える。


「道というものはできるものではない。見つかるものなのだよ。獣や人や、ひょっとすると――異形に、ね。」


「――異形。」


 またそれか。

 と、僕は心のなかで呟く。


 ベンドウ、というのはこの山の名である。名の由来は知らない。だがどうやら、異国の者が名付けたのが、そのままこの土地にも定着しているようである。僕が物心ついたころには、すでにこの山は「ベンドウ」として定着していたから、きっともっとずっと前のことなのだろう。


 このベンドウを超えるのが、都市・ヴィヨルドへの最短経路だった。


 もともと、学会に出席するためにこの山を越えた先の鉄道に乗ろうと考えていたのだ――ベンドウは山だが、連山のなかでは一番標高が低くて、登頂して向こうに行くまで、一日もかからないと聞いていた。


 けれどそのことを町の人々に言うと、みな決まって一様に、口をそろえてこう言うのである。


「ベンドウには異形が出る。」

 ――と。


 異形――か。

 伝承でもなく、口伝でもなく。

 具体的な様相も、詳細な内容もなく。

 ただ、異形。


 ひとではないもの。


 もっとも、山中、吹雪に遭って山小屋に逃げ込んだ身からすれば、その異形話は、こういった気象に対する警告のようなものだったのかもしれない――有名なものであれば、夜にパンを食うと小人に親指を奪われる、という話がある。

 簡単な構造だ。

 パンを食うには一斤から切り離さなければならない。その際には必ずナイフを使う。夜目の効かない人間が夜中に刃物を使えばどうなるか、それは想像に容易いだろう。


 ただ、異形。


 山の外で聞くならばまだしも、山のなかで、その存在について触れるとは。


 僕は少し身をかがめる。不意に思いついたかのような素振りをして、言葉をつなげた。


「そういえば、ここに来るより前に、ここには異形が出るという話を聞きました」


 僕の言葉に対し、老人は指を組むと、やはりうっすらと微笑んで、

「それじゃあ、お前は異形を見るためにここに来たのか?」

 と呆れたように言った。


「いえ、私は少し、ヴィヨルドのほうに用事がありまして」


「それならわざわざ、ここを通らずともいいだろう」


「ですが、ここを通るのが一番はやくヴィヨルドにつくんです」


「急ぎの用事か」


「まあ、そんなところです」


「なぜ濁す」


「別に、意味はありませんよ。学会に行くんです」


 ばちん、と薪が爆ぜた。


「学会……学問か」


「はい。電気工学を少々」


「ふうん、電気か。それなら、隣の山の、火災のことは知っているか」


 火災。

 僕は思い出す。確か、雷が落ちたとかで、山の木の一本が燃えたのだ。それが引火して、果てには山そのものを巻き込んだ大火事となった。火そのものは翌日の雨によって消えはしたものの、遠くの山から見れば焦げ付いた痕跡が見えるほど、多くの木々が焼け朽ちた。


「よくある話ですよ。今日の様子を見るに、ここいらの天候はかなり荒れっぽいようですからね――だから、今までこういった山火事が起きなかったことそのものが、不思議なくらいです。もっとも、この前の山火事だって、天候のせいですぐに火が止まったんですから――発生そのものに気付かなかった、ということもあるかもしれませんが」


「それがよう」

 フィオルは落ち着いた声音で続ける。


「異形の仕業だ――って言ったら、お前は信じるかい」


 異形。


 その、仕業。


 私はやや驚いて、フィオルの顔を咄嗟に見た。いたずらをしてやろう、といったふうな感じはなく、ただ淡々とした表情のままでいる。


「……それは、火災のことですか? 西洋の首無しのように、青の炎を撒き散らしたと?」


「いいや、違うさ」

 ぼうっ、と暖炉の炎が鳴る。


、異形の仕業と言っている。」


 火消し。


 私は咄嗟に、異形どもが桶を抱えて集まる様子を想像して、吹き出してしまいそうになった。火が消えたのは、雨が降ったからだ。鎮火前、半日ほど豪雨が続いたという話を、私は友人から聞いていた。


 火を消したのは異形ではない。


 気象だ。天気だ。雨だ。


 しかし、私が笑い飛ばそうとすると、フィオルは少し身体を傾けてこう続けた。

「お前さん、学者さんだろう」


「ええ、一応」


「それなら、実験だとか、調査だとかするんだろう」


「それは、ええ。実際にやってみないことには、どれだけ整合性のある話であっても、仮説に過ぎませんからね」


「ほう、実際にやる。」


「はい。良い学問のためには、良い資料が必要ですから」


「ほら、それだ」

 フィオルは嬉しそうに首を曲げた。

「お前は、山火事の火が雨によって消えるさまを、間近に見たのか」


 私は虚を突かれたようで、うろたえた。


「それは、ええ――見てはいません」


「見てもいないのに、なぜ言える」


「それは、常識というものですよ。それ以外に、火が消える理由がありますか」


 ここでフィオルは、こつこつと奇妙な笑い声をあげた。


「お前は今しがた、どれだけ整合性のある話であっても、仮説に過ぎないといったばかりなのに――今ではこうして、実際に見たわけでもないものを、常識だ、普通だとか言って、適正な手続きを無視しようとしている。」


 老人はぴたり、と笑うのをやめる。


「どうしてお前さんは、あの雨が――山に人を寄らせないための、人払いであると気付けないのだね」


 雨が。

「人払い――ですか」


「そうだ」

 フィオルは言う。

「雨が降っていれば、自然と人は内に籠もるというものだろう。であれば、山を見る者もいなくなる。そういうものだ」


 人間ってのは、実に短絡的なものだよ、と彼は囁くように言った。


「最近の連中は、怪異だの妖怪だのってのは、昔の人間に判別のつかなかった物事を、その時代なりに解釈するために用いられた、なんて言っているがね、私からすれば大間違いだ」


「大間違い、ですか?」


「ああ。怪異とかってのはもっと別のところにあって、自分たちの傍には決してないと本気で信じていやがる。だから、昔の連中には判別のつかないような物事に、怪異の所在を限定する」


 あたり前のところに、怪異があるかもしれないと、疑うことすらしやがらない。


「だから死ぬのだ」


 と、老人は断言した。


 僕は訊く。

「では、あなたは科学を否定なさるおつもりで?」


「そうは言ってねえだろうがよ」

 老人は首を鳴らした。

「けれど、そういう可能性はあるって話だ――ある事象が発生するために必要な経路は、ひとつとは限らない。」


 ほら、最近はこういう話が流行っているらしいじゃねえか、と老人は続ける。


「推理小説だかミステリーだか知らないが、とにかく――或る、密閉された空間があるとする。窓も扉も鍵がかかっていて、どこからも入る余地はなく、そのなかで首を吊って死んでいる人間がいる。けれどこの場合、こいつがどうやって死んだのかは――調べてみなければ、実際に見てみなければ、誰にも分からない」


「つまり――単に、自殺の場合もあるし、誰かに殺されて、なんらかの仕掛けによって外から施錠されたのかもしれない、と。」


「それに」

 老人は細く長い人差し指を立てた。

。」


 なるほど、老人の言いたいことが分かった――シュレーディンガーの猫箱だ。

 箱を開けるまでは、猫がどうなっているか知ることができない。

 それとほとんど同様に、猫が死んでいたとしても、その結果だけを知ったところで、どうして死んだのかは、誰にだって判断できない。


 すべてはまだ憶測。

 仮説に過ぎないのだ。

 だから、どういう可能性も許される。


 それが仮に、異形の仕業だとしても。


「しかし――」

 と、僕は言葉を連ねた。


「やはり怪異よりも、雨のせいで火が消し止められた、と見たほうが、なんというか――信憑性がありますよ。科学には根拠があって、火は水で消えるんですから。」


 するとフィオルは深くうなずいて、それから目を閉じた。どうやらそろそろ、眠りにつく時間だ、ということらしい。けれど彼は最後に、一言だけ私に残していった。


「私は――実際に、目の前で見たのだよ。」


 異形が火を消す。

 その様子を。



   2


 

 幼いころから、そういう話はよく聞かされてきたものだ。


 盗み食いをする子は、ばぎょうどに食われてしまうぞ――。

 悪だくみする奴のところに、ヤドウガイはやってくる――。

 そんな子は、カッポウに記憶を全部とられてしまうぞ――。


 そういう、怪異譚。妖怪譚。

 別に、そういうものを片端から信じているわけではなかった――その昔、家族にそうからかわれたように、僕はその昔、人よりも少し、なんというか、小賢しくって――だからそういう物語には、科学がどうの、心理がどうのといって、まともに取り合ったことはなかった。


 けれど、信じないのと、怖くないのとは、違う。


 例えば、西洋には触れると自動で刃が収まるようになっている、電動鋸というものがあるらしい。腸詰を使った実験が有名だ。指に見立てた腸詰を電動鋸に当てると、たちまち刃は引っ込んでしまう。腸詰は無傷だ。


 触れても危なくない電動鋸。


 そういう機構があって、安全のための確立された構造がある。

 信頼があって、実績がある。


 信用に値する――その電動鋸に触れて指がちょん切れた、なんて話を、馬鹿馬鹿しい嘘だと笑い飛ばせてしまうくらいには。


 けれど、信じないのと、怖くないのとは別だ。


 ならば、「その電動鋸に、お前の五指をすべて当ててみろ」と言われて、はたして僕は平気な顔をして、狂暴な音を立てながら、ただ切断のためにのみ回転する冷たい刃に、自分の五指を差し出すことができるだろうか?


 否。

 できない。

 恐ろしさが勝つだろう。


 それと、同じだ。


 いないと分かっているのに。

 いやしないと信じているのに。


 恐怖は消えない。


 信じるだけでは――不十分、ということだろうか。


 学を持って、鼻で笑うだけでは、足りないか。


 足りないのだろう。




 あれは、ふるさとの寂れた一本道だった。


 視界、左右を田地で囲まれて、広々と視界の広い道を、姉と共に歩いていた。


 姉とは歳がかなり離れていて、私は常々、姉のことを見上げながら、その道を渡っていく――姉は美しい人で、私が時々見上げると、そのことをあらかじめ知っていたかのように、私のことを見下ろして微笑む。

 それが目の合った日には、私は恥ずかしさに襲われて、うつむいているしかなかった。


 そういう、珍しくもない日のことだ。


 私と姉は両親に頼まれて、野菜を収穫しに行った。その帰り道だった。


 夕刻にすでに呑まれてしまった森の闇に囲まれて、田地に囲まれたその道だけが、真っ赤な日に照らされている――それはまるで、町の見世物屋がやるように、光源に赤のビニールテープを張り付けたみたいに、ただ、すべてが赤みがかっている。


 僕は姉と手をつないで、あぜ道を渡っている。


 通りには押し車や馬、それから人の足跡が、重なり合って繋がったり踏まれたりしながら続いている。けれどきっと、この足跡がこれ以上更新されることはないだろう。


 まだ明かりのない時代だ。


 突然、姉の足取りが止んだ。


 その停止についていけずに、思わず転びそうになる私を受け止めて、姉はぼそり、と呟いた。


「誰か、つけてきているね」


 つけてきている。


 姉は再び、歩き出す。僕は衝撃と恐怖とによって鋭敏になったその聴覚によって、背後のその存在に気付く。


 びすっ。

 びすっ。

 びすっ。


 何かが――。


 びすっ。


「振り返ったらいけんよ」


 ――いる。


 びすっ。

 びすっ。びすっ。

「おねえちゃん」

「静かにして」

 びすっ。びすっ。

 びすっ。

 見上げると、姉はいつにもなく真剣そうな眼差しをしていた。けれど、一拍遅れて、別の現象にも気付く――彼女の唇が、震えている。

 嗚呼。

 怖いのだ。

 恐ろしいのだ。

 びすっ。

 段々と、姉の呼吸が加速していく。

 びすっ。びすっ。

 胸は上下し、唇の震えは増していく。

 びすっ。びすっ。

 僕の手を握る力が強くなっていく。


「ひょっとしたら――」


 びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。

 びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。


「ぼらうど様、かもしれない」


 びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。。びすっ。びすっ。びすっ。「ぼらうど様?」びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。「……神様。」びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。びすっ。


 姉は私の手を掴んで、強引に道の脇に引っ張った。あまりにも強い力に手が痛む。けれど姉の緊迫した表情に、僕は声をあげることもできない。


 途端、音が不意に、鳴りやんだ。


 まるで僕たちを、見つけたかのように。


 姉は囁く。


「私の言うこと、そのまま繰り返して」


 僕はうなずきながら、僕たちがやってきた道を振り返る――そこには、けれど誰もいない。

 

 音もない。


 姉は震える口で、言った。


「ぼらうど様、ぼらうど様、どうぞお先に」


 静寂のなかに、地鳴りのような低い音が響く。僕も慌てて、姉と同じ言葉を口にする。


 途端。


 りん――、と。

 ――鈴の、音のような。


 そのときだった。


 びすっ――と。


 道に。


 丸い、足跡が――浮かんだ。


 びすっ。


 びすっ。


 足音は無数に、叩きつけるように何度も何度も地面に丸い跡を残すと、そのまま僕たちの前を通り過ぎて行った。


 あれは、どういったことなのだろう。


 いまだに、よく――分からない。


 ひょっとしたら、姉や村の人が、僕にいたずらをしようとしたのかもしれない。音はどこかから鳴らして、姉のあれは、全部演技で――いや。


 知っているはずだ。


 分かっているはずだ。


 あれは、演技なんかではない。


 本当の、恐怖だったはずだ。


 それなら、あの足音はなんだったのだろう。


 あの足跡は、なんだったのだろう。


 今でも、あの足音は鮮明に思い出せた。


 びすっ。

 びすっ。


 どうして、こんな話を、今更になって思い出すのだろう。もう、何十年も昔の話だというのに。


 ああ、そうか。


 フィオルの言葉だ。


 ――道というものはできるものではない。見つかるものなのだよ。


 獣や人や、


 ひょっとすると――


 異形に。


 見つかったのだろうか。


 あの道で。

 

 ぼらうど様、とやらに――異形に。


 怪異に。


 あるいは、


 神に。


 見つかったものだけが、道としての体を為すのか?


 けれど考えて見れば、人はともかくとして、獣や、怪異は――どこを通っても、いいはずなのだ。


 均衡を好むのは人の性というものだろう。食い荒らし、整然と生と死とが混在している山のやつらにとって、道なんてものは本来、必要ないはずだ。


 けれど、道ができる。


 見つかって、踏みしめられて――轍として、残る。


 地には流れがあるからね――か。


 あるのだろうか。


 姉と渡ったあの道にも、そしてこの登山道にも。


 ぼらうど様。


 異常な気象。


 怪異による火消し。


 流れ。


 足跡。



 そしてすべてを受け渡す、《道》。



 道、か。



   3


 

 切るような風の音によって、僕の意識は泥のような眠りの世界から浮上した。上体を起こして周囲を見やる。暖炉の炎は消えている。耳を済ますと、フィオルの寝息も聞こえた。風はまだ強いようだけれど、吹雪は止んでいるようである。


 窓からは月明りが差していた。


 僕はあくびを漏らしながら、安楽椅子から立ちあがった。長らく座っていたためか、身体中が軋むようである。背筋を伸ばすついでに、足、腕、と身体を伸ばした。


 そのときだった。


 りん――と。


 鈴の音が、鳴った。


 僕は反射的に振り返る。


 じわり、と耳の後ろに汗をかく。


 扉の外だ。


 空耳だろうか? いや、しかし、その音はまるで――。


 ぼらうど様、の。


 僕は忍び足で、扉のあるほうへ向かう。


 その瞬間だった。


 ずんっ――と。


 音が――。


 否、


 地響きが。


 なんだ?


 何が起こっている?


 僕は考えながら、フィオルの話を思い出していた。


 ――あたり前のところに、怪異があるかもしれないと、疑うことすらしやがらない。


 あたり前の、こと。


 ――私は実際に、目の前で見たのだよ。


 見る。


 ――異形の仕業だ、って言ったら、お前は信じるかい。


 信じる。


 ――道というものはできるものではない。見つかるものなのだよ。


 見つかる。



 



 信じないのと、怖くないのとでは、別だ。


 いくら信じていなくても、否定したくても――。


 怖いものは、怖い。


 恐ろしいものは、恐ろしい。


 ずんっ――。


 僕は扉をゆっくりと開いた。


 月光。


 その白い輝きの下を見る。


 ずんっ――。


 そうだ。


 


 


 ずんっ――。


 僕は、それらを――


「…………!」


 僕は思わず、叫びそうになり――慌てて、両の手で口を塞いだ。


 大木ほどの腕。


 重機ほどの足。


 鉄柵が如き鎖の衣服。


 その下に隠された、溶岩のような筋肉。


 岩石のような骨格。


 頬――牙。


 全長は二十メートルを優に超え、その体重はおそらく、何十トンともなるだろう。巨躯――と、表現するのも烏滸がましい。

 それは明らかに、人の領域を超えている。

 生命の限界を逸脱している。


 歩くたび、地は震え、山は鳴る。

 それが、新雪の安らかに積る山の道のりを、確かめるように踏みしめている。


 巨人――だろうか。


 否。


 それだけではない。


 ずる、ずる、と引きずられている――これは、蛸だろうか?

 しかし、四肢はある。触手のようなものも――唯一これだと分かる口には轡がはめ込まれていて、巨大な鈴がそこに括り付けられている。それが、おぞましくも神々しい音をたてているのだ。


 そして、それの皮ふにあるもの――あれは、楔だ。


 打ち付けられた楔。それに続いた鎖。


 巨人が、楔を打ち付けたそれを、運んでいる。


 ずるり、と。


 運ばれていく――。


 ……そういえば、ベンドウは、連山のなかでは一番標高が低くて、登頂して向こうに行くまで、一日もかからない。


 踏みしめられたのか?


 彼らによって。


 見つけられて、気付かれて――築かれた。


 道が。


 そういえば、フィオルはこうも言っていた。


 ――どうしてお前さんは、あの雨が、山に人を寄らせないための、人払いであると気付けないのだね。


 だとすれば――


 人払い――か。


 鬱陶しいものを追い払うように。


 僕はそこで、腰が抜けて、尻餅をついてしまった。下肢に力が入らない。


 巨人の列はゆっくりと、悠々と、そんな僕の前を通り過ぎていく。巨人の列は永遠に続いていく。

 先が見えない。

 終わりが見えない。


 巨人は延々と進んでいく。


 道を。

 歩んでいく――そうか、道。


 もとからそこには、流れがあって――。


 この道に、選ばれた。


 踏み固めることを、許された。


 土地として。


 山として。


 道として。


 僕は祈るような気持ちで目を閉じる。発狂を誘う轟音のなかで、僕の視界は暗闇に囲まれる。


 それはまるで、あの夕暮れの田地のように。


 暗闇のなか、確かな足取りだけが、僕の前を確かめるように進んでいく。



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