世界
清水
第1話
世界 清水
1
窮屈な中庭では柿の木の葉っぱが茂る。諭吉のとなりには顔の小さな女の子がいて、目とか口とか鼻などは無いのだが、産毛のごとく生えた眉と時々みせる表情筋の強ばりとが、それを女性だと認識させた。黄色いテラス用のベンチのうえで額から流れた汗は肌となじみ、秋を待つ少年少女はお互いに夢中すぎて、暦ではとっくに冬なのにそれが秋だと言い張った。
諭吉は寂しかった。本名は田口諭吉だった。フルネームで呼ばれたことなど記憶にはない。病院などで腹を空かせた小鳥たちに餌をまくかのように、敬称付きで暖かそうな無地の服を着たひとに呼ばれてるはずだが。もしくは学校で椅子に座る普段は寡黙なひとに、手を挙げるなら自分の声などはなから必要ない気がして、相手の目を見つめていたら急に語気を強めた声で名前を呼ばれた。彼は耳がいいほうで、べつに相手の声が聞こえなかったわけではない。色々と面倒だった。動作を強制されるわりに背丈の大きなひとが感情をぶつけてくるのは自分が幼稚園児に戻った気がした。あれ、おかしいな。ぜんぜん成長していない。当時はまだ一万円札の紙幣に福沢諭吉という彼と同じ名前をもつひとの姿が印刷されていたので、そのことでずいぶんとからかわれた。
えら骨の張ったひとの笑い話に、諭吉はぜんぜん笑えなかった。黙って授業だけをやれよと子供心に思った。削って小さくなった鉛筆を転がして気を紛らわせた。背丈の高い人たちは無意味に喋る。まったくこんなものが教育と称されて容認、むしろ積極的に推奨されているのが僕の生まれた社会か、と情けない気持ちは隠せない。将来を脅して服従させないと好かれる自信をもてない連中が生きている。教える立場であるはずの人間が間違いを決して認めないのだ。
彼は将来の夢を書けと命令されて、空白の欄に学校と書いた。意味がわからないと却下された。諭吉くん学校は建物ですよ。説明するつもりもなければ修正液で書き直すつもりもない。学校の先生になりたいのかな。それはない。でもね、先生は職業を選ぶのも大事だけどね、ほんとうに大切なのは、その職業に就いてからどんなヒトになっていきたいか、だと思うんだ! そうなんだ。じゃあそれでいいや。学校の先生になるんだったらもっと勉強、がんばらないとね!
向いてないな、と諭吉は思った。彼の普通はいつも裏切りとなる。常に両刃を振り回してるようなもので、他人との親密な関係を結ぶのは不可能だった。いや、彼にも暴力であるならその瞬間だけは他人とも痛みを共有できた。デヴィッド・フィンチャーのファイトクラブという映画で男同士が殴り合ってる姿をみるのは単純にいいなと思った。単純なものと一緒に居たいと思った。人間は複雑すぎる。情報量が多くていつもパニックになる。もっと暴力が容認される世の中になって欲しい。
切なる願いは胸のうちに閉まっておく。正体のわからないものをわざわざ分析して騒ぎ立てて勝手に決定したりなどしない。そんな生き方は困難をきわめた。わけのわからないミスを連発した。彼の思考はもはや紙とペンのために最適化されていない。思い立ったらすぐに直せるデジタル表記のやり方に慣れていた。思考がその人のひととなりを決定するなら、彼が上手く笑えないのも当然の成り行きといっていいだろう。ひとは価値を最適化の果てに認めないのだから。
黄色いベンチにある、かろうじて人の頭だと認識できるそれがあきらかに熱を帯びているのに彼は感心した。まるで本当に生きているみたいだった。常識的に考えて頭だけで生きている哺乳類などいない。さわってみると肌の質感が自分とよく似ていて知らない人間にさわった気がした。逆説でものを考えるのは結局のところ孤独であるからなのだろう。孤独は時間を巻き戻す。かたちのない映っては消える面影が、照らされた途端にそのどれもが自分の影でしかなかった、なんてことは日常茶飯事だった。とにかく暗いのである。
夜に出歩いたりなどしなかった。外に出るのは中庭くらいだ。ぜんぜん人と会っていない。ここで一生を過ごす。そんな愚かな選択が彼の生きる唯一の気力となっていたのである。
螺旋形の階段は彼の手作りだった。おにぎりではない。相当なミニチュアのサイズ感で拳で握りしめたら下の段から半壊する。もちろんせっかく作ったので簡単に壊したりなどしない。持ち運ぶときは直接手でふれずに全体をガーゼで包みこんでから、隙間を針と糸で縫い合わせ、輪っかをつくりさらにまた輪っかをつくり、蜘蛛の巣のようだと粘着性やうっとうしさの有無にかかわらず、羽を広げた美しいものが捕まえられそうになるまで細かい輪っかを拡張し続けた。
そうして出来上がったものを指でつまみ、移動のために上から引っ張る。ぶらんぶらんと動いて楽しい。彼の感情は更新された。どんな風に? ときいてくる人もいないので考える気力が湧く。わくわく。
2
センシティブなのである。なにが始まるのかはわからない。彼は全身、濃い緑色のジャージに身を包み、上下がセットで下北沢の比較的きれいな店で売っていたのだが、これが値段相応であるのかはまったくいつまで経ってもわからなかった。
その恰好で街にくりだす。前言は簡単にくつがえす。前々から気になってた場所があるのだ。それは東京の北側に位置する場所にあった。病の記録が残る場所である。サナトリウムが郊外にあるのなんて常識だった。服のタグをはじめて洗濯するときまでは決して切らない、というのが彼の数少ないこだわりの内の一つだったが、ジャージだから頻繁に洗ったりしないはずだが、タグどころか裏地のサイズ表記もはがれていた。案外、服のサイズがわからないというのは不安なものである。市営バスに乗りこむ彼はどこか挙動不審だった。バスの広告はぜんぜん好きになれない。車内で揺れを感じるたびにケースに入ったICカードの有無を確認した。見るべき景色など特になかったのである。
今日は日曜日であるが時間帯のせいもあってかバスに人はそんなに埋まってない。はっきりいってスカスカである。そこで明らかに眠ってばかりいる人をみつけた。第一印象は高校生だと思っていたが、話してみると大学生だった。大阪出身で、モンゴルと香港とニュージーランドとを転々としたあげく、母親の住む東京に越してきたの、と言っていた。
諭吉は、自分と同じくらいの見た目なのに波乱万丈な人生もあるものだといぶかった。流流という名前の彼女は今月中に本名を改名すると言ってきかなかった。
「どうしてそんなことをする?」と彼はきいた。右側の席の窓際から左側の席の窓際まで列は同じであったが話すために距離を近づけることもなかったので、彼らのぼんやりとした会話は運転手や他の乗客たちに聞こえていたのだろう。最後まで分かりあえた気などしなかったが、お互いに公共物への信頼があってか、クスリとも笑ったりしなかった。
「それはもちろん注目を集めたいからでしょう」
彼女は鞄からピンク色の櫛を取り出した。それで髪をとかしはじめたが、なにか物足りないなと諭吉はその行動を凝視した。すぐにはわからずに、目元に小さな黒子があるのを見た。目元、というよりは耳元に近い。横から見ると穴は目に思えた。彼女が寒そうにくしゃみをしてようやくわかった。鏡が不在していた。
「流流のほうがきっと目立つのに」
「流流ちゃん、って呼ばれたい? これって可愛い?」
「いや、僕は人を可愛いとは思わないようにしてる」
「なんでええ?」溶けるように彼女は言った。実際、姿勢もあまり良くない。
「可愛い、って欲深いんだよ。相手を馬鹿にしてる感じがしてとても嫌だね」
「えっ。思想強いね」
そうだろうか、と諭吉は思う。だんだんと記憶が薄れていくのを抑えるために、彼はたまに物珍しい表現を使う。それが相手にみせる最大の敬意だった。やはりどんな人も日常の一部として切り取られるのに抵抗があるはずだから。ガラスのコップや安物のお皿などでは決してないのだ。できることならつねに、喉に様々な物体の破片がこびりついてあえでいるような人間ばかりと接していたい。諭吉もその願望を気安く表ざたにしたりはしない。
「どこで降りるの?」
「ハンセン病院の前さ」
彼女はスマホを目にする。「間違ってるよ」
「だいたいの意味はあってるはずだ」
不満に思ったのかスマホを見してきた。爪の長い指先には国立ハンセン病資料館と表示されてある。
「これって伝性病でしょ。結構有名なやつ。水俣病とか色々習わされたなあ」
「差別の歴史だよ」
バスは停車した。諭吉はずっと彼女のことを見ていたが、止まるためのボタンを押した姿など見なかった。前のほうの席にいた老人が立ち上がり、頭にかぶった帽子をおさえてバスから出ようとしている。彼女も席を立った。もう降りる時間なんだなと思った。手を振って別れの挨拶をしようとしたときに、相手の顔が青ざめているのをみた。いや、もともとこんなふうに血色の悪い女だったのかもしれない。彼女は自分の向かう先に、なにか面白いものがあるといった素振りで、諭吉も同行するように促した。彼は指に止まったハエを払いのけるようにして、ついにはバスから出てしまった。目的の停車場まであと二つといったところだったのに。
3
流流は病気を患っている。詳細や病名は教えてくれなかったが、たしかに彼女は病人に足る資格があるように思えた。医療や福祉とはまるで縁のない無資格でしかない彼であっても、なんとかしてあげたいと思わせる魅力があった。単純に小さくてかわいらしいということだろうか。流流は若君のように髪を一つ結びにしている。乱雑な姿がむしろ愛おしい。軒下からお面がはらりと落ちるごとくの無邪気さしかない笑みは素敵だった。ここで美麗賛辞を並べても仕方がない。ともに過ごした時間が短い以上、のっぴきならぬ怖さを覚えさせて、体に伝達し、SNSのアカウントのように気軽に離れるというのでは彼の理念に反する。女を可愛いと思わないこと。それに固執するのは愚かではあったが嫌いではなかった。
服装はどこかぼろい。田舎に住むおばあさんが着ると似合いそうな気の抜けた格好だった。しかしそれはたいした問題にならない。下半身も上半身も似たようなものだ。どちらかが欠けていればタイトな衣類は基本的に似合いそうにない。そのため体よりもワンサイズかそれ以上おおきなだぼついた服を着るべきだった。そういう好みのシルエットに、会うときはいつもやたらと明るめの彼女が強い日差しに当たるとき、その影を踏んづけてみたくなった。
「いったい君はどこを目指しているんだ?」
二人で歩くのは苦手だった。どうしても吐き気がする。
「内緒」と流流は言った「これからは何が起きても内密にできる、と、約束できないだろうから」
「秘密があるのか。それはとっても大事なものなんだね」
「さあね」
首をかしげた。わざとらしすぎて心配になる。諭吉は財布の中身を確認した。
「でも約束ができないと決めつけるのは早すぎると思うよ。僕たちは出会ってからまだ一時間も経っていない」
「他の女の子にも同じこと言ってるんでしょう」
「事実を言ったまでさ」
「事実ね……」言い淀んだわりに足は動く。いつまで経っても止まる気配がない。どこからともなく風は吹いた。髪の毛が乱れる。互いの顔を見ないようにした。
「事実ってとても素敵だわ」
嘘つけ、と諭吉は思ったが口は開かない。唇は砂のように固まり喉仏はただの棒みたいになった。ようするに彼は黙った。だわ、とか女言葉の口調の変化が、隣り合っているはずなのに、どこかべつの誰かと話しているような気がしてならない。所詮、自分は部外者なのだ。部外者は黙るしかない。司法裁判でも関係しないで発言するのはまったく認められていない。正当な手段の言語活動。それに準じたとして、事実が素敵、などという言葉がこの女の口から出てきたとは信じられない。それは経験が浅いせいかもしれない。長く付き合えばわかりあえるなどというのは迷信だ。わかる、という状態自体が不確かなのだから、それは肌を触れ合わせたあとの肉団子でしかない。わかりあえた、は誤りだ。もっとも近しいのは自殺。だけどそれはあまりに物騒がすぎるので、相互で手を打つというのはどうだろうか。
頭のなかだけで一人で考えていたって仕方がない。諭吉はこれを彼女に話すべきだった。でも出来なかった。いまでは出来なかった理由を考えてる始末である。元々のわかるとは何かという命題をすっぽかして、鳥の鳴き声のようにやぶからぼうに話せなかったのはなぜだ、といつまでたっても後悔している。いい加減にうんざりだった。どこもかしこも同じような物語であふれかえっている。どこの誰でも帰ってきたりしないのだ。
流流は学校に入った。母校の高校であるらしい。モンゴルとかに住んでたんじゃないのか、と彼はきいたが、あれは全部嘘なの、と悪びれもなくこたえた。だってどう考えてもおかしいのに、信じるほうが変だよ。言われてみればたしかにそうだ。彼は知らない世界を信じやすい自分を意識した。それだけ身の回りの常識的な生活に嫌気がさし、チャンスがあれば破壊もやむなしと考えてるのが相手になにも言わずとも伝わったのではないのかと、彼は意気揚々と発言する。
「学校にはいい思い出がないんだ」
「だいじょうぶ」と彼女は諭吉の手を握りしめた。あざといのか、ただの馬鹿なのか、遠慮のない距離の縮め方は起きたはずなのに窓のカーテンを開けたり閉めたりを繰り返す夜中を意識させた。いまはどこかで強烈なライトに照らされてるだけで、本当は夜じゃないのではと疑ってみたりもした。
「きっと大丈夫だから。わたしもあなたも、これからはずっと学校に歓迎されたりなんかしない」
「金を落とさないからだろうな」
「というか不法侵入者だね。用事があるから仕方がないの」
学校は閉まっている。しかし部活動に励む生徒もいて、最初に鍵がかかっていると思われた場所は、この敷地内でも例外な入口であった。用事とは何か、となどやぼなことはきかない。諭吉はそんな自分が気の利く悪くない奴だと思いたかったが、行動の直接的な原因は、たんに年齢を意識した臆病さからきたものだというのを、少なくとも自分のなかではかっこ悪くても心に刻んでおこうと思った。
たった二歳、歳が離れているだけでも女の子はきわめて恐ろしい存在だった。諭吉は緑一色のジャージに自分の汗が流れるのが気持ち悪く、本来の目的に集中するために、いったんは彼女と別れた。連絡先を交換していたから、また会えるだろうと思った。
4
明らかに蛹がある。規格外の大きさではあるが、黒のフェイスにもたれかかるそれは単なる無機物とは思えない。諭吉は道を間違えて遠回りをした。ネットでみた国立ハンセン病資料館の建物はまだ姿を現さない。その場にいるのが自分ひとりだったので思わず写真のシャッターを切った。しかし撮り方が下手くそで、大きさ、という一番の衝撃を見たひとにわかってもらえそうにない。後から見直してみると蛹を拡大した合成写真にしか思えなかった。フェイク画像だ。どうせなら女性の裸体を張りつけたほうが反応はあるだろう。画面のなかでは誰もが見るものとなるのだから。
いっそのこと絵にした方がいい。彼は画材道具を通販サイトで購入し、翌日に備えて絵の構想を練った。音よりも色が信じるに値する。音は老いる、それは確かだ。彼の前に大きな蛹が現れた以上、お家に帰って酩酊してる場合などではないのだ。
ともかくこれは家族には言えない。仕事の人にも、友人はいないから考えるまでもない。蛹の全貌は干からびた茶色だった。他の葉っぱと同じく奇妙に色あせている。植物にたいする知識を欠いているせいで、しわになったり穴だらけになったり変色するのか、などといった理由も上手くつかめない。色素とか栄養がカタガナで命名されたニコチンみたいなものが抜け落ちて、だんだん寂しくなっていく。いまはそれで充分だった。図書館で本を山積みにしたところで頭がよくなるわけでもないのだ。
不思議なもの、まだ意味になっていないものなら、彼の中庭にもあった。毛だけが生えた女性の肉の塊である。これはちょうど子供が扱う堅いドッチボール用のボールくらいの大きさで、人間の頭もだいたいこんなものだろうと推定できた。決してかけ離れてはいない。連想しようと思えばクラスの女の子の顔も連想できる。だいたい子供のころは化粧もしていなかったから、顔の各部位はあってないようなもので、平たくこんなものだったのではないかと思う。彼が産まれる前に死んでいた犬の犬小屋のなかに、その奥のほうに入れてあった。家族のだれも興味を持ったりなどしない。
手でつかんでみる。時間の経ちすぎたパンのように固い。今日は調子が悪いのか動かない。しかし生物特有の温かみはある。いっそのこと放り投げてしまえば、あんがい物事は進んでいくのかもしれない。いまはまだ無色透明のように彼に害を成す存在ではないが、どこかで牙をむいたとき、たとえば急に粘着力と弾力性の両方を持ちはじめて、自分の体に侵食してきたら迷わず振り払おうとするだろう。庭にあるコンクリートに叩きつけて絶命を促すかもしれない。
蛹(だと彼が思ったもの)と女の顔(だと彼が思ったもの)の違いはまず単純に大きさにある。種の違いなど生殺与奪権をもっていなければ意識などしない。無意識では言語活動において振れ幅が大きすぎる。一向に定まらないものはやがて飽きるので、時間の有無が軽視される点において、やはりこれも違いではない。極限まで空腹にした犬の群れに人間を放り込んでみればただでは済まないだろう。眼球などお構いなしに喰い破られて、絶叫のために手足が動く。しかしこの実験的なイメージは適切ではない。種類の有無を確認するためには濁った川に本物の人間を蹴り落さないといけない。残念なことに諭吉はいままで人権をもった人間しか関わりがないので、感情を挟まずにひたすら冷徹に客観的になって人を川に落とすなんてできそうにない。どうすればそれが可能だろうかと悩んだ。やはりそのためには人と親しくなる必要がある。
ロマンチックに二人で船のうえに居られるくらいまでは親密度を上げなくてはならない。信頼されて、その信頼が一発で無為になれなければ人間として生きる甲斐もないというものだ。
流流、という女の子が候補にあがった。好奇心と好意は似たようなものである。対象の反応に違いがあるにすぎない。対象の反応を取るに足らないものとして扱えさえできれば、図鑑のなかにある昆虫も簡単に異性そのものとなる。紙のページから破って飛び出してくるのは何も作り手の放置された糞ばかりではないだろう。きっとそこには光ばかりがある。情報を咀嚼するのはいつも頭だ。そこから苦痛を得るというのはほとんど不可能であるように思われる。諭吉は子供向けの昆虫図鑑から蝶の蛹をじっと眺めた。蛹だけの図鑑があまり広く流通していない以上、人間の分類の仕方には強烈なバイアスが働いているのは間違いない。が、それは言葉にしたとたんに誤りだ。そういう事例を数多く知っていた。諭吉はどんどん恋心が募った。分類に対する悪夢が始まったのである。
5
「本当にこれと同じものがあるなら見てみたい」
流流に蛹の写真を送った。するとこんな返信がきた。
「でもね、人気のない場所に行くのはやっぱり抵抗がある。二人きりも怖いけど大勢の人がいるとしたらもっと怖いな、って想像してた。私が恐怖なんて払いのけられるくらい、すごく強かったらいいんだけど。物理法則を無視して嫌いな相手を空中分解できたりね。そういう特別な力があったら、なんていうか、私たちは出会ってなかったんじゃないかな。正直に言うけどあの日の私は産まれたての小鹿だったの。あなたの目にどう映ったのかは知らないけど、どうしようもないことを悩んでる不機嫌な小鹿だった。流流って名前は些細な問題だよ。だからさっさと変えてしまいたい。候補はいくつかあるんだよ。美咲とか、唯とか、花音とか、とにかく普通な名前が欲しい。それってそんなにいけないことじゃないよね? 流流ちゃんのくせに、私ってなんだか、いつも期待外れなんだもん」
「返信ありがとう。悪いけど僕はこれに関しては譲る気が全くない。君を蛹のある場所に連れて行くことは、もう既に必須事項なんだ。死地に追いやられた兵士が胸の奥に秘める思いなんて僕には見当もつかない。そちら側に色んな事情があるようにこっちにも譲れないものがあるんだ。このメッセージが無視されて君が行方をくらましたとしても代替えの人間を探そうなんてつまりはないから、いまのうちに不安になっておいたほうがいい。そちらのほうが人間らしくてインテリジェンスだ。恐怖は伝染する。なんで小鹿で世界にたいしてビクビクしているのか知らないが、僕ならそれを塗り替えられるよ。根本的な解決には至らないが死ぬ直前まで濃いペンキの匂いを嗅いでればいいじゃないか」
流流を連れて蛹のある場所まで来た。他人の葛藤なんて知ったことではない。ベルトコンベアーのように関係すべきだ。大きな蛹は小さくなっていた。フェイスに糸でつるされている。これは昆虫の蛹なんかじゃない。ただの枯れた植物だよ。目の前にある現実はたしかにそうだった。しかしそこで容易に納得するなど、そんな態度などはこれからの生活において理性として意識する必要などなかった。さっきからうるさいんだけど。僕が前に来たときはこんな様子ではなかったのだけれど。
他人が何を見ようともどうでもいい、諭吉は投げやりな態度を隠さなかった。フェイスで仕切られた向こう側には死体でも転がっていそうな工事の跡がある。放置された土塀に不自然な穴、それらは乱雑に荒らされているわけでもなく、止まったまま秩序を保っていた。
生き物といえば鴉だった。蛹の奥に鳥かごがある。どうも鴉たちはそこに閉じ込められているらしく、やたらと叫び、鳴き声に夕日を想起したりなどできなかった。
「病気になりそう」
流流は手で口を覆った。たしかに狭い空間を鳴き叫びながら飛び回る鴉たちは病を知らせる一つの手がかりのようだった。ホラーゲームやくだらない映画作品で作り出された偏見であるに違いなかったが、(彼らは医療どころか感染症にたいする知識もろくに持っていない。)病はなってからでは遅い。ともかく軽妙でないことは若い男女にとって親しい間柄でなくとも錨を下ろされたかのような暗澹の気持ちにさせられるような思いがあった。
彼ら二人とも動物に関しては都会人同然だったのである。諭吉は都市部に生まれ都市部から出たこともない。流流は一面が緑でおおわれた田園地帯で時が止まったかのような侘しい思いを知っていたが、病弱なために外を出歩く機会はまるでなかった。
病を治すためにはまた新たな病を迎えいれるしかないのを彼女は知っていた。諭吉のペンキの比喩はそんなに抗ってみたくなる身勝手さでもなかった。なにか足りないとすれば首が曲げられないくらいまで伸びてしまう視線の高さである。ビジョナリーは翌日にとっておけるような代物ではない。誰もが即日に結果を知りたいものだ。諭吉の行動はいかんせんゆったりとしており、みずみずしいものもやがて衰え渇きがやってくる、という前提条件をしつこいくらい提示している。それは互いの関わる未来がつかめない以上、まったく正しくはあるのだが、流流としては夢をみたかった。現実的な夢を。この全身が緑ジャージの男はそれを与えてくれそうにない。やろうと思えばできるだろうが、彼自身にその気がないのだから仕方がない。何も言わずに日傘をさしてみた。彼は私の顔を見る前に空の様子をわかろうとしている。それではだめなのだ。反射する自分には自信がもてない。
日が出始めてくると彼らは別の場所に向かった。これ以上ここに居ても頭だけが疲れる気がしたのである。ついさっきまでは小雨が降っており、濡れる建物に相槌を打つ癖のある諭吉さえも、段々と生身の女の子が隣にいる事実をわかりはじめた。
6
草むらで遊ぶ子供と父親がいる。アイスクリームのような帽子を被り走りづらそうな長靴を履いている。子供はそれでも元気だった。はしゃいでいる。諭吉をそれをみて頬を赤らめる。なにか恥ずかしいことでもあった。わからない。でも耳まで真っ赤だよ。ほんとうに風邪をひいたのかと自分の体温を気にした。流流の声はまるで自分だけが聴こえる気がする。
べつにそれでもいいじゃないか。みんなが聴こえる声なんてつまらないさ。彼は案外ポジティブだった。あの日以来、ずっと誘いは断られ続けている。それでもめげないし、他にやることもない。なぜだか返事だけはくれる彼女が疎ましかった。
彼も謎がそこにあるからといって、毎日のようにそこへ足を運んだりはしない。ハンセン病資料館には、まだ二回しか訪れてなかった。一回目は一人で、二回目は二人だ。窓のしめきった部屋で指折りそうやって数えていると、すごく単純に三人目が必要なんじゃないかという気になった。回数ごとに訪問する人数も増えていく。それはべつにおかしな行いではない。常識の範囲内なら人数制限など、設けていないはずだ。彼は三人目をさがした。
連絡先に当てはない。すると途轍もなくハードルが上がった気がする。が、実際はそうでもない。人を選びさえしなければ、報酬を提示さえすれば一人くらいすぐに会える。過疎地帯に住んでいるわけでもないのだ。使えるものは使っておこう。新橋、という名前の人が来て貰えることとなった。なんと日付指定もなく、拘束時間も厳密に決めていない。ちょっと普通じゃないかもな、と諭吉の頭に不安がよぎったが、よく考えれば今の自分よりもおかしな妄想にとりつかれて行動を起こそうとする人間なんてそうそういない。不安はきっと恥じらいが隠れている。茂みのなかでいつまでもしゃがんで待っているわけにもいかない。
さっそく流流に連絡した。
「知り合いが一人来てくれることになった」
次の文章を書こうとしてる間に、彼女から返信がくる。
「知り合い? いないでしょ」
なんですぐ嘘がばれたのだろう、と彼は思った。勘がいいのか、僕が悪いのか、真相は闇のままだ。
「わかった。知り合いっていうのは嘘だ。新橋という人で、お金を払って来てもらう。SNSで知り合った。性別は女だけど男かもしれない。確かなことはわからない」
「なにそれ。危険だよ」
「君の言う通り危険だけど、もうそれしか方法がないんだ。それにたいした危険性でもないように思う。君は僕について行ったじゃないか。得体の知れない男に連れられて郊外にある資料館に行くなんて、なかなか危険じゃないか。今さらなんで怖気つくのか、それは断るための口実なのか?」
「私はもっとあなたと二人きりで話したかった」
意外な返答に彼は言葉を濁した。じっと相手の返信を待つ。が、耐えきれずに文字を打ってしまう。
「僕だって同じだよ」
しばらく反応がない。無意味に何度もSNSを開く。そのたびに何も変わらないので落ち込む。変化のないものを見て不幸になるのは癖になった。なぜだかそれは失われた知性や時間を取り戻すための必要な儀式に思えた。
諭吉は混乱している。何度も彼女からの文章を読み返す。感情が鈍磨するまでしつこく何度も読み返す。顔が出てこない。そもそも流流はマスクをしていた。目元はどちらかといえば濃いほうで、金魚の目玉のように飛び出していた。それは言い過ぎだ。彼女の肌は白くもなければ黒くもない。健康そうな体つきだった。
「同じってどういうこと?」
返信は二日後にきた。すでに新橋に取り付けた約束の日まで二十四時間も残されていない。焦りを悟られないようにと注意をした。息を吸ってすぐに吐いた。目の前に相手がいる時には不気味なので、使える芸当ではないが、わざと意識して走ってもないのに疲れた素振りを擬態すれば、なんとなしに言葉や舌を出す態度は上手い具合に回ってくれる。
「同じってのは、君を愛したいと思ってるから言ったのだと思う。ひそかに心の内で思いを秘めてるだけでは、もう足りないんだ。じきにそれは膿になるよ。体験が少ないせいで頭でばっかり君を考えてる。風船のように膨張するものは、割れる前に数々の部位と接触するだろう。僕はきっとその接触を楽しんでる。過去の誰かと今の君を重ね合わせること。それほどスリルのある行いって他にないだろう。何事も同じだよ。それに間違いはない。現実になったとき、それが間違えるんだ。現実になる前はいつも同じだよ。そうでなくては恋愛って成立しないじゃないか」
「……孤独。あなたが孤独なのはよくわかった。私はそれに同情する。ごめん。もっと明るくできたらいいんだけど、私から何かを言わせたりするのは、はっきりいって嫌なの。だって原因を作ったのはそっちなんだから。最後まで選ぶ存在で居たい。それっていけないことなの? いけないとしたら、私とあなたが会った時間は嘘だったの? 覚えてるよ。鴉が柵のなかに閉じ込められていたこと。曇りがちな空、雨に打たれたみたいなあなたのよれた緑のジャージ。かたつむりの殻、しおれた花々、淡い色合いの看板とか、ぜんぶ覚えているんだよ」
世界 清水 @franc33
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