世界
清水
蛹
窮屈な中庭で、柿の木の葉っぱが茂っている。諭吉のとなりには顔の小さな女の子がいた。目とか口とか鼻とかは無いのだが、産毛のごとく生えた眉毛と時々みせる表情筋の強ばりとが、それを女性だと認識させた。黄色いテラス用のベンチのうえで額から流れた汗は肌となじみ、秋を待つ少年少女はお互いに夢中すぎて、暦ではとっくに冬なのにそれが秋だと言い張った。
諭吉は寂しかった。本名は田口諭吉だった。フルネームで呼ばれたことなど記憶にない。紙幣に福沢諭吉という、彼と同じ名前をもつひとの姿が印刷されていた。周りから、そのことでずいぶんとからかわれた。
彼の思考は紙とペンのために最適化されていない。思い立ったらすぐに直せるデジタル表記のやり方に慣れていた。思考がその人のひととなりを決定するなら、彼が上手く笑えないのも当然の成り行きといっていいだろう。ひとは価値を最適化の果てに認めないのだから。
夜に出歩いたりなどしなかった。螺旋形の階段は手作りだった。相当なミニチュアのサイズ感で、拳で握りしめたら下の段から半壊する。
もちろんせっかく作ったので簡単に壊したりなどしない。持ち運ぶときは直接手でふれずに、全体をガーゼで包みこんでから、隙間を針と糸とで縫い合わせ、輪っかをつくりさらにまた輪っかを作る。
出来上がったものを指でつまんで、移動のために引っ張る。揺れて、彼の感情は更新される。どんな風に? ときいてくる人もいないので考える気力が湧く。わくわく。
彼は全身、濃い緑色のジャージに身を包み、上下がセットで下北沢の比較的きれいな店で売っていたが、これが値段相応であるかはまったくいつまで経ってもわからなかった。
服のタグをはじめて洗濯するときまで決して切らない、というのが彼の数少ないこだわりの内の一つだった。が、タグどころか裏地のサイズ表記もはがれていた。服のサイズがわからないというのは不安なものである。
市営バスに乗りこむ彼はどこか挙動不審だった。
そこで明らかに眠ってばかりいる人をみつけた。流流という名前の彼女は今月中に本名を改名すると言ってきかなかった。
「どうしてそんなことをする?」と彼はたずねた。
「それはもちろん注目を集めたいからでしょうね」と流流は言った。
最後まで分かりあえた気などしなかったが、お互いに公共物への信頼があってか、話の最中、クスリとも笑ったりしなかった。
彼女は鞄からピンク色の櫛を取り出した。それで髪をとかしはじめた。
「流流のほうがきっと目立つのに」
「流流ちゃん、って呼ばれたい? これって可愛い?」
「いや、僕は人を可愛いとは思わないようにしてる」
「なんでえ?」と溶けるように彼女は言った。実際、姿勢もあまり良くない。
「可愛い、って欲深いんだよ。相手を馬鹿にしてる感じがしてとても嫌だね」
「えっ。思想強いね」と流流は言った「どこで降りるの?」
「ハンセン病院の前」
そう言われた彼女はスマホを目にする。「間違ってるよ」
「だいたいの意味はあってるはずだ」
不満に思ったのかスマホを見してきた。爪の長い指先には国立ハンセン病資料館と表示されてある。
「これって伝性病でしょ。結構有名なやつ。水俣病とか色々習わされたなあ」
「差別の歴史だよ」
バスは停車した。諭吉はずっと彼女のことを見ていたが、止まるボタンを押した姿など見なかった。前のほうの席にいた老人が立ち上がり、頭にかぶった帽子をおさえてバスから出ようとしている。彼女も席を立った。もう降りる時間だと思った。手を振って別れの挨拶をしようとしたときに、相手の顔が青ざめているのをみた。いや、もともとこんなふうに血色の悪い女だったのかもしれない。彼女は自分の向かう先に、なにか面白いものがあるといった素振りで、諭吉も同行するように促した。彼は指に止まったハエを払いのけるようにして、ついにはバスから出てしまった。目的の停車場まであと二つといったところだったのに。諭吉は途中で降りてしまった。
流流は病人に足る。流流は若君のように髪を一つ結びにしている。軒下からお面がはらりと落ちる、無邪気な笑みは素敵だった。
流流は学校に入った。母校の高校であるらしい。
「学校にはいい思い出がないんだ」
「だいじょうぶ」と彼女は諭吉の手を握りしめた。
「きっと大丈夫だから。わたしもあなたも、これからはずっと学校に歓迎されたりなんかしない」
「金を落とさないからだろうな」
「というか不法侵入者だね。用事があるから仕方がないの」
蛹がある。それは紺のフェイスにもたれかかる。
蛹の全貌は干からびていた。植物と同じく奇妙に色あせている。
不思議なもの、まだ意味になっていないものなら、彼の中庭にもあった。毛だけが生えた女性の肉の塊である。これはちょうど子供が扱う堅いドッチボール用のボールくらいの大きさで、人間の頭もだいたいこんなものだろうと推定される。決してかけ離れてはいない。
手でつかんでみる。時間の経ちすぎたパンのように固い。今日は調子が悪いのか動かない。しかし生物特有の温かみはある。いっそのこと放り投げてしまえば、あんがい物事は進んでいくのかもしれない。
蛹(だと彼が思ったもの)と女の顔(だと彼が思ったもの)の違いはまず単純に大きさにある。種の違いなど生殺与奪権をもっていなければ意識などしない。
好奇心と好意は似たようなものである。対象の反応に、違いがあるにすぎない。対象の反応を取るに足らないものとして扱えば、図鑑のなかの昆虫も簡単に異性そのものとなる。諭吉は子供向けの昆虫図鑑から蝶の蛹をじっとみつめた。蛹だけの図鑑が広く流通していない以上、人間の分類の仕方には強烈なバイアスが働いているのは間違いない。が、それは言葉にしたとたんに誤る。そういう事例を数多く知っていた。諭吉はどんどん流流に対する恋心が募った。分類に対する悪夢が始まったのである。
流流に蛹のことを話した。するとこんな返信がきた。
「本当にあるなら見てみたい」
「でもね、人気のない場所に行くのはやっぱり抵抗がある。二人きりも怖いけど大勢の人がいるとしたらもっと怖いな、って想像してた。私が恐怖なんて払いのけられるくらい、すごく強かったらいいんだけど。物理法則を無視して嫌いな相手を空中分解できたりね。そういう特別な力があったら、なんていうか、私たちは出会ってなかったんじゃないかな」
「流流って名前は些細な問題だよ。だからさっさと変えてしまいたい。候補はいくつかあるんだよ。美咲とか、唯とか、花音とか、とにかく普通な名前が欲しい。それってそんなにいけないことじゃないよね? 流流ちゃんのくせに、私ってなんだか、いつも期待外れだった」
「返信ありがとう。悪いけど僕はこれに関しては譲る気が全くない。君を蛹のある場所に連れて行くことは、もう既に必須事項なんだ」
「そちら側に色んな事情があるようにこちらにも譲れないものがある」
「このメッセージが無視されて君が行方をくらましたとしても代替えの人間を探そうなんてつまりはないから、いまのうちに不安になっておいたほうがいい」
流流を連れて蛹のある場所まで来た。紺のフェイスに糸でつるされている。諭吉は投げやりな態度を隠さなかった。フェイスで仕切られた向こう側には死体でも転がっていそうな工事の跡がある。放置された土塀に不自然な穴、それらは乱雑に荒らされているわけでもなく、止まったまま秩序を保っていた。
生き物といえば鴉だった。蛹の奥に鳥かごがある。どうも鴉たちはそこに閉じ込められているらしく、やたらと叫び、狭いなかで飛び回っている。
「病気になりそう」と流流は言った。手で口を覆った。
諭吉の行動はゆったりとしており、みずみずしいものもやがて衰え渇きがやってくる、という前提条件をしつこいくらい提示している。それは互いの関わる未来がつかめない以上、まったく正しくはあるのだが、流流としては夢をみたかった。現実的な夢を。この全身が緑色のジャージ男はそれを与えてくれそうにない。やろうと思えばできるだろうが、彼自身にその気がないのだから仕方がない。何も言わずに、流流は日傘をさしている。
あの日以来、誘いは断られ続けている。
謎がそこにあるからといって、毎日のように足を運んだりしない。ハンセン病資料館にはまだ二回しか訪れてなかった。一回目は一人で、二回目は二人。窓のしめきった部屋で指折りそうやって数えていると、すごく単純に三人目が必要なんじゃないかという気になった。彼は三人目をさがした。
「知り合いが一人来てくれることになった」
「知り合い? いないでしょ」
「わかった。知り合いっていうのは嘘だ。新橋という人で、お金を払って来てもらう。SNSで知り合った。性別は女だけど男かもしれない。確かなことはわからない」
「なにそれ。危険だよ」
「君の言う通り危険だけど、もうそれしか方法がないんだ」
「私は、もっとあなたと二人きりで話したかった」
意外な返答に彼は言葉を濁した。じっと相手の返信を待つ。が、耐えきれずに文字を打ってしまう。
「僕だって同じだよ」
しばらく反応がない。無意味に何度もSNSを開く。そのたびに何も変わらないので落ち込む。変化のないものを見て不幸になるのは癖になった。なぜだかそれは失われた知性や時間を取り戻すための必要な儀式に思えた。
諭吉は混乱している。何度も彼女からの文章を読み返す。感情が鈍磨するまでしつこく何度も読み返す。相手が顔が出てこない。そもそも流流はマスクをしていた。目元はどちらかといえば濃いほうで、金魚の目玉のように飛び出していた。彼女の肌は白くもなければ黒くもない。健康そうな体つきだった。
「同じってどういうこと?」返信は二日後にきた。すでに新橋に取り付けた約束の日まで二十四時間も残されていない。息を吸って、すぐに吐いた。
「同じってのは、君を愛したいと思ってるから言ったのだと思う。ひそかに心の内で思いを秘めてるだけでは、もう足りないんだ。じきにそれは膿になるよ。体験が少ないせいで頭でばっかり君を考えてる。風船のように膨張するものは、割れる前に数々の部位と接触するだろう。僕はきっとその接触を楽しんでいる。過去の誰かと今の君を重ね合わせること。それほどスリルのある行いって他にないだろう。何事も同じだよ。それに間違いはない。現実になったとき、それが間違えるんだ。現実になる前はいつも同じだよ」
「……孤独。あなたが孤独なのはよくわかった。私はそれに同情する。ごめん。もっと明るくできたらいいんだけど、私から何かを言わせたりするのは、はっきりいって嫌。だって原因を作ったのはそっちなんだから。最後まで選ぶ存在で居たい。それっていけないことなの? いけないとしたら、私とあなたが会った時間は嘘だったの? 覚えてるよ。鴉が柵のなかに閉じ込められていたこと。曇りがちな空、雨に打たれたみたいなあなたのよれた緑のジャージ。かたつむりの殻、しおれた花々、淡い色合いの看板とか、ぜんぶ覚えているんだよ」
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