#21
試合会場を離れ、近くの公園のベンチに腰を下ろす。夏澄は静かにバッグからお弁当を取り出し、少しだけ笑顔を見せた。
「ごめんね、彩奈。怒ってくれてありがとう。ねぇ、お弁当なんだけど……彩奈が食べてくれない? ……私、朝からいっぱい味見して、お腹空いてないんだ」
明らかな強がりに、私はどう言葉をかけるか一瞬ためらった。
「……本当にいいの?」
私は彼女の顔を覗き込む。
「うん、彩奈なら……いいよ」
その言葉を聞いて、私は軽く頷いた。
お弁当を包みから出し、蓋を開けて箸と一緒に差し出す夏澄。
空の青さと風に揺れる木々の緑が鮮やかで、それを背景にした夏澄の表情はひどく儚く見えた。
「どうかな、彩奈。やっぱり味がちょっと薄いかな」
夏澄が小声で尋ねる。私は、箸を使ってお弁当の中の卵焼きを口に運び、そっと噛み締めた。確かに、味付けは少し物足りない。卵焼きはほんのり甘いが、ふわふわというよりは少しぼそぼそとしている。でも、それがどうしたというのだろう。私の胸には、湧き上がるような愛しさが広がっていた。
「ううん、すごくおいしいよ、夏澄」
にっこりと笑いかけると、夏澄は安堵したように笑みを返した。その顔を見ていると、私のために作られたお弁当じゃないということを再認識させられ、少し胸が痛い。
「嘘じゃないよ。本当においしい。だって、夏澄が一生懸命作ったんだもん」
また箸を動かし、今度は野菜炒めを口に運ぶ。ちょっとしょっぱくて、油が多めだ。でも、夏澄が台所で頑張っていた姿を思い出すと、涙が出そうになる。
「彩奈、無理に全部食べなくてもいいからね」
「やだ、全部食べる。こんなに頑張って作ったんだから、残すなんて絶対にできない」
私は箸を止めずに食べ続けた。口いっぱいに食材が広がるたびに、胸の奥で温かい気持ちがじんわり広がる。おいしいとか、まずいとか、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、夏澄が作ってくれたという事実だけでとっても特別な味わいだった。
「本当にありがとうね、彩奈」
「こっちこそ、ありがとう。こんなに素敵なお弁当、食べられるなんて幸せだよ」
また、夏澄と一緒に料理をしたい。私の料理を食べて笑顔になってほしい。夏澄を泣かせるやつなんて、絶対に許せない。浮気をしていようがしていまいが、内海を夏澄の彼氏だなんて認められない。
「こんなに美味しいお弁当なのに、受け取らないなんて、アイツ本当に馬鹿だよ」
ふたを閉じる音が、二人の間に静かに響く。隣でうつむいている夏澄の表情は見えないけれど、私は止まれなかった。
「私だったら、絶対そんな悲しい思いなんてさせないのに」
言いながら、自分の胸がひどく痛むことに気づく。……何なの、これ。何で私がこんなに悔しい思いをしなきゃいけないの?
「ねぇ、夏澄……やっぱり別れた方がいいんじゃないかな?」
その言葉は、言い終わった瞬間にひどく重たくなった。夏澄は何も言わない。ただ、じっと何かに耐えているように見える。
私がまた何か言おうとしたそのとき、彼女の声がぽつりと響いた。
「……彩奈は、簡単に言うよね」
「……え?」
顔を上げた夏澄の瞳が、私を突き刺す。さっきまで泣いていたはずなのに、その瞳には確かな強さがあった。
「彩奈は、誰かに恋をして、振り回されたことなんてないでしょ?」
その言葉に、私は息をのむ。……そんなわけ、ないじゃん。
頭の中で即座に否定する。でも、喉の奥で言葉が詰まって、何も出てこない。私だって、今こうして振り回されてる。夏澄のことで、毎日頭がいっぱいになって、勝手に笑ったり、怒ったり、傷ついたりしてるのに。
分かってほしい。……でも、今の夏澄は、私が何を言ってもきっと届かない。
「……私だって、今回のことはつらいよ。でも……好きだから、信じたいんだよ」
夏澄の声が震えながらも真剣で、その言葉が心に突き刺さる。私の胸がぎゅっと締めつけられた。
どうして、こんなふうに言えるんだろう。どうして、内海みたいなやつに、こんな真っ直ぐな気持ちを向けてしまうんだろう――
「彩奈にとっては、こんなの馬鹿みたいかもしれない。でも……私にとっては、簡単に諦められることじゃないんだよ」
夏澄は涙をこらえながら、私をまっすぐ見つめている。
何も言えない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、ひっちゃかめっちゃかで、今すぐどこかに逃げ出したくなる。でも逃げたら、きっと私はもっと後悔する。
「……夏澄……」
ようやく出てきた声は、情けないくらい弱々しかった。
夏澄は私を真っ直ぐ見つめたまま、ふっと力が抜けたように目を伏せた。
「……ごめん、彩奈……言い過ぎたよね……」
その声はひどく小さく、掠れていて、まるで絞り出すようだった。
「うぅ……ごめんね……」
夏澄の瞳からぽろぽろと涙が再びこぼれ始める。夏澄はハンカチで顔を隠すようにして泣き始めた。
「私、どうかしてる……ごめん、上手くいかなくて……ごめんね、彩奈……あんなに手伝ってくれたのに……」
その姿を見て、胸の奥がぎゅっと痛む。夏澄が泣いている。それなのに、私には何もできない。ただ、心の中で「違うよ」と叫ぶだけで。
「夏澄……」
声をかけても、夏澄は涙を止めようともしない。立ち上がって、ふらふらと歩き出す。
「待って! どこ行くの?」
「……帰る。今日はもう、帰る……」
背を向けたまま、夏澄は弱々しく呟いた。涙声のままで、足取りはおぼつかない。それでも彼女は一人で帰ろうとする。
「待って!」
彼女の手を、ぎゅっと握る。夏澄の体がびくっと震えた。
「離して……彩奈。お願い……一人にしてよ……」
掠れた声でそう言う夏澄の手は、思ったより冷たかった。
「ダメ」
私は、はっきりと返す。
「家までは絶対に送っていくから」
夏澄は大粒の涙を目に溜めたままゆっくりと視線を私に向ける。その表情は、泡になって消えてしまうのではないかと思うくらい儚くて……私はそこに夏澄がいるのか確認するかのように、そっと彼女の頬に唇を重ねた。
嫌われるかもしれない、そんな不安に胸が締め付けられたけれど、それでも……気持ちを抑えきれなかった。
「……彩奈、どうして……」
「元気が出るおまじない」
無邪気を装うには、私たちは少し大人になりすぎたかな。
「……もう、彩奈は本当に……」
夏澄は泣き笑いのような顔をして、目をそらした。
それでも、握った手は離さなかった。
「行こう。ね?」
私の言葉に、夏澄は静かにうなずいた。
ふたりで手を繋いで歩く帰り道。夏澄の手はまだ少し震えていたけれど、少しずつ温かさを取り戻していくようだった。
泣き疲れた夏澄は何も言わない。ただ、私も何も言わず、手を離さないようにしっかりと握って歩いた。
――私が隣にいる限り、夏澄は一人じゃない。
そう思いながら、私は夏澄の手を引いて、ゆっくりと彼女の家まで歩いていった。
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