川屋くんはなんでも水に流す

ナム

第1話 川屋くんは入ってくる

 国府田幸一は便器の前にひざまずいて、クラスメートの陰茎を見つめていた。

 福岡県中部の山中にある私立K高校の、さらに奥まった箇所にあるトイレの個室に、学ラン姿の2人の少年が詰めている。小柄な国府田が縮こまっているのに対し、大柄な石井は横柄に股を開いて便器に座り、国府田に向かって腰を突き出した。

「咥えろ」

 ピロン、と間抜けな電子音が個室内に響いた。スマートフォンのビデオ撮影が開始された音だ。雨音が激しさを増した。


 その2時間前、国府田は教室で『進路調査票』を書いていた。11月半ば、昼間でも既に若干の寒気を感じる季節だった。

 K高校では、土曜日も午前中だけ授業があり、正午過ぎから放課後が始まる。教室に残って雑談をする生徒たちも、すぐに行き先を決めて出ていくと思われた。「誰にも見られずに来い」と命令されている国府田にとっては、このまま誰もいなくなるまで教室に居つづけるのが最も効率が良かった。

 進路調査票の中身は単純で、大学受験の際にどこの大学、どの学部を受験するかを書くだけのものだったが、国府田にはどう書いていいのか検討がつかず、自分の名前を書いただけで止まっていた。クラス担任の吉村は「両親とよく相談して書くように」と言っていた。名前の横には保護者用の押印欄がある。

 国府田は両親との会話を想像してみた。きっと母親はこういうだろう。「自分の将来なんだから、自分で考えて決めなさい」と。そして自分で考えてプランを決めると、こう言われるのだ。「本当にそれでいいの? もっとしっかり考えなさい」。母親が望む答えを探り当て、自分が自分の意思で自主的にそれを選んだ、という世界観を添えて提供せねばならないのが、国府田の家庭の日常だった。

 いじめの構造に似ているかもしれない。屈辱的な行為を無理矢理やらせておいて、強制してない、あいつが自分からやったんだ、と責めを逃れる。こちらの生殺与奪権を弄びながら、自分だけに気持ちのいい世界観を強制してくるところは同質だ。ただ親については生活させてもらっているのだから感謝せねばならない。

 国府田は時計を見た。12時30分。あまり時間は経っていなかったが、それでも気分がざわつく。あと1時間半で地獄へ行かねばならない。机上の書類を眺めても、何の打開策が思い付くわけでもなかった。頭から血の気が引いていき、しかし動悸は激しくなるのを感じる。視界が歪んでくる気がする……

 ふと、手の甲に赤い点が現れた。口から何かが垂れている気がする。慌てて白シャツの袖で拭ってしまい、袖に赤いシミが広がってしまった。唇を噛みすぎて流血してしまったようだ。

 教室内にはまだ数名の生徒が残っていた。国府田は誰も気づかれないように学ランの袖の中にシミを隠し、教室を出た。

 トイレの前に差し掛かった時、後ろから声が届いた。

「国府田くん」

 クラスメートの川屋悟だった。春から同じクラスになり、もう秋も深い頃合いだが、特に会話をした覚えはなかった。

「すぐに流した方がいいよ」

「……何をですか?」

「血だよ。袖についたやつ」

 川屋は水道の蛇口に手を置き、手招きをした。

「ほら、手を出して」

「あ、はい……」

 国府田はつい言われるまま手を出した。川屋が赤いシミのついた袖の先をつまみ、蛇口をひねる。乱暴な勢いで流れ出した水道水は冷たかったが、確かに血の跡はどんどん落ちていき、ほとんど見えなくなった。

「ほら、綺麗になった」

「ええ、ありがとうございます」

 川屋は少し笑ったように見えた。いつもこんな顔だったような気もする。何を考えているのか分からない、力の抜けた表情。男子校には珍しい、おっとりした中性的なタイプだ。

「水に流すのが一番いいよ」

 国府田に言ったのか、独り言なのか分からない言葉を残して、川屋は芸術棟の方へ歩いていった。なんとなく後ろ姿を見送っていると、スマートフォンに通知が入った。石田からのメッセージだ。『逃げたら殺す』と書かれていた。

 国府田は教室に戻り、調査票に『就職』とだけ書いた。親のハンコは100均でなんとかなるだろう。教室には他に誰もいなくなっていた。呼び出しの時間まで、目を閉じて、何も考えずに過ごすことにした。雨が窓を打つ音だけが、ずっと聞こえ続けた。


 そして90分後、国府田は同級生にフェラチオを強要されていた。

 この高校には2つの校舎があり、南側の建物2階には美術室と音楽室があるため、芸術棟と呼ばれている。あまり人が来ないこのエリアのトイレには2つの個室があり、国府田と、クラスメートであり『いじめ加害者』グループ主犯格の石井博志は、奥側の個室に入り込んでいた。子供と大人ほどの体格差があった。

「おら、笑顔だぞ、笑顔」

 石井はズボンとパンツを足首まで下ろした状態で薄笑いを浮かべながら、手に持ったスマートフォンで国府田の顔を撮影している。

「早くしろ」

 石井は語調を強めた。国府田は反射的に、言うことを聞こうと身を乗り出した。吐き気を催す臭いがする。それでも国府田は、意を決して口を開けた。

 もう少し身を乗り出せば届いてしまう。体が動かなくなった。やらねばどんな酷い目に合うかは想像できていた。いや、想像を超える拷問を受けるかもしれない。しかし、自分の前に空気の壁があるかのように、どうしてもこれ以上体が前に出ない。

 石井が国府田の髪を掴み、顔を股間に押しつけようとした。国府田は反射的にその手を跳ねのけた。石井の表情に激しい怒りが表れ、国府田は頬を殴られた。

 やってしまった。一瞬後悔したが、不思議と気持ちはすぐに定まった。

 もうやるしかない。

 国府田は勢いをつけて立ち上がり、学ランのポケットから大きなナイフを取り出した。刃を鞘から取り出し石井へ向ける。

「動画を消せ」

 石井は何が起こっているのか分からない様子で、茫然と国府田を眺めていた。

「消せ!」

「お、おい、やめろって!」

 国府田がナイフを振り上げると、石井は顔を背けた。トイレの個室に逃げ場はない。石井はできるだけ国府田から身を離しながらスマートフォンを操作した。

「消した」

「見せろ」

石井は顔を背けたまま、ムービー一覧の画面を国府田の前に差し出した。

「こ、こ、これで、いいだろ」

 ムービー一覧画面には「保存された動画はありません」とだけメッセージが表示されている。問題はなさそうだ、と国府田は判断した。

「もう私に構わないでください」

 国府田は怒りを抑え、丁寧な口調に努めた。これだけで決着すれば、それが今の最善だった。

 しかし石井は返事をしなかった。国府田の怒りが収まったと見たのか、憎しみの詰まった目で国府田を睨み、唾を吐きかけてきた。

 この反撃は失敗だったことを国府田は悟った。今日の屈辱を晴らすため、これからの彼らのいじめはさらに苛烈になっていくだろう。火に油を注いでしまっただけだ。そう知った以上、次にとるべき行動は明白だった。

 国府田はナイフを石井の首筋に向かって振り下ろした。

 石井は腕を伸ばして防ごうとしたが、間に合わなかった。ナイフは石井の頸動脈を裂き、間欠泉のような血飛沫が上がった。

 石井は首を抑えて痙攣している。国府田はその姿を無感動に眺める。

 やがて石井は便器に体重を預け、動かなくなった。目を開けたまま顔を天井に向け、口からは涎と血が混ざり合ったものが滴り落ちる。雨音が室内に満ちた。

 ふと国府田は、自分の右手に血まみれのナイフが握られていることに気付いた。

「あ、あ、あ……!」

 膝の力が抜けた。背後のドアに激しくぶつかり、ドン、と大きな音を立てた。


 その時、川屋悟は美術室の洗い場で手を洗っていた。窓から見える紅葉を絵に描こうと不慣れな水彩画に挑戦した結果、自分の手を真っ赤に染めただけの結果になってしまったのだった。

 川屋は向かいのトイレから激しい物音を聞き、少しだけ興味を引かれた。だが今は、自分の手を洗う方が重要だった。

 手から赤い液体がとめどなく流れ落ちていくのを見ると、鼻の奥で生臭さを感じる。記憶から発せられる臭い。早くこの臭いを流してしまいたい。

 水に流すのが一番いい。


 国府田は真っ赤に染まってしまった個室の中で立ち尽くしていた。

 なぜ、こうなってしまったのだろうか。何処で道を誤った?

 石井を含む「いじめ加害者」グループが国府田に目をつけた理由は、国府田自身、なんとなく分かる。小柄で寸胴で足が短く、幼い頃は『小熊』と呼ばれてからかわれていた。加虐心を誘う見た目をしているのだ。性格も卑屈になり、人と関わるのを避けるようになった。友達と呼べる友達はいない。そういう人間はターゲットに選ばれやすい。

 男子校に入学してしまったことが不幸に拍車をかけた。女子がいないなら気軽かと思ったが、甘かった。男子校は古い男社会を過激にして熟成させているような空間だった。弱いものや異質なものを見つけると、飢えた野犬のように集団で飛びかかり、一瞬でボロボロにしてしまう。そして国府田は弱者であり異質だったので、まだ入学してから1年も経っていないにもかかわらず、『いじめ』と呼ぶのは生ぬるすぎる犯罪行為の数々を受け続けた。すれ違う度に殴られ、蹴られ、私物は隠され壊され、財布の中身は定期的に空になる。

 犯罪者たちの中でも、石井は特にサイコパスだった。隠毛をガムテープで抜く、男性教師の写真を見せながら自慰行為をさせる、肛門に理科の実験道具を挿入する、など心身を同時に追い込むものが主だった。親が県の教育委員会の役員なのだそうで、教師たちからも特別視されていた。自尊心を好きなだけ肥大化させていた石井の玩具に選ばれてしまったのが、国府田にとって運の尽きだった。

 そして男社会では、被害者が助けを求めることは許されない。それは自分の弱さを自ら認めることで、最も許されない行為の一つだ。クラスメートは暴行を受ける国府田を『情けない弱者』と見ているし、教師に相談しても「まずは自力で解決の努力をしろ」と突き放されてしまった。

 親も頼れない。母親に相談したら「社会に出たら普通にあること」と返されてしまったうえ、登校拒否をさせないため寮に入れられた。元々、母親は国府田の成績にしか興味はない。地元では競争率が高いこの高校に、母親の献身的な罵倒と体罰の成果でギリギリ滑り込めたのだ。いじめ程度で母が理想を落とす訳がなかった。父はいない。

 結局、いつも同じ結論になる。生まれたことが間違いだった。不幸になるために生まれてきてしまったのだ。

 そのような状況にあっても、国府田が逃げ出せずにいたのは、高校1年生で学校から逃げ出してしまっては、その後にはホームレスになるしか道がないと考えていたからだった。欠点ばかりの自分が、学歴まで失ってしまっては、過酷な社会の中で生きていくことなどできる訳がない。クラスが変わるまで、または卒業まで、なんとか被害を減らす道を探しながら、耐えぬいて逃げ切るつもりだった。

 そのはずだったのだが……

「はぁぁぁぁぁ……」

 深々とため息をついた。夢でも妄想でもない。何度見直しても、石井は便器にもたれ、陰茎を晒したまま死んでいる。

 これから先のことを考えてみた。やってしまったものは仕方ないので自首するとしたら。逮捕され、裁判で殺人罪を告げられる。母は泣き叫び縁を切られ、自分は少年院か刑務所でまたいじめを受け続ける……

 ここから逃げてみる。百均で大量にブルーシートを買い、駅近くの公園にダンボールハウスを建てる。これからどんどん冬に向かう中、生ゴミを古参ホームレスと奪い合う日々。凍えて熱を出し腹を下しても誰も頼れず、気付けば自分が生ゴミに……

 シラを切り通してみる。私は知りません。この血塗れの部屋から、指紋も足跡も残さずに脱出できるか。返り血も大量に浴びているのに、そんなことは不可能だ。

 自首するのが一番現実的だと思われた。無駄な抵抗は辛いだけだ。もう楽になりたかった。ナイフを床に放り投げると、ガキン、と甲高い音が響いた。

 諦めがつくと、硬直していた体も動かせるようになった。個室の鍵を開けて外に出た。

 そして国府田の心臓は止まった。

 トイレの入り口に人がいる。

「こんにちは」

 川屋だった。クラスメートの川屋が、呑気な笑みを浮かべて立っている。

「こんにちは」

 国府田は思わず挨拶を返した。他の言葉が何も思い浮かばなかった。便所の中央にある排水溝に、個室から漏れ出した血液が流れ込んでいる。鏡に映る国府田の顔は真っ赤に染まり、髪の毛からも血が滴っていた。何かを説明するのも馬鹿らしかった。

 しばらく2人とも無言で立ち尽くしていると、川屋が沈黙を破った。

「入っていい?」

「え? あ、どうぞ……」

 国府田が生返事を返すと、川屋は靴を脱いで裾をまくり上げ、裸足になって奥へと入ってきた。

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