第26話 別れ
それからも俺は
もうすぐ春の足跡が聞こえはじめる3月の中頃。
肌寒さの増す夕暮れ時に、俺は目立たないよう制服の上から黒いパーカーを羽織り、裏通り側から資材置き場の脇をすり抜け、工場の敷地に入った。柊が教えてくれた、人目につきにくいルートだ。
今日もガタついて傾いた事務所のドアを強く引いてこじ開けると、何か甘く香ばしい香りがした。
「柊」
応接セットのソファに座り、既にくつろいでいる柊が片手に紙コップを持っている。
「何それ?」
「ココア。いる?」
「いる」
俺は買ってきたホットスナックを袋ごとソファの間のローテーブルに置いた。
柊はソファから立ち上がると、給湯室から紙コップと、細いプラスチック製のコーヒー用マドラースプーンを取って帰ってきた。紙コップには、この廃工場のものらしきメーカー名のロゴが入っている。
そして、後ろのローキャビネットの上に置いた学校の鞄から、水筒とココアのパッケージを取り出した。こちらに背を向けたまま、紙コップにココア粉末をさらさらと入れる。
「僕たちも、もうすぐ2年生だね」
「そうだな」
俺は一応高校には通っていた。柊も最近は、少しずつ通う日数を増やしているらしい。居心地は悪いようだが、施設を出たら高卒で働くつもりの柊としては、生きていくためにはなんとか高校を卒業したという経歴が欲しいようだった。
「まったく、親がいないと不登校にもなれないとはね」
柊は自嘲しながら水筒を傾け、熱湯を紙コップに注ぐ。
「……」
俺はソファに座り、柊の背中を見つめた。
「……あのさ、柊」
「ん?」
「遺伝子検査、本当にしないつもりなの?」
俺や柊が生まれた頃には、ジーンツリーデータベースは既に存在した。
当然、ジーンツリーには遺伝子情報も付与されている。柊の両親のデータも、ジーンツリー上のどこかにあるはずだった。
柊は、ジーンツリー上では「特別暫定戸籍」という誰とも紐付かない単独の戸籍データを持っている。元々の戸籍の有無すら分からない柊のような身元不明孤児の戸籍は、そんな寂しいものになってしまうのだ。
しかし、柊本人が然るべき手続きの上、申請して遺伝子調査を依頼すれば、両親を判明させられる可能性があった。まあもし両親が非開示申請をしていたらアウトだが、そうでなければ両親について知ることができるかもしれない。
その可能性に賭けてみないのか、俺は以前にも柊に聞いたことがあった。けれども、今回も返答は同じだった。
「んー、いいや。なんで捨てられたのか、分かんないし」
「……でも、知りたいんだろ? 本当は」
柊は驚いたように振り返り、俺の目を見て、それから視線を落とした。
「……いいんだよ。うちの施設にはさ、捨てられた時に親が手紙を残していた子が何人かいて。皆その手紙を宝物のように大切にしてる。手紙には、なんとかこの子を幸せにしてやってくれと、祈るような気持ちが書かれていることが多いんだ。だけど僕は、捨てられた時に手紙も何も持っていなかった。クリスマスの夜に、古い毛布にくるまれて、乳児院の前に置かれていたらしい」
柊はまた背中を向ける。
「親子だと分かったところで、いらない子どもなんて歓迎されないかもしれないだろ。だったら、知らないままの方が気が楽なんだ」
「でも……!」
「いいんだよ。僕がいいって言ってるんだから」
説得しようとした俺の言葉を遮るように、柊がソファに戻ってきて紙コップを差し出した。
「いいから。はい、理人の分」
勢いに押されて紙コップを受け取る。
ココアの水面はゆるやかにマーブル模様を描きながら、いつまでももやもやと回っていた。
やがて日は完全に暮れてしまった。事務所は照明がつかないので、室内は結構暗くなってきている。
俺はリングを照明モードにした。ランタンの灯りように、リングのまわりだけが球形に明るい電球色に包まれ、逆にまわりの暗闇が少し濃くなった。
「そろそろ帰らなきゃ」
俺はそう言って、リングの明かりで紙コップやゴミを片付け始めた。
「……」
柊は立ち上がらず、そのままソファに座ってリングの明かりを見つめていた。いつもテキパキしている柊が動かないのは珍しかった。
「どうした? 柊」
「……なんでもない」
片付けが終わると、俺たちは建物から出た。
しかし、いつも通り資材置場の脇をすり抜けて敷地から出ようとした、その時。
おそらく資材を纏めていた留め金が錆びて古くなっていたのだろう。
唐突に古い資材の山が崩れて、ダムが決壊するように崩落した。
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作者コメント
いつもお読みいただきありがとうございます!
理人の回想は今回までで、次回は元の時間軸に戻ります。
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