第3話 幻覚



フェンスを破ってから布施ふせは目に違和感を覚え始める。


寝不足が祟ったのか、眼精疲労が蓄積しているものだと思い込んでいた。


夜の山道は特に目が疲弊する。

とにかく視界が悪いのだ。


左右から首の骨が折れたようにしな垂れ落ちる枝葉がフロントガラスをかすめて、不快な擦過音さっかおんを刻み込んでくる。


ファサファサ……カサカサ……ジャサジャサ……


病害虫びょうがいちゅうによって噛み切られた不自然な葉の形。


風通しの悪い樹木があるのか、赤や黄に変色してち落ちる葉が真夏なのに秋の色彩美に似て、皮肉にも病的なはかなさを連れては散り果てる。


先程より速度を落として慎重な運転に移っていることに本人は気づいていなかった。


無意識の時間は疲労とともに増殖し、右足の感覚におそれとして宿っていく。

 

少し開けた湿地帯に入った。

周りには物々しい残骸ざんがいが黒いシルエットとして四人の視野に入りたそうにこちらを見ている。


太い木の枝からぶら下がっているのは何だろう。

黒いようで赤いまゆのような……

でも繭にしては大きすぎる……

成人一人丸ごと収まる程の大きさだ。

 

繭の内部には何がいるのだろう……

おぞましい胎動たいどうが伝わってくる。

 

空間を震わせながら四人の心拍リズムに近づいてくる気味悪さ。

時折しゅうしゅう……と湯気のような気体を吐き出している。

車のライトはえてそれをかわすように映さない。



ふと、ライトの先――緑色の巨大な胃袋のような植物がつるを伸ばして両サイドの木々の幹に抱きついている。


その巨大な包摂体ほうせつたい怒張どちょうした赤いこぶを所々みなぎらせ、脈打つ赤い管が底部一点ていぶいってんへと集中していく。


こすり付けるような太くて蔓性つるせいの触手のうねり――ねっとりとした猥雑わいざつな仕草に目をすがめたくなる。

 

軟体の手足のようにそれらはよくしなり、叩きつけるむちのような攻撃性さえはらんで見える。


その気になれば今この瞬間にも……


「マ、マジかよ……うぅ、ヤバいだろ、これ……」


「食虫植物のウツボカズラを巨大化させた感じね……」

後部座席から由貴ゆきのまっすぐな声が布施ふせ戦慄声わななきごえ鼓舞こぶするように支えた。

 

しかし、美嘉みかはこれを軽率にいでしまう。


「でも、この大きさって……食虫植物というより食人しょくじん……」


「やめて! それ以上言わないで!」


由貴ゆき虚勢きょせい


反射的に両耳を押さえ、弾かれたように美嘉みかは助手席に沈み震えた。


「地球上でそんなこと、あり得ないんだから!」


由貴ゆきしたたかな声質が闇夜に木霊こだまする。

その後に夜の静けさよりも更に深い沈黙が流れる。

 

そこへ胃もたれするような甘ったるい欲望の香りが垂れ込めてきた。

先程の植物が満たす消化液から発せられているのだろう。

 

「うぇっ……気色悪っ」


「大丈夫? 布施ふせ……」


由貴ゆきは後ろから身を乗り出そうとした。


エンジン音が漆黒の聴覚に馴染なじんでくる。

減速していき、徐行して停車する。

 

「悪ぃ、ちょっと休んでもいいか……」


「うん。その方がいいよ」


美嘉みかは震える右手で布施ふせの左太ももに手を添えた。

由貴ゆきはシートベルトを外し、布施ふせの背中をさする。


「みんな、ごめんな……」

 

弱音に変わっていく布施アンタの声なんて聞きたくないよ。

それに布施アンタに寄り添う美嘉みかの姿なんて見たくない。

けがらわしい。わずらわしい。


「みんな、大丈夫だから」

由貴ゆきは努めて声をかける。


「そ、そうだよ。布施ふせちゃん、ずっと運転させちゃってごめん」

倉田くらたも申し訳なさそうに項垂うなだれているのが気配でわかる。


運転代わろうか、と言いたかったが、この車がマニュアル車であることを思い出し、由貴ゆき歯痒はがゆい喉元にブレーキをかけた。


別にカッコいい車なんかじゃなくたっていい。

みんなを引っ張ってくれるいつもの布施アンタがいれば、それでいいのに……


フロントのライトは付いたまま前方のヌメヌメした木々の隙間すきまめるように照らしている。


先程の軟体の胃袋が木々の間をデュポッ……デュポッと液を揺らしながら滑り移っているように見える。

触手の長さが先程よりも明らかに伸びているような気がする。


反射した幹から覗く樹洞うろが視覚的に醜悪しゅうあくだ。

人を頭部から丸呑み出来る大きさの口に見える。


光の届かない影と同居し、不気味な目玉をかたどるようにわらっている。

 

倉田くらたもシートベルトを外したのだろう。

小さな解除音が闇中をかすめていったのがわかる。

少しでもリラックスしたいあらわれなのか。


呼吸が浅くなる。

 

布施ふせは一際深いため息の鈍色にびいろで全身を着飾った。


心細いライトが照らす暗闇の中で、透明な深呼吸をしようにも、漠然とした不安感に肺をおかされ、ドス黒い嘆息たんそくにしかならない。


しかし、冷静さを取り戻そうとした彼の精神は更に追い討ちをかけられていく。


刹那――


車のライトが突如消灯した。

車内の計器類もカーナビもすべて虚無にしている。

四人は完全な闇に支配された。

 

――突然‼︎


「うわあああああ――ッ‼︎」


倉田くらたの赤い叫び。


一瞬何が起きたのか分からなかった。


倉田くらたくん? 大丈夫?」


何も見えない。

目をどんなにらしても、無という情報しか手に入らない恐怖。


視界が完全にめっせられると人間というのはあらゆる感覚が極度に研ぎ澄まされていくのか。



ゴジュル……ゴジュル……ゴッポェ……



まず襲いかかったのは赤い嗅覚だった。

その予感はある不吉を呼び寄せる。


まさか……そんな……


布施ふせ! 何してんの! 早くライトをつけて!」


由貴ゆきは怒りに任せて叫ぶ。

恐怖を払おうとする精神が声量を際限さいげんなく解放する。



ぶぐろろぐぶろろろぐろぐぶぶぐろぐぶろぐぐぐろぐろ……



由貴ゆきは自身のスマートフォンを探そうにも、鳴り止まない焦燥感しょうそうかんによってさえぎられていた。


助手席の美嘉みかも同様だった。

完全なる闇の視野の前では、人間のすべての行動は無に帰するのか。



布施ふせがライトのツマミをいじくり回す。

前後に回しては戻すを繰り返している。


「つかねぇ! 車内の明かりも! カーナビも……何でだよ!」

「えぇっ⁉︎ エンジン切っていないのにどうして?」

「わっかんねぇ! マジでどうなってんだこの車! 畜生ちくしょう!」


――‼︎


ライトがついた。

目の前をさも当然のように照らし始める。

何事もなかったような数秒間……しかし、何かがおかしい。


車の前に倉田くらたが無音で立っている。

頭から何やら透明な液体がしたたり落ちているように見える。


その頭上には先の胃袋の口がバクバクと大小の円を繰り返して酸っぱさを訴えかけてくる。


「お、おい……倉田くらたか? お前、大丈夫か?」

布施ふせおもむろに心配をかける。しかし、動けない。


振り返った布施ふせ

後部座席に倉田くらたの姿がない。


いつの間にあんなところへ?


「俺さ、死ぬかと思ったよ。さっきの液体、結構飲まされちゃったから……」


「はっ!?」


不可解な言語に思考が凍り付く。


コイツ……本当にさっきまで後ろに座っていた倉田くらたか?


胃袋野郎の消化液を頭からどっぷりかぶったように見えるが、見た目ひどくれているだけで、それ以外は……


でも、何かが、さっきとは違う……


「みんなどうして、ボクを助けてくれないの?」


声が出ない……

目を閉じたくても、まぶた痙攣けいれんして……


「ちなみにさ、ウツボカズラの消化液って飲めるんだよ? 知ってる? でも飲んだ後ってひどくお腹がくんだよね……」




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