第3話 心音Ⅰ②
「あらためてお願いするよ。ほ乳瓶を」
あいにく体は動かないけれど、居ずまいを正したつもりで言った。たぶん、ちょっと真剣な表情になってたと思う。彼女は、さっきよりかは和んでいてくれるはずだ。
僕の言葉に対して、彼女はゆっくりと頷いた。自分に言いきかせるように。
「‥‥‥‥ごめんなさい。わたし、いざ、ミルクをあげようとして、咲見くんと目が合ったら、急に顔がぼわって赤くなって。耳とかゴ~って充血の音がして。『わたし、男の人に触られたりしたことまだないのに、いきなりこんなことしちゃって。どうしよう? どうしよう?』‥‥‥って考えたら」
一語一語、噛むように話してくれた。
「思考が迷走神経に行っちゃったのね。あと、顔が赤くなったのを見られるのも、ものすごく恥ずかしいし」
「そうなんだ。わかるよ。さっきまで恥ずかしがってジタバタしてたの僕の方だしね。でも、逢初さんが一生懸命に説得してくれたから『しょうがない、飲むか』と腹を決めたよ」
意識して少し声を張る。
「飲ませてよ。僕からお願いするよ。ほら、この通り」
「‥‥‥‥」
逢初さんは、微笑した。
「ふふ‥‥。『この通り』って。咲見くん、動けないのに、どこをどう動かしたの?」
「はは。そっか。どっこも動かせてないや。そう、目、目で、お願いしたんだよ。‥‥あと、逢初さん」
「何?」
「顏赤いの気にしてるんだったら、ぜんぜん大丈夫だよ。男子的には、ちょっと赤らんでるくらいの方がポイント高いと思うよ。一般的に」
「そんなことないけど」 彼女は、少し頷くと、顏の前のハンカチを下ろした。
「ちょっと、じゃないから気にしてたんだけどな~。でもありがとう。咲見くん」
そう言って肩をすくめた。
「もう! しょうがないなあ。こんなにちゃんとお願いされて断ったらオニだよね、わたし。じゃ、大サービス!」
彼女は、僕に向かって両手を伸ばしてきた。が。
「あ、ちょっと待って」
立ち上がると、僕のベッドの向きをクルリ、と180度回転させた。素早くベッドの足のブレーキを外して。
小児科でバイトしてるって言ってたっけ。なんだか手際がいい。
「どうしてベッドを?」
「うん、まずわたしが右利きだから。それとね、赤ちゃんはね。お母さんの心臓の音を聴くと、お腹の中にいた頃を思い出して安らぐのよ。だから、咲見くんの頭がわたしの左、心臓側に来るようにして――」
「心音‥‥‥‥?」
思わず逢初さんの胸元の、白衣から覗く制服のリボンに視線を送ってしまった。慌てて目を逸らしたけど。
「あ~~!!」
彼女はとっさに身構えた。
「あの! わたしの心音をあなたに聴かせたりとか、そういうことじゃあないんだからね!? 医療の本質はサービスだけど、そういうサービスじゃあないんだから。違うんだからね!?」
はい。ごめんなさい。
僕がしおらしくしてると、「もう」と軽いため息をついて逢初さんはバックヤードに行ってしまった。今日2回目のやらかしか‥‥、と1人反省会を始める前に、彼女は戻って来た。
「あれ。白衣はどうしたの?」
彼女は、白いドクターズコートから、ピンクのエプロンへと着替えてきていた。夏服のセーラーと紺色のプリーツスカートはそのままだったけれども。
「女医モードから介助モードへの変身よ。女子は、着ている服でスイッチが切り替わるから」
「ふ~ん。なるほど。‥‥‥‥そんなものなのか」
彼女は再び両手を後ろへ回して、プリーツスカートのしわに気をとめつつ、
「失礼します」
そう言って彼女は、僕の背中に左手をまわして、左肩あたりに手をそえると、肘で頸を少し持ち上げた。
「わたし、ちゃんとお礼を言ってなかったよね。ありがとう、咲見くん。わたしたちのために、戦ってくれて。がんばってくれて」
そう言われながら中二の僕は、中二の女の子に
一度決心はしたものの、色々思いが巡ってしまう。
彼女の肘がちょうど良く僕の首を持ち上げてくれているから、喉が開いて通りが良さそうだ。こういうの慣れてるのかな?
なんだか不思議な気分だった。オレンジの夜灯に浮かぶ逢初さんは、少し俯いて静かに目をつむっている。前髪が綺麗に切り揃えられていて、その整った顔立ちはまるで人形のようだった。医務室には、僕のバイタルを知らせる電子音が、ピ、ピ、ピ‥‥と響いていた。
静かだ。
「恥ずかしいから、あんまり見ないでね」
彼女が、目を閉じながら小声で言った。僕が見てるの、気づいてたのか。
何だか、星空を見上げてる気分だった。人類の長い歴史の中、この星空の下で、母親たちはこうやって命を育んできていたんだな、って思った。
それってすごいこと、なんだよな‥‥!
――ってところで。
ん?
星空?
そうだ!! ――僕は閃いた。
「ね。逢初さん。いいこと思いついた。電気消そうよ! お互いが見えない暗闇なら、顔赤くなってもわからないし、僕も飲むとこ見られなくて済むから」
刹那、彼女の顔がぱあっと明るくなって。
「ああっ。そうね! 盲点だったわ。かなりの問題がこれでスッキリ! さすが咲見くん」
我ながらナイスアイデアだ。彼女が一旦席を立って、すぐにリモコンで照明が消された。
オレンジ色の室内が一瞬で漆黒に変わった。
僕に近づく気配がある。
「‥‥‥‥えっと。目が慣れないと途端にわからなくなるね」
「僕は動いてないよ~~。てか動けないし~~」
「あ、そこね。じゃあ、さっきみたいに腕を‥‥っと」
「うん、そうそう。大体そのへ――――」
‥‥‥‥‥‥‥‥ぽむん。
「‥‥‥‥?」
「‥‥‥‥?」
「‥‥‥‥‥‥!?」
「‥‥‥‥‥‥!!!!」
僕の右のこめかみに、「何か」が当たった。「何か」――が何かはわからないけど。
一瞬、逢初さんの「心音」が聴こえた気が――――した。
「‥‥‥‥っ!!」
明転する。そこには、さっきとはくらべ物にならないくらい赤面した逢初さんが。
そして身体の前で両腕を抱きかかえて、こわばった様子で。
彼女のぱっちり見開いた目が、行き場をなくして泳いでいく。
「ごめん。やっぱ無理‥‥‥‥」
「だよね~~」
僕は。
少し食い気味に返事をした。
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