第22話 養花 7



 二日後の昼下がり、東宮の執務室で慧喬が行成と書類を覗き込んで話していると、遠慮がちな声と共に伶遥がひょこりと顔を覗かせた。


「……今……忙しい?」


 慧喬と行成が書類から顔を上げて声のした方向を見た。注目されて伶遥が肩をすくめる。


「あ……ごめんなさい……お仕事中よね……」

「どうした?」


 慧喬が聞くと、伶遥がもじもじと下を向いた。


「……あの、せっかく慧喬……あ、ええと……殿下が戻って来られたのに、まだゆっくりお茶してなかったと思って」

「……そういえばそうだな」


 慧喬の返事に勇気を得たように、伶遥が上目遣いに、「お茶とお菓子」と持っていた包みを胸の前に上げた。

 慧喬が、ふ、と笑みをこぼす。


「ちょうど茶を飲みたいと思ってたんだ」


 行成も微笑み、「どうぞ休憩にしてください」と書類を片付けると、伶遥が嬉しそうに頷いた。


 東宮付きの女官を呼んで茶を淹れる道具を頼み、慧喬と伶遥は庭に面した窓際の卓に移動した。


「ごめんね。いろいろと忙しいとは思ったんだけど」

「いや、大丈夫だ」


 慧喬があっさりと返事をすると、それでも伶遥が心配そうに眉根を寄せる。


「無理してまた身体を壊したりしないでね」

「ああ。気を付ける」


 それに頷き、伶遥が感慨深げに大きく息を吐く。


「もう直ぐ冊立式だものね」

「そうだな」

「それにしても、陛下は随分とお急ぎなのね」


 伶遥が白兎を思わせる愛らしい顔を傾ける。

 確かに孝俊の時は、孝俊を太子とすることを公表した後、正式に冊立するまでに一年の期間があった。しかし今回は宣言から十日程で冊立式を行う。


「叔母上が言っていたように、兄上が亡くなったことで皆が沈んでいるから時期を早めたのかもしれないな」


 そう言いながら、女官が持って来て置いた茶道具に慧喬が手を伸ばそうとすると、「私が淹れるわ」と伶遥が茶器を引き寄せた。


「それは嬉しいな。伶遥の淹れる茶は特に美味いからな」


 目を細めた慧喬へ、少し照れたように伶遥が笑う。

 持って来た茶葉で茶を淹れ始めた伶遥の手元を見ながら、何が違うんだろうな、と慧喬が首をひねる。

 同じ茶葉を使っても、自分が淹れるより伶遥が淹れてくれた方が格段に美味く感じる。


「茶は好きだけど淹れるのは下手なんだろうな。この間も私がやろうとしたら叔母上に取り上げられた」


 それを聞いて、ふふ、と笑いながら伶遥が慣れた手つきで茶を注ぐ。


「どうぞ」


 ほわりと香りの立つ茶碗を慧喬の前に差し出した。


「ありがとう」


 慧喬が手にとり口元に運ぼうとして、ふと動きを止めた。


「この茶葉、どうしたって?」

「分けてもらったの」

「誰に?」

「母上から。母上もいただきものだっておっしゃってたわ」


 そう言って伶遥がもう一つ茶を淹れた湯呑みに手を伸ばす。


「私も初めて飲むの。濃い目に淹れるものらしいのだけど、どうかしら」


 伶遥が湯呑みを手に持って中の茶を覗き、口元へ持っていく。


「気持ちの落ち着くお茶なんですって」


 持ったまま湯呑みに顔を近付けていた慧喬が顔を上げた。


「待て、飲むな!」


 慧喬の鋭い声が放たれた。

 伶遥がびくりとして固まる。


「……え……? 何……?」


 慧喬は困惑した表情で見返す伶遥の手から湯呑みを取り上げて卓に置いた。

 そして、帯につけた荷包から乾燥した草を取り出す。

 仙舌草だ。

 少し離れたところに控えていたはずの孟起が、音もなく伶遥の背後に回り込む。

 慧喬は取り出した草を自分の湯呑みに入れてじっと見つめる。

 孟起が伶遥をちらりと見てから問うような目を慧喬に向けた。しかし慧喬は僅かに首を振って視線を返す。


「何? どうしたの? 何をしたの?」


 不安げな顔の伶遥が湯呑みの中を覗き込む。

 慧喬はその様子を、感情を排した瞳で観察するように見つめる。

 そして次に伶遥から取り上げた湯呑みにも仙舌草を入れた。視線は湯呑みの中ではなく伶遥に置いた。

 伶遥は見られていることに気付いていない様子で、慧喬が今、仙舌草を入れた自分の湯呑みを不思議そうに見つめている。

 慧喬は、伶遥から湯呑みへと目を移した。

 湯呑みの中で茶を含んだ仙舌草は——黒ずんで沈んでいた。先に仙舌草を入れた慧喬の茶と同様に。

 慧喬は静かに息を吐くと、湯呑みから伶遥に視線を戻して言った。


「伶遥。この茶は毒入りだ」

「……え?」


 伶遥がぽかんと慧喬を見る。

 反応が鈍い。

 言葉の意味を理解していないかのように。

 目を瞬かせて慧喬と湯呑みを見比べている。


「どく……」


 まるで初めて聞いた言葉を復唱するように呟く。


「……この茶葉は賢妃様にもらったと言ったな」

「……ええ」

「賢妃様も誰かに貰ったって?」

「そう、聞いたけど……」

「誰?」

「……それは聞いてないわ」

「じゃあ、いつ?」

「……多分……昨日か一昨日……?」

「賢妃様は飲んだのか?」


 さっと伶遥の顔が青ざめた。

 ようやくこの状況を理解したらしい。口元に持っていった指先が震え始める。


「……わ、わからない」


 伶遥がよろけながら立ち上がった。

 卓の脚に膝をぶつけ、載っていた茶器がガチャンと派手な音を立てる。湯呑みの一つが倒れて中の茶が卓の上に広がった。

 それを恐怖に震える瞳で見つめると、掠れた声で言った。


「……帰る……」

「私も行こう」


 慧喬も立ち上がる。


「先に行くぞ」


 そう言うと、慧喬は足取りの覚束ない伶遥を置いて賢妃のいる桃花宮へと向かった。






 桃花宮の門をくぐると、慧喬はよく通る声で賢妃を呼んだ。


「大きな声で何事ですか」


 非難がましい顔をして侍女が戸口に現れた。しかし、慧喬の顔を見て、慌てた様子できざはしを降り拱手する。


「賢妃様はいらっしゃるか」


 頭を下げる侍女の横を通り過ぎ、慧喬が階を上がろうとすると、戸口に賢妃が姿を現した。

 慧喬がほっと息を吐くと、賢妃は驚いた顔で降りて来た。


「慧喬様ではないですか。どうされたのです? あら、伶遥とは一緒ではなかったのですか? 東宮へ伺うと言っていましたのでご一緒させていただいていると思ったのですが」

「ええ。伶遥殿が来て茶を淹れてくれました」

「そうですか」


 賢妃がおっとりと微笑む。それには笑みを返さず、慧喬がわざとゆっくりと言う。


「持って来てくれた茶葉で」


 しかし賢妃は相変わらず穏やかに微笑む。


「いかがでしたか?」

「賢妃様に分けてもらったと聞きましたが」

「ええ。珍しいものをいただいたので、伶遥に持たせましたの」

「……賢妃様はその茶は飲まれましたか?」

「まだですわ」

「それはよかった。それで、その茶葉はどなたから貰ったのです?」

「梅花宮の侍女が持ってきてくれたと聞きましたわ」

「というと、貴妃様からですか」

「そうなりますかしら」


 そこへ。


「母上!」


 慧喬から遅れて伶遥が息を切らしながらよろよろと駆け込んできた。

 顔は今にも倒れそうに血の気がない。


「は……母上……! ……ご無事ですか……!?」

「まあまあ、慌ててどうしたの? 伶遥」


 驚く賢妃に伶遥が縋り付く。


「……お茶に……毒が……!」

「……え……?」


 賢妃が怪訝な顔で伶遥を覗き込む。


「……それは、どういう……」

「……中で話しましょう」


 声を抑えて慧喬が言った。




 室内へ入ると、まだ震えの止まらない伶遥を椅子に座らせた。賢妃がその隣に腰を下ろし、伶遥の背をさすりながら手を握る。そして聞いた。


「毒……って……一体どういうことですの?」


 先ほどまでの穏やかな顔が硬い。


「賢妃様が伶遥に持たせてくださった茶葉には、毒が仕込んでありました」

「……え……嘘でしょう……?」

「確かめました」


 そんな、と呆然と呟いた後、はっと顔を上げた。


「まさか……お飲みになったのですか?」

「いえ。飲む前に気付いたので、私も伶遥も飲んでいません」


 慧喬が答えると、賢妃は安堵したように大きく息を吐いた。


「あのお茶が貴妃様からのものだというのは確かですか」

「え……ええ……。確か一昨日、梅花宮の侍女が持って来てくれたと聞いています」

「貴妃様から直接、手渡されたわけではないのですね?」

「ええ。違います……」

「貴妃様からはよく届け物があるのですか?」

「……あまりそういったことは……」


 腕を組んで立つ慧喬をちらと見上げてから目を伏せ、賢妃が声を落とした。


「……慧喬様の前でこう申し上げるのは何ですけど……今回は……次の太子に慧喬様が決まって、気を落としているでしょうから、と言って遣わしてくださったそうです。何でも貴妃様は寝込んでおられるとか……」


 孝俊の亡き後は、貴妃の産んだ宗文か賢妃の産んだ子翼が太子となるだろうと噂されていた。それが降って湧いたように、まだ彼らよりも四つも下の、しかも公主が後継に選ばれたのだ。

 落胆した貴妃が、同じ気持ちであろう賢妃に、同感の意を込めて慰めの品を贈るという状況は無くはないだろう。


 しかし。


「……何故、それを伶遥に持たせたのですか?」


 静かに聞いた慧喬の声に疑義が混じる。

 その響きに賢妃の顔が強張る。


「……気持ちが落ち着くお茶だ……と聞いたからですわ……」


 そして信じられないという表情かおで慧喬を見た。


「まさか……わたくしが知っていて伶遥に持たせたと……?」

「そうは言っていません」


 慧喬が伶遥を見て言うと、賢妃が唇を震わせる。


「私は伶遥の母親です。そんなことをするはずがありません」


 不安げに母親を見つめる伶遥を抱き寄せ、賢妃が震える声で言った。


「結果的に……慧喬様を危険に晒してしまったことには……お詫びのしようがありません。状況からして、私をお疑いなのも仕方がないのかもしれません……」


 眉間に皺を寄せた賢妃の声に僅かに自嘲が混じる。


「でも、後継問題で私をお疑いならば考え違いです。慧喬様ならご存知かと思いますが……子翼には王になろうという気が全くないのです。王の護衛を務めたいと嬉々として言うほどに……」


 慧喬が黙ったままその先を待つと、賢妃が続ける。


わたくしは……ええ、私だってもちろん、以前は、子翼を太子にと期待していました。でも、子翼がそんなふうですから、孝俊様が太子になられた時点で諦めてしまったんです。今更、そんな情熱はもう私にはありません。だから、せっかくいただいたけれど、お茶で気持ちを落ち着ける必要もありません」

「それで私に?」


 賢妃が、ええ、と慧喬を見上げて頷く。 


「慧喬様は療養から復帰されたばかりのところを太子に指名をされて……しかも、孝俊殿下とは仲がよろしかったのでお気を落としておいでだろうと思いましたの……。伶遥も慧喬様のことを心配していましたし、それならば、と……」


 不本意と不安を表すように、賢妃は伶遥の手をぎゅっと握った。


「私などを貴妃様が害する理由がありませんもの。特に怪しいものだとは思ってもみませんでしたわ」


 そして眉根を寄せて声を震わせた。


「……それなのに……まさか貴妃様が私を殺そうとしただなんて……」

「……まだそうと決まった訳ではありません」


 慧喬は静かに言うと、少し考えて聞いた。


「……茶葉を持ってきた侍女は誰かわかりますか?」

「いいえ……私が受け取った訳ではありませんし……」

「受け取ったのは誰ですか?」


 慧喬が聞くと、賢妃は年配の侍女を呼んだ。その侍女は子翼の乳母を務め、もう桃花宮で賢妃に仕えて長いという。


「茶を持って来た侍女は知っている者か?」

「……見たことはあると存じます。……でも名前までは……」

「顔を見たらわかるか」

「恐らく……わかると思いますが……」


 侍女が青ざめた顔で答えると、慧喬が言った。


「よし。少し梅花宮へつきあってくれ」



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