第14話 蕾 4




 慧喬は富貴宮へは帰らず、その足で宗正卿の執務室へと向かった。

 療養からの復帰を宣言したのでもう隠れて行動する必要はない。


 しかし、どうも様子が変だ。


 一人で歩く慧喬に、通りすがりの官吏が振り返り、慧喬を二度見して慌てて恭しく拱手した。進む毎に同様の動きをする官吏は増えていく。

 久しく見なかった公主が姿を現したとはいえ、やや大袈裟だ。


 宗正卿の執務室へ着くと、驚いた顔の宗正卿が、がたりと派手な音をたてて机から立ち上がった。先ほど二度見した官吏と同じ表情かおだ。

 そして慧喬の前までやってくると言った。


「この度はおめでとうございます」


 その言葉で慧喬は先ほどの官吏たちの態度の理由わけが推測どおりだったことを確信し、諦めたように小さく溜息をついた。

 今日の朝議で早速、慧喬を後継とすることが公表されたのだろう。

 今朝、後宮の朝議で慧喬の復帰を宣言すると伝えに行った時に、「ちょうど良い」と王が言ったのはこのことだったのだ。


「陛下が探しておいでです。執務室にいらっしゃるようにとのことです」


 宗正卿が言った。







 慧喬は謁見を終えて王の執務室を辞去すると、再び宗正卿の部屋へと向かっていた。


 王からは、推測したとおり本日の朝議で慧喬を太子とすると公表したということと、太子の冊立式の日取りは来月一日であることが告げられた。

 式までにもう十日もない。

 「考えさせてくださいと申し上げましたが」と言ってみたが、「決定事項だと言ったはずだ」とあっさりと却下された。


 太子に選ばれたことは、慧喬にとっては降って湧いたことで正直まだ現実味はない。しかし、王がああまで断言するのであれば、今更それを覆すことができないのは承知していた。

 紅国には優れた官僚が多くいる。太子としての職務に不慣れでも、すぐに紅国のまつりごとに影響が出ることはないだろう。

 渋ってみたのは、孝俊の件にきちんと区切りをつけてからにしたかったからだ。


 慧喬は不敬にならない程度に溜息を吐くことで抵抗を示した後に、王へ要望を述べた。

 冊立式に先立ち、富貴宮から東宮に居を移したいと言うと、すんなりと許可された。

 ついでに東宮の職員の入れ替えも許可されたが、今いる者たちをそのまま譲り受けることにした。


 冊立式までに自分の手で決着をつける。そのために、自由に動くことができる拠点と信頼できる協力者が必要なのだ。


 眉間に皺を刻んで考え込みながら歩いているところへ、「慧喬!」と突然名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。

 すると、すぐ目の前に、肉付きが良いわけではないがぱっと見、”丸い”という印象を受ける女子が腰に手を当てて立っていた。

 孝緒王の一番下の妹に当たる芳葉珠だった。


「そんなところに立っていたらぶつかります。叔母上」


 丸い印象を受けるのは顔と目の形のせいなんだろうな、と思いながら慧喬が言うと、その丸い瞳でぎろりと睨まれた。


「その呼び方は止めてって言ってるでしょう」


 葉珠は叔母ではあるが、慧喬とは三つしか違わない。年齢が近いことと元からの社交的な性格からだろう、甥や姪たちとも気安い関係だ。

 中でも公主らしくない慧喬が特に気にかかるようで、顔を見ればいつも、公主たるもの、という説教を懲りもせず垂れてくる。

 おしゃべりでお節介なところは時折煩わしいこともあるが、慧喬はそんな年の近い叔母が嫌いではなかった。


「すみません。叔母上」


 慧喬が親しみを込めてあえてそう呼ぶと、葉珠は鼻の頭に皺を寄せて見せた。

 それに少し笑うと、慧喬は葉珠の脇に心配そうな顔で立っていた女子——伶遥——に向き直った。


 年が同じ腹違いの妹である伶遥は、慧喬とは違って控えめで大人しい。性格は全く異なるが、慧喬と伶遥は茶飲み友達でもあった。


「伶遥。久しぶり。こちらから桃花宮に行こうと思ってたんだ」


 慧喬が言うと、伶遥が黒目がちな兎のような目に、少しだけほっとした色を浮かべた。


「……さっき貴女が朝議に出たって聞いて……。本当にもう身体は大丈夫なの?」


 伶遥が葉珠の隣から一歩前へ出ると、遠慮がちに慧喬へと手を伸ばした。


「ああ。心配かけたみたいだな。何度も来てくれたのにすまなかった」


 差し出された伶遥の手を慧喬が握ると、ようやく伶遥も眉間を緩めて安心した顔になる。


「ええ。本当に心配したわ……。全く会えなくて様子もわからなかったし……。ここにはいなかったんだから……当たり前よね」


 少しだけ詰るような声音が混じる。


「ごめん」


 慧喬が謝ると、伶遥が眉を下げて困ったように笑った。


「……でも本当は後宮ここにはいないんだろうとは聞いてたから」


 慧喬の眉がぴくりと動く。


「……誰に聞いた?」


 ほんの少し低くなった声に首をすくめ、伶遥が葉珠を見た。


「澄季がね、そんなことを匂わせていたのよ」


 葉珠が伶遥の代わりに答えた。

 慧喬が諦めたように息を吐く。


「……多分そんなところだろうと思った」


 妃たちの朝議での反応から、もしかして富貴宮にいなかったことは皆が既に知っていたのではないかと感じていた。


「あ、でも、本当はどこにいるのかは言ってなかったわ」


 伶遥が慌てて澄季をかばう。

 慧喬はそれに頷いて見せながら、居場所を澄季には知らせていなかったのは正解だったと内心で溜息をつく。


「黙っててすまなかった」


 改めて慧喬が謝ると、伶遥がふるふると首を振った。


「ううん。ゆっくり休むためだもの。仕方ないわ。……身体の方は良くなったようね。安心した」


 伶遥が嬉しそうに微笑んだ。


「それにもう療養している場合ではないしね」


 腕を組んで二人を見守っていた葉珠はそう言うと、姿勢を正して拱手の礼をとった。


「慧喬殿下、この度は太子へのご指名、謹んでお祝い申し上げます」


 葉珠が言うと、伶遥も慌ててそれに倣った。

 それに慧喬が溜息を交えながら返す。


「……耳が早いですね」

「もう宮中その話でもちきりだもの」


 葉珠が悪戯っぽく言うと、慧喬が眉を顰める。


「全くめでたくありませんよ」

「あら。そんなことはないわ。……孝俊殿下のことは本当に悲しい出来事だったから華京中が沈んでいたの。だから、太子が早々に決まることは民にとっても良いことよ」

「そうは思えませんね。女王だなんて不満に思う者も多いでしょう」

「まあ、それはないとは言わないわ。でも、女王が駄目だとは法にもないし、何より後継の選定は王の専権事項だもの。兄上……陛下がお決めになったことに誰も横槍を入れることはできないでしょう?」

「そうですが」


 そう口にしながら、表立ってはね、と心の中で呟く。

 厳しい顔で黙る慧喬に葉珠が少し戯けたように微笑む。


「公主らしくしなさいって散々言ったけど、何だか今となってはそれも意味がなかったことになるわね」

「じゃあもうお説教はないってことですか」

「そうね。残念ながら」

「その一点だけはありがたいです」


 慧喬が笑うと、何よ、と葉珠が明るく抗議する。

 伶遥もそのやりとりに笑うと、しみじみと言った。


「慧喬はどこか違うと思ってたの。やっぱり凄いわ。太子だなんて」


 慧喬は伶遥を観察するように見て聞いた。


「……私が太子にということは、どこで知った?」

「葉珠様が教えてくれた。慧喬が朝議に出てたって聞いて富貴宮に行ったのだけどいなかったから、葉珠様のところかと思って訪ねたの。そこでお聞きしたのよ」

「そうなのか。……それ以前にそんな感じの話、噂でもいいから聞いたことなかった?」


 梁氏は王妃であるにも関わらず全く知らされていないようだったが、伶遥の母親の賢妃の周りでそういった話が嘘でも流れたことがあるだろうか。

 慧喬が聞くと、伶遥は首を傾げる。


「ないと思うわ」

「叔母上……葉珠様も?」


 あちらこちらに顔を出していろんな噂を拾ってくる才能を持つ叔母にも聞いてみる。


「私も知らなかったわ。だからびっくり」

「そうですか……」


 慧喬が呟くと、葉珠が慧喬の顔を覗き込むようにして聞いた。


「もしかしてこのお話は前からあったの?」

「いえ。私も思っていないことだったから、正直戸惑っています」

「そうなの? そうは見えないわ」

「逃れられないようですから諦めただけです」


 そう苦笑すると、葉珠は、ふうん、と慧喬の頭の天辺から爪先までをじっくりと見る。


「確かに貴女は賢いと思うけど、陛下が他の王子じゃなくてあえて公主の貴女を太子とした決め手は何かしらね」

「さあ」


 慧喬もまだその理由を教えてもらっていない。

 葉珠は首を傾げる慧喬を見て、


「きっと太々しさね」


 と確信を得たように頷いた。



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