活字中毒者が語る(騙る)それっぽい文章の書き方

鳩原

表題は簡潔に

良し悪しは置いておいて、私は子供のころから、いやむしろ子供の頃の方が吝嗇家であった。当時から本の魅力に酔いしれていたが、本屋などはそうそういかず、もっぱら図書館や学校の図書室に入り浸っていた。今も相変わらず足繫く図書館に通う日々である。まあ余裕のある月は一愛書家として尊敬する作家先生を応援するべく幾冊か購入する時もあるが。

......愛書家は格好つけすぎた。本の虫ブックワームとでも言う方が適切であろう。ちなみに我が家では(正式な単語か把握しかねるが)活字中毒者という言葉が使われている。あ、ウィキペディアで調べてみたら項目があった。


──なるほど、愛書家との違いとしては本が好きか、字を読むのが好きかといったところか──なんと!愛書家ビブリオフィルは書物崇拝狂とも訳してある!──この定義に沿うならば私はどちらの身にあたるだろうか──どちらもだな。


さて、それがどうしてこの文章に関係するのか。踏み込んで、どうして私がこの文章を書くに至ったのか。そこには、上等な金箔ほどもないごく浅い理由が存在するのである。

どうして私が急に文章論を書き殴り始めたのか。答えは明瞭、ある日ふと「あれ、私の文章ってなかなか強烈じゃない?」と思ったからである。例えば、あれは妹に読書感想文が書けないと相談された時だったか、私はこう答えた。「分かりやすいけど、文章が簡潔過ぎて字数は稼げないね。もっと修辞レトリックを使うべきじゃないか」と。自慢の妹は文章もなかなかうまく、理解するに容易かったが、どうも淡泊で、原稿用紙を埋めるのに適しているとは言えない。議事録の整理でもさせたらその真価を発揮するやもしれないが。

翻って私は、原稿用紙を埋めるのにうってつけの、芝居がかっていた飾り文句をごてごてに搭載した、そして読者諸賢におかれてはどうにも鼻につく読みにくくって仕方のない文字列を書き散らす。こんなにも騒々しい文を書ける人はそう多くないのではなかろうか。……そりゃあ、プロフェッショナルに比べれば、比べるのもおこがましいほど表現力に差はあるだろうよ。言葉の綾だ。というか、私の言葉は七割が綾で構成されている。話半分もとい話三割で聴いていただきたいものだ。


話を戻して。何が私をしてかくもふざけたタイピストにせしめたか。私はその一つが図書館であると踏んでいる。図書館というのは税金を払ってさえいれば、いや万が一その利用者が不正入国者だろうが無差別殺人鬼テロリストだろうが、構わずその自動ドアをくぐる者皆平等に先人の知恵に触れる機会を有することができる優れた機関である。が、しかし一方で、我々無辜の民のそれはそれはもう大切な大切な税金(私は皮肉も好む)で図書費が賄われているため、新しい本を購入するにはある程度の時間がかかる。それに加えて、公共財である本は読んで字の如く私だけの財産では間違ってもないため、人気の新しい本は手に入りにくい。要するに、私が親しんできた本に最新のものは多くない。書かれている文章、私が吸収する文章も、おのずとそれに伴う。


こんなことを想定するだけでもおこがましいこと限りがないが、一応補足をすれば、決して私が文学青年であり昨今のライトノベルしか読まない人々を蔑んでいる訳ではない。素直に面白いと思う。有川ひろ先生や、最近は米澤穂信先生がお気に入りである。

また180度視点を変えて、その上穿った見方をすれば、私が本当は最新の作品を読みたいのに仕方がなく昔の、どこか格式張っているとさえ言える小説を読んでいるという風に捉えることもできるであろう。はっきり申し上げよう、心外だ。誰も反論できない例を一つ上げる。那須正幹先生の代表的な作品『ズッコケ三人組』シリーズの冒頭は、季節の移ろいの丁寧な説明から導かれる。今日日あまり聞かない、いや読まないんじゃなかろうか。一見あまり重要でなさそうに見える。ところがこれが極めて肝腎なのである。この、どこからどう見てものどかな景色を構成する街の一つ、誰がどう見てものどかな小学校の六年生を中心に、いつ何時見てものどかな事件が起こるのが、本シリーズの定石である。そして、毎度毎度こののどかな事件に夢中になってしまう。百発百中だ、絶対に外れない。外れたことがない。さあ、この冒頭からこの物語は一体全体どんなふうに広がっていくのかな、そうやって想像力をたくましくする瞬間こそが、何より楽しい。あれだけ褒めちぎっておいて手の平を返すようだが、下手したら山場クライマックスよりもわくわくしていたかもしれない。

この際左手の平も返してしまうが、インターネットで楽しむ小説にはそういう趣が少ないように思う。もちろん、戻るボタン一つでネットの大海に流されゆく現代において、のんびりと気候の話などしている暇はないという論理は通るが、そう、ネットの言葉を使えば懐古厨である私奴などは、どうにも一つ風情に欠けるというのが、正直な印象である。


そういえばこの話の表題は「それっぽい文章の書き方」だったろうか。まあ幾つかお気づきの方もいらっしゃるであろう。一つ目はルビだ。それもただの難読漢字ではない。外来語をあてるのだ。有名どころだと、手巾ハンカチとか洋袴ズボンとか。これは自分の読書歴の中から引っ張ってきてもいいし、創作してもいい。自分だけの当て字をひねり出すとは、なかなか乙なものだとお思いにならないか。ならないか。うん。

気を取り直して、二つ目は漢語である。私は古典がからきしなので参考書と首っ引きにならねば正しい表現か否か判断いたしかねるのでそう多くは使わないが、やはり文章が引き締まる、あるいは私が勝手に思い込んでいるのかしらん、まあ兎に角一度使ってみては如何だろうか。ああ「如何」も漢語だ。

三つ目に、矛盾しているようだが和語も小難しいのがあったら散りばめてみるといい。「賛成する」より「肯う」を、「反対する」より「否む」を。多用すると私のような自己満足衒学家(戦術の皮肉に加えて私は自嘲も好む)になるからな、あくまで散りばめる程度にだな。


これが私なりの文章の書き方だが、詰まるところ本職の作品に多く触れるのが一番であろう。つまらない、だが堅い結論が露わになったところで筆を置きたい。つまらないことはなるたけ早く終わらせたい、が私の信条である。自己満足、とそう言った舌の根の乾かぬうちによくもぬけぬけと、とお思いになるかもしれまいが、しかし「小手先で古めかしい文章を書きたい!」という誰かにこの文章が届くことを切に願っている、この想いは真実である。

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活字中毒者が語る(騙る)それっぽい文章の書き方 鳩原 @hi-jack

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