長田の神話 - 神戸市南部のある地域に残される伝承と物語についての中間報告-

@lostinthought

第1話


はじめに


私の故郷は長田ながたと言う。


長い、田と書く。


遙か昔、神戸こうべの南西部を今も南北に流れる苅藻川かるもがわに沿い、長い長い田があったからだと聞く。



苅藻川のそばでは弥生時代の土器が多く出土しているから、相当昔からそこに集落があったのだろう。


長田の坂の多い地域に建つ長田神社は、神功皇后じんぐうこうごうが神託を得て建立したものだと日本書紀に見える。


神戸こうべの名の由来はこの社に仕えた民戸みんとを意味する神戸かんべから来ているそうだから、やはり相当古くから多くの人が住んでいたようだ。


また長田は源平合戦の主な戦場でもある。戦に敗れた平氏の陣があった。


だからだろうか。


今でも不思議なものを見る人は少なくない。


それらに関して私の聞いた話を書く。


駒ヶ林こまがばやしは長田の最南部、海が目と鼻の先に迫る地域にある。


戦争の時に空襲で焼けるまでは見渡す限り漁村が続き、山の方から来ると漁港へまっすぐ続く往来の果てに、遠くからでも砂浜と濃紺の海が見えた。


だが僅かでも駒ヶ林の村に入れば、その海に臨む村らしい素朴な景観からは想像できない程細かく入り組んだ漁村的な路地に、他所者は戸惑う。戸惑いながら圧倒される。はじめてそこに知己ちきを尋ねた人は必ず迷い込む。


迷って、まったく見当違いの家に行く当たる。いつまでも目的の場所に着かない。そういう迷路のような路地なのだ。


これは何も駒ヶ林の村に限ったことではなく、戦前の漁村はどこでも似たようなものだという人もいる。


駒ヶ林が他とやや異なっているのはその村全体が終戦後すぐ、国の許可が下りるよりも先に焼け跡の建て直しを独断で始めた為、戦前の漁村のあの入り組んだ路地がそのまま姿を留めていることだ。


家々の建材が木からコンクリートに変わった今も、他所の人間には迷宮としか思われない路地、漁村の名残である細々こまごました路地が駒ヶ林町には無数に在る。


つまり戦前の地図の上に、新しい時代の地図がそのまま重なっているのである。


駒ヶ林町と言わず、長田全体がそういう歴史を繰り返してきた土地だった。


またこの地域には、腕塚うでづかという小さな御堂おどうが千年も前から存在する。


源平合戦の時に闘死したたいらの忠度ただのりの切り落とされた腕を祀ったもので、その塚は首を祀った別の首塚くびづかともども今も海のそばに在る。


〈船の話〉


この話はその腕塚うでづかそばに住む、私の友人から聞いた話である。


苗字はなみ、名は翔太しょうた。漁師をする父親の二人いる息子の長男である。


その翔太が以前、小学生の頃に体験したことだと言って聞かせてくれた。今から20年ほど前の事である。


ある夏の夜。


翔太は自転車に乗り、高松橋たかまつばしという橋から西に向かって伸びる市道路(高松線)に沿った歩道を、一人で走っていた。帰るのが遅くなってしまい、暗い中を家へ家へと急いでいたのである。


塾の帰りだったか、遊びに夢中で遅くなったのかは本人も覚えていない。


夜の八時頃の事だったらしい。


まだ平成初期の事なので携帯電話を持っていなかったから、腕時計をしていたかそれくらいの暗さだったのだろう。


翔太は自転車のスピードを少し落とし、歩道から自分の路地に入った。彼の家は路地内の腕塚、忠度の腕を祀った小さな御堂から10メートルと離れていない所にある。


腕塚の前を息せき切って抜けて家に着いた。その時、海の方から何かが来る気配がした。正確には、何かを引ひき摺ずっているような音を翔太は聞いた。


翔太の家から海まではすぐそこだ。路地をぬけて道路を渡ればもう海である。


翔太は一度家に入ったが、被っていた汗で湿った野球帽を玄関に脱ぐとまたターンして外に出た。音の正体が気になったのだ。


翔太は家の前から、前の家の角越しに腕塚の方を覗いた。音は今はそちらから聞こえていた。


翔太はぎょっとした。


路地の中を大きな船が引かれていくのがはっきり見えたからである。


見間違いかと思い、もう一度よく見た。が、やはり船だった。翔太には木造船に見えた。木造のボートをそのまま大きくしたような大きな船である。


横から見える船体が向かいの家の二階まで達していたというから相当な大きさだ。


港がすぐそばといえ、そんな大きな船が車も通れぬ細い路地を移動できるはずがないことは子供の翔太にも分かった。


だが、船の底が地面を引きずられて上げる地響きのような喧やかましい音が、その間も壁に囲われたような狭い路地中に響き渡っていた。


木の船は目の前の路地を横切って、消えた。


翔太は怖いとも思わず急いでその不思議な船の後を追った。走った。だが腕塚の御堂の所まで来て御堂の陰から船の消えた路地を覗き込んだが、そこには何もなかった。


地面のアスファルトにも木の船底を削ったような跡などなかった。


そこで初めて翔太は怖くなり家まで駆け戻った。その後のことはよく覚えていないという。


ただ、彼の家族の誰もそんな船を引きずるような変な音は聞かなかったそうだ。


〈藤江の話〉


同じく腕塚の近くに住む、藤江ふじえ絵里子えりこという女性の話。彼女は私や翔太の同級生でもある。


その藤江がまだ中学生の頃。


寝苦しかったのかふと夜中に目を覚まし、何となしに二階の自分の部屋の窓から外を見ると。


「コーンコーン」と板か何かを叩くような音が外から聞こえ、何の音かと思って目を凝らした。


すると狭せまい路地の中を西から東に向かって、青白い煙のような塊が猛スピードで駆け抜けたそうである。


彼女の家から見て西というと、ちょうど腕塚のある方角になる。


大きさはちょうど人間くらいだったそうだが、藤江は、「あれは絶対に人やバイクではなかった」と私や翔太、他多くのクラスメイト達の前ではっきりと言った。


松沢屋まつざわやを見た子どもの話〉


長田の中でも海浜地域によく見られる物の一つに、「ジング」という子どもの遊びがある。


最近の子どもの中にはこの遊びを知らない子も多いそうだ。


つい20〜30年前までは駒ヶ林こまがばやし町や駒ヶ林南こまがばやしみなみ町、南駒栄みなみこまえ町、苅藻島かるもじま町などの長田の海に面した町の子ども達は数人集まると必ずと言っていいほどよく遊んだのだから、これも生活における時代の変化のひとつなのだろう。


「ジング」という名については、私の祖母など地元の年長者は「神功」と書いて、「三韓征伐さんかんせいばつから帰ってきた神功皇后じんぐうこうごうが駒ヶ林に寄港された故事に由来する」と子ども達に教えるのだが、私の調べでは明治より前は「陣攻」と書いていたから、これは後者が正しく、遊びの中身もまたその字の通り変哲のない「陣取り合戦」である。


「ジング」を「神功」とあて始めたのは昭和になってからのことらしい。


今から20年ほど前、私の友人の弟が何人か学校の友達と集まってその「ジング」をすることになった。彼(弟)が小学生の頃の事である。


彼と一緒の陣地になった小野おの真斗まさとという男の子が、おもちゃの銃を手に陣地を守っている敵の子供たちを迂回して避け、敵陣を背後から攻めようとした。


この遊びでは自軍の陣地に空き缶などの目印を置き、それを蹴ったり奪われたりしたほうが負けになり、地域ごとに多少のルールの相違がある。


真斗まさとはこの陣地を後ろから攻める、いわゆる奇襲攻撃を考えたのだろう。このときは全員がばらばらに行動していたので、彼はひとりだった。


いまは市営地下鉄の駒ヶ林駅の入口がある辺りから路地裏に入って、駐車場のフェンスに沿って左に曲がった。


しばらく小走りに走ってから彼はふと、自分が全く知らない所をうろついていることに気付いた。


以前に何度も通ったことのある道である。迷うことなど到底考えられなかったが、現に真斗は見ず知らずの路地をきょろきょろしながら歩いていたのだった。


何となく、先程までとは路地の雰囲気も違う。「スナックるな」というはじめて見る看板があった。路地に掛かった小さなアーチ状の白地の看板に紫色の字でそう書かれていたそうだ。


その看板の下をくぐると、どこからともなく酢のような刺激臭が漂ってきた。かなり嫌な鼻の奥の粘膜が痛いほどの臭いだったというが、真斗そのまま路地を真っ直ぐ進んだ。


臭いの正体は、ある家の排気口から溢れている白い湯気だった。真っ白な湯気がまるで火事の煙のように立ち昇っていたそうである。


その酢の臭いのする湯気のカーテンを抜けなければ道の向こう側には出られなかったため、真斗はさすがに無理だと思って元来た道を引き返した。


そのあとは仲間とジングを続けたそうだが、後日、彼が路地で迷った話をするとそれを聞いた子ども達が本当の話か疑ったので、彼らは真斗を先頭にしてその路地を調べることにした。


だが真斗の見たというスナックの看板も、酢の臭いのする家も見つけることが出来なかった。その話をそのとき真斗と一緒に遊んでいた私の友人の弟から聞いた彼(私の友人)の祖母が、「それは松沢屋まつざわやだ」と言った。


友人の祖母の話では95年の震災までその路地にあった、酢飯を作る家業をしていた古い家で、今はもう無いということだった。


この話は震災よりずっと後のことである。


彼が見たのが本当に松沢屋だったのかは今も分からない。


また友人の祖母は、「スナックるな」の名前は知らないと言っているそうである。


駒ヶ林こまがばやし神功皇后じんぐうこうごうの話〉


長田の最南部の町のひとつ駒ヶ林の名は「平家物語」にも見ることができる。


長田区とは湊川の歴史を共有する中央区に建つ生田いくた神社境内の古戦場跡から西に、長田の駒ヶ林、さらに市を越えて明石の浜までが古代の源平合戦の戦場であった。


平家の武将たいらの忠度ただのりは今はもう無い駒ヶ林の砂浜で討ち取られたのだと、古くから言い伝えられている。


その駒ヶ林の名の由来は遠い昔、神功皇后じんぐうこうごうを乗せた船が長田の浜に停泊した伝承による。


その伝承とは次のようなものだ。


三韓征伐の後、神功皇后の船は難波なにわの津つを目指す航海の途中で、船がそれ以上進まなくなった。そこで神にお伺いを立てた。


すると神が現れ、「我を長田の鶏の鳴く里にまつれ」とのたまった。この神は事代主コトシロヌシである。


神功皇后は山背やましろの根子ねこの娘の長媛ながひめを長田に遣わせ、事代主の命に従って、鶏の鳴く森にやしろを建てた。


この社が長田神社である。


だから長田神社の氏子は鶏肉を食べないし、その境内には最近まで鶏が飼われていた。外国人に「チキンテンプル」と呼ばれたのはこのためである。


その後、朝鮮(高麗こま)から帰国する船はこの故事にあやかって長田の浜に帰港するようになり、その無数に屹立きつりつする帆柱の影が林に見えたことから駒ヶ林と呼ぶようになった。


実際、駒ヶ林は朝鮮からの朝貢船が頻しきりに訪れていた頃はこの国で唯一の船舶所であり、そのため遊女も多かったそうである。


だが駒ヶ林の名の本当の由来は、浜に陣地を築いた平氏が若い馬こまを浜の松林に繋いだからとも伝えられている。


〈御船伝説と神功皇后〉


朝鮮半島から帰国された神功皇后が今の駒ヶ林に寄港された故事には続きがあって、それはこのようなものだ。


神功皇后を乗せた船は長田の苅藻川かるもがわを遡さかのぼり、ある岸で船を泊めると、今の長田区役所のある辺りにあったとされる小さな森にその船具や黄金の船を埋めたという。


これは荒唐無稽な伝説の域を出ないが、今でもその辺りを「御船みふね通り」と言っている。


馬屋うまやばばの話〉


戦後すぐの事。私の祖母の故郷は岡山で、勝間田かつまだという村から長田に嫁いできた。


ある日、その私の祖母は産気づき、初産だったこともあって非常な難産となった。半日以上も苦しんでいたのいとも容易く助けたのが、「馬屋の婆」という産婆だった。


この産婆のことは長田の年長者、特に南部の年長者の間では今も鮮明に記憶され、折に触れて語られている。


馬屋うまやばば」という渾名あだなは、まだ戦後間もない頃、奇跡的に焼け残った腕塚堂の側そばにあったという元々馬小屋だった粗末な小屋に住んでいたことに由来すると、当時を知る年長者らは口を揃えて語る。


苗字は横田というそうだが、縄田だ、川田だと言う人もいるからはっきりとしたことは分からない。


ただ話によると、もとは須磨の塩谷に住んでいたことは確かなようだ。


私の祖母がその難産の苦痛で呻いていた時、すでに結婚して近所に住んでいた祖父の妹の満子みちこがその馬小屋に遣わされて、やがてひとりの老婆の手を引き引き急いで帰って来た。


馬屋の婆は苦しんでいる私の祖母を見ると、休憩もそこそこに、おもむろに着物の懐から何かを取り出した。その取り出したふたつのものを、大きな腹で横たわって呻いている祖母の頭の上で叩き合わせ、「カチカチ」と鳴らしたそうだ。


祖母はこのときぼんやりする頭で、その婆の姿が金色に輝く大日如来だいにちにょらいに見えたと今でも折に触れて言う。


「お迎えが来はった」と祖母が思っていると、あれだけ難産だったのが嘘のようにあっという間に子どもが産まれた。祖父や満子も驚くほど簡単に産まれたそうだ。


馬屋の婆は祖父から謝礼を貰うと、すぐに帰って行った。このとき生まれたのが私の父の兄である。


その後も婆は半ば奇跡のような事を度々起こした。そのため長田の人々は婆を、天平年間に長田を訪れて蓮池と呼ばれる溜池を作らせたと伝わる仏僧行基ぎょうきの末裔だと噂した。


また、あの「カチカチ」と鳴らす不思議なまじない・・・・で死者まで生き返らせたという噂までたった。もっとも本当に生き返ったのは噂とは全く異なる別人だったそうだ。


そうした馬屋の婆の奇跡とされる数え切れない業わざの中で、長田の人々にとって今も忘れ難いのがあの浜での祈祷である。


ある日照りが続いた年の事。


馬屋の婆はその奇跡のような業わざを頼られて、人々から雨を降らすことを乞われた。雨乞いを頼まれたのである。


漁村として栄えた駒ヶ林の生活の糧でもある長田の海は、何週間も日照りが続いたせいで水温が上昇し、半ば湯のようになっていた。


魚が大量に死んで異臭を放ち、見たこともない赤みがかった黄緑色の藻が海一面に繁殖した。それに脚を取られた鳥が死んで、毎日何羽も浜に打ち上げられた。


「臭いなんてもんとちゃう、(海が)地獄の沼みたいやった」


私に昔の長田のことを色々聞かせてくれた当時現役の漁師だった翔太の祖父は、その時の惨状をそう例える。


この話をしてくれた時の翔太の祖父の思い出すのも嫌そうな表情と、時折どもる重たい口調が、私には酷く印象的だった。


その翔太の祖父曰く、船を出すとその悪い藻がエンジンの冷却のために取り込まれた海水と一緒に機関部に侵入し、船を内側から駄目にするため、漁協は漁船を出せなくなったそうだ。


船を出さなければ当然漁は出来ない。働くことが出来ない。当時、漁業は壊滅状態に陥った。政府や市、行政からの補償もほとんど出なかったそうだ。


そこで馬屋の婆に皆がすがった。他に頼れるものがなかったのである。


行基の伝説の中には高取山での雨乞いがあったから、当時の長田の人々が婆に行基を重ねていた事もあったのかも知れない。


馬屋の婆は真夏の浜で長い祈祷をした。その後、懐から取り出したあのふたつの骨のようなものを、波立つ水面に向かって放り投げた。


すると、どこからともなく真上の空に雲が集まり始めたのである。


ものの五分もしないうちに本当に小雨が降り出し、それはあっという間に土砂降りの豪雨に変わったそうだ。


この三日三晩続いた大雨で長田の中部では新湊川の一部が氾濫し、国道2号線より北、長田神社より南の地域の家は尽ことごとく床下まで水没した。


大勢が浜で降り出した雨を喜んでいた時、誰かが叫んだ。私の祖母が声のした方を見ると、馬屋の婆は波打ち際で蹲うずくまるような姿勢で死んでいたそうである。


祖母は婆のことを「大日さん」と呼ぶ。


今でも長田の年長者に聞けば、この時の話をもっと仔細にしてくれる。


高取たかとり教会のキリスト像の話〉


長田のほぼ西端、海運町に「たかとり教会(旧称・高取教会)」はある。昭和2年に建てられたカトリックの教会である。


大震災の際、この海運町の古い教会も被災した。地震による倒壊は免れたが火災に見舞われたのである。


聖堂に火の手が迫り、ついには聖堂を飲み込んだ。その先には教会の中庭があり、両手を広げたキリスト像が立っている。ベトナムから送られた像である。


この教会は土地柄、ベトナム人の信徒が今も多い。彼らから送られた像であった。


火の勢いはいや増すばかりである。


その信徒たちの見守る目の前で、火は歩みを止めた。大きく腕を広げたキリスト像のちょうど背後で、火の手が止まったのである。


「奇跡だ」誰かが言った。誰もが同じように思ったそうである。火はそれ以上広がらなかった。


この時海運町を襲った火災の爪痕は、高取教会のすぐ北側にある大国だいこく公園のクスノキに焼け跡として残っている。


そのキリスト像は今も高取教会の中庭に立ち続けている。


高取山たかとりさんと洪水伝説の話〉


六甲山系に連なる高取山は長田と須磨にまたがる標高328メートルの山である。


山頂には高取神社があり、三韓征伐より帰国した神功皇后が駒ヶ林の浜に降り立った折り、この山を霊地と定められたという故事がその起源である。


古くは神撫山かんなでさんと呼ばれていたようだから、私などは古代の山岳信仰がその信仰のルーツであると思っている。


祭神は武甕槌たけみかづち豊受姫とようけひめで、これも神功皇后が直々に祀られたのだと高取神社では言っている。


今となっては本当の話かは分からないが、何にせよ、この地は神功皇后にまつわる話が非常に多い。


しかし高取山には神功皇后と何の関わりもなさそうな伝承も存在する。


「高取山」というその呼び名に関するある伝説が、この地には昔から言い伝えられている。それはこのようなものだ。


いつの事か分からないほど遠い昔。


この地域一帯を大洪水が襲った。その際、神撫山も一度水底に沈んでしまった。


水が引くと、生き延びた人々はその山の木々に不思議なものを見つけた。


何かが動いている。それも一つや二つではない。洪水は平地の生き物も山の生き物もすべて攫さらって行ったはずである。


「はて、あれは何だろうか」


人々がその不思議なものに近づいてみると、果たしてそれは蛸たこであった。数え切れぬほどの蛸が海の引いた神撫山に取り残されていたのである。


人々はその蛸を喜んで採った。


その日からその山は高取山たかとりさんと呼ばれるようになった。いつの間にかたこたかに変化したのだろう。


これは所謂いわゆる「起源説きげんせつ」の一種である。


〈あとがき〉


まだ書かねばならない事が山のようにある。


だが今はこれで一旦筆を置くことにする。まだ調査の途中だからである。


これらは単なる覚書に過ぎない。この土地に語り伝えられる物語の一握にも満たないはずだ。


願わくば読者陣はこれらを語りて、


現代人を戦慄せしめよ。

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