第9話 漢、時の経過に遠慮する(なんだ?)

 大慌てでユリウスは握った手を離した。


「すまない、プリムラ……ではない、王女殿下。我が無礼をお許し願いたい」


 つい反射的に差し出された手を取ってしまった。だが相手は王の一族である。己の身分では拝謁するだけでも恐縮至極なところ、直にその御手に触れてしまった。

 急いで畏まっては片膝を地へ着けた。


 くすくす、プリムラ王女が笑っている。くすぐったくなるような愛らしさだ。

 よってユリウスはごついとされる身体をいっそうすくめることとなる。女性が魅惑的な振る舞いを前にすれば怯えてしまう。婚約を三回続けて破棄されたうえ、昨晩に失恋に等しい感情を味わったばかりだ。身分が高いうえに将来もある女性とくれば、現在は距離を置きたい気分へなる。

 だからと言ってぞんざいな態度は取れない。ではこれで、と出来るはずもない。きちんと王女の安全に備え対処しなければいけない。


 もう十年前ではないのだ。

 今や帝国の騎士であり、いちおう伯爵家に名を連ねる。名前だけでなく、ラスボーンの姓を抱いている。

 せめて礼節をもって望もう、と誓えば膝を地面から離せない。


 とんとんと靴音を立てて、プリムラ王女が馬車を降りてくる。まさしくユリウスの目前に立った。


「いやです、そんな他人行儀な感じは。わたくしの命は救っていただいたユリウスさまのものであります。どうぞあの時のようにプリムラとお呼びください」


 いやそれは……、とユリウスの恐縮はさらに深くなる。

 確かに十年前は言った。

 手を強く握って名を告げてきた王女に答えた。


「守りきれるまでの約束できないが、この命尽きるまで力を尽くす。どうか俺を見ていてくれ、プリムラ」


 絶望的な戦いをしていたせいだろう。大胆な物言いをしていた。王女と知りながら、名前の呼び捨てである。今となれば不遜極まるもいいところだ。当時の状況からそこまで気は廻らなかった。でもやっぱり思い出せば、恥ずかしい。ずいぶん格好つけたもんだ、と振り返る次第である。


 そして現在、プリムラが再び手を差し出してくる。


 さすがに今度は気安く取れない。ユリウスは頭を下げる体勢を崩せない。だからといって黙ったままでは不敬に当たるだろう。


「あれから十年も経てば、俺なりに知ったこともある。身分という理が社会に存在して、それを無視したら相手に迷惑がかかることを」


 身分相応とする話し方は今ひとつでも、ちゃんと意思は示せたはずだ。こちら騎士で相手は王女、礼節に反していないはずだ。

 などと思っていたらである。 


「なにを仰いますか。ユリウスさまならば好きにしていいのです、わたくしをさぁ、お手をお取りください。いえ手に限らずいっそ、わたくしの……」


 あれ? となってユリウスが顔を上げたらだ。

 春の妖精が顔を蒸気させている。伸ばす腕に止まる様子はない。王女さまだよな、とちらり疑念が過ぎるほど下品な迫力を湛えていた。

 筋骨逞しい戦士であるほうが、なにやら喰われそうな勢いである。


 救いは馬車の中から現れた。


「姫さま。はしたない真似はおよしください」


 出てきたメイド姿の侍女はたしなめるだけではない。ぽかんっと後ろからプリムラの輝く黄金の髪まで叩いている。


「いったぁーい、なにすんのよ、ツバキ」


 殴られた頭を押さえるプリムラに対し、侍女は氷がごとき表情を保ったままだ。


「何するもなにも、お立場や状況をお踏まえください。十年ぶりの再会でいきなり殿方へ襲いかかろうなど、まったくイカれてますわ」

「ちょっとぉー、ユリウスさまの前でそういうの、やめてくれない。それにツバキの態度、主に対するそれじゃなーい」

「こっちこそアホなあるじにお仕えする苦労をわかっていただきたいものですわ」


 なにおぉー、とプリムラは反駁しかけて気がついた。


 片膝を着くユリウスが、唖然として見上げている。じっと穴が開くくらい二人を眺めている。


 いけないとばかりにプリムラはわざとらしい咳払いをする。


「申し訳ありません。つい親しき仲なれば、殿方の目を忘れてみっともない姿をさらしてしまいました。どうか……」


 言葉が途中で切れたのは、ユリウスが大声を上げたからだ。


「もしや、貴女あなたはあのお付きの少女ではないか!」


 ぽんっと音を立ていそうなほど、侍女は真っ赤になった。


「わ、わかりますか。私はあの時、まだ九歳でしたのに」

「わかるとも。あんな惨い修羅場にありながらも顔を伏せることはない勇敢な少女だったからな。そっか、ツバキと言うのか。ずいぶん綺麗になったもんだな」


 しみじみ述懐するユリウスだったが、すぐ尋ねるはめになる。


「どどどどうした、ツバキ。なにか俺はまずいことを言ってしまったか」


 赤い顔を覆う両手の隙間からツバキの声が漏れ出てくる。


「いえ、私なんかをユリウスさまが憶えていてくださったなんて。しかも名前まで呼ばれる日がくるなんて……感激が止まりません」


 そういうものなのか、と今ひとつピンとこないユリウスは別の気配に気づく。戦士の勘が騒ぎだす類いものだ。身の危険を感じさせる、いわゆる殺気の気配である。

 目を向けたら、春の妖精は消えていた。見えないはずの黒いオーラが漂っているようだ。失礼ながら、悪鬼と表現したい王女が、そこにいた。


「……なによ……なんでツバキがわたくしを差し置いて名前で呼ばれるわけ……」


 取り敢えずユリウスとしてはプリムラへ急いで訴えるしかない。


「ちょ、ちょっと誤解をしないでくれ……いや、しないでください。こちらは騎士の身分で、しかも他国の王女であれば、いくら幼き頃を知ると言ってもだ。侍女と違って名前など呼べるわけないだろ……じゃなくて、呼べません」

「ユリウスさまが名前で呼べない理由は、身分差を気にしているせいということでよろしいでしょうか?」


 こくこくとユリウスは必死にうなずく。


 途端に黒き悪鬼から春の妖精へ戻った。

 ハナナ王国のプリムラ王女は満面に笑みを広げた。全身から輝きさえ放っているかのようだ。


「ユリウスさまはわたくしに対し、身分の差で思いわずらう必要はなくなります」


 そうなのか? と返事するユリウスはきょとんとしていた。いったい何をどうしたらこの問題が解消させられるのか、皆目見当がつかない。 


 プリムラ王女は一呼吸を置く。ちょっと恥じらうように告げてくる。


「わたくしはラスボーンをファミリーネームとするためにやってまいりました」


 がしゃり、大剣が動く音がした。持ち主が乱暴に柄を握り締めたせいだ。

 今度はユリウスがなにやら雰囲気を一変される番だった。

 許せんな、とする謎の呟きをもって剛勇そのものとする身体を立ち上げた。

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