「やってきたんですけど、家に忘れました!」
梅雨に入ってからというものの、ジメジメとした暑さが連日続いていた。
今日も雨模様で天気アプリでは午後には止むだが止まないだとか言っていた。
天井に設置された大きなエアコンは、騒々しいまでの音を立てて働いていることを主張しているけど、効いている気はしない。まとわりつくような暑さが今日も教室を覆っている。
僕の席は一番窓側の後ろから二番目と、好立地ではあるけれど冷風の死角に違いない。これからは苦しい時期になるんだろうな。
頭から倒れるように腕をついて、机に体重を乗せる。
結局、あの日から山井さんの秘密を知ることはできてない。楽しませることはもっとできてない。
配信で見た一発芸を披露したりしたけど、そういうことではないっぽいし……
笑ってたけどなぁ。いや苦笑だったかあれは。
「もー、こんなんじゃ部活行けないよ〜」
思い返していると、安住さんが困った調子の声が聞こえてきた。
ツイッターのタイムラインをなぞりながらちらと確認すると、机の上に置いた鏡を覗いて前髪の調子を確認しているらしい。
安住さんの席は2つ横の中央列で、縦は僕より1つ前の列。
前を向くと目に入らないことはないくらいの間隔で、なんとなく気になってしまいがちだ。
というか、これから三時間目が始まるくらいなのに、放課後の心配するの? 早くない?
そんな安住さんにはまだ僕の趣味はバレていない。それは、山井さんが内緒にしてくれているから。
でもそれもいつまでになるか。1ヶ月以上経ってあの事件の鮮度が落ちてたとしてもVtuber、しかもヘーゼルちゃんを見ていたことは知られてほしくない。
ヘーゼルちゃんって清楚系アイドルで売ってるからなぁ。やっぱりガチなオタク感がすごくなってしまう。
好きなものでも、いや本当に好きなものだからこそ他の人に言えないようなこともあるんだと思う。ーーもうあんな思いはしたくないから。
僕が楽しむことができるならそれで、それでいいんだ。うん。
あ、ヘーゼルちゃんのイラストだ。かわいい。いいねぽちー。
ともかく。
安住さんにはいいところだけを見せないといけないんだ。でも、相変わらず山井さんがどんな人かってイマイチわからないのがなぁ。
なんて考えを巡らせたりしていると、突然背筋がゾクリとした感覚に襲われた。
そして直感は正しく、教室の前扉が開け放たれた。
「すみませんすみません。今すぐ席に戻りますので!」
背中を押されるようにして入ってきたのは、お調子者の梶原くんだった。
その身体を押しているのは、我らが一年C組の数学を担当する鬼瓦先生だ。
鬼瓦先生は出席簿を脇に挟み、ポケットに手を突っ込んだ状態で言う。
「御託はいいからさっさと入れ。もう授業時間になるぞ」
梶原くんが戦々恐々といった様子で自分の席へと戻らされていく。外で先生に鉢合わせてしまったのだろうか。
鬼瓦先生が顧問を務める水泳部の一員だからか、良くも悪くも目を付けられやすいんだろう。
聞くところによると、水泳部では鬼のような訓練が毎日行われているらしい。なんやかんやで部活に入らなかった僕からしたら全く未知の世界だ。怖い。
そして先生の言葉通り、授業開始を知らせる鐘が鳴り、授業が開始となった。
いつもだったら開始直前まで他の人の席に行ったりしているクラスの人も、数学の授業前においては準備が早い。
既に全員が着席し、静かに授業の開始を待っていた。
横目に見えたけど、あの安住さんですら机の上が綺麗にしている。何一つない。
え? 筆箱ノートその他は?
「よし。授業を始める。号令!」
起立。気を付け。礼。
この授業のときだけ毎回気分は軍隊だ。きびきびと動く。逆らったら何があるかわかったもんじゃない。
「さて、まずは課題の答え合わせからだな。――ああ、そうだ」
思い出したかのように先生が呟いた。
「今日はあいにくの天気だがな、午後からは雨が止むそうだ。お前たち良かったな。今日は
暑いが水泳ができるぞ」
先生は満面の笑みでそんな情報を教えてくれる。それ自体はありがたいけど、笑顔まで圧を感じて怖い。僕が勝手に思っているだけ?
水泳部の顧問として耳よりな情報を教えてくれたらしい。前方の席にいる梶原くんは、より肩の力が入ったように見えるけどね。
咳払いを挟むと、授業は改めて始まった。先生が黒板に図を書いていく。
ここばかりは睡眠をかましたりだとか、早弁をしたりだとかは絶対に禁止事項だ。
鬼瓦先生は時代と戦うスパルタ教師で、熱血指導が有名だ。
不真面目な態度なんてとった暁には教育的指導が待っている。具体的にはバケツを持って廊下に立たされる。
この前梶原くんが授業が終わるまで外に立たされていた。嘘のような本当の話。
嫌でもペンを持つ手に力が入る。
そうこう考えている内に授業は進んでいく。
「じゃあ次。杉田。この問題の答えは? 書いてみろ」
「はい」
ドスの効いた声が、また一人を黒板という処刑台へと誘う。
チョークの線は緊張と解答への自信の無さで悩む本人の心情が表れているようだった。
その横で鬼瓦先生は静かに見守っている。仁王立ちで。
とても、課題の答え合わせが行われている時間だとは思えない。びっくりだろう。
先生が手元の教科書と黒板の解答とを見比べる間、杉田くんは逃げ出そうにも逃げ出せず、ひたすらに宣告を待っている。
クラスを静寂が包み、閉められたはず窓の外からは空気の読めないカラスの鳴き声が響いてよく聞こえるのだった……
「よし。正解」
先生の放ったその言葉で、張りつめていた教室の空気が弛緩する。
そうして杉田くんは粛々と自席へと戻っていく。
ちらりと見えた横顔は、奥底に喜びがを感じ取れた。よかった。本当によかった……
解放された杉田くんとは裏腹に、次の生徒は気が気ではないだろう。今日は先生の真ん前、中央列が前から当たっていくルールらしい。
杉田くんが当たったから次は――ん?
人選を流し見たとき、奇妙なものが映った気がした。正確には何か足りないような。再度、今度は目を凝らす。
やっぱり一人、明らかに頭の高さがおかしい人がいる! ほぼ机と同じ高さをしている。
その人は明るい茶色の髪の毛をしていた。最近目にする機会の増えた髪色、もちろん安住さんだ。
安住さんが、爆睡してる!
まずいまずい。
後ろの方の席なのも相まってまだ先生にはバレていないようだ。
けれど、前の席から指名されているから死へのカウントダウンは着実に進んでいる。
椅子が引かれ地面と擦れる音がした。
今、席に戻ったのはもう安住さんの2つ前の席の人だ。
つまり次に呼ばれる人、安住さんの前の席の人が席を立った時点でバレる可能性はぐんと上がる。
足を組み換えてる場合じゃないよ! 早く起きて!
僕の願いも虚しく次の指名がやって来た。
「次。隅田。前に出ろ」
安住さんの前に座る隅田くんが肩を震わせる。
しかし、隅田くんは前に出ない。聞こえてるよね?
「隅田?」
先生がもう一度呼び掛けるも、隅田くんは黒板へと向かわない。どうしちゃったんだ。
同じように考えたクラスメイトたちの視線が隅田くんに集まる。でも座ったまま。
不思議に思った先生が何かを言おうと口を開けた瞬間。
隅田くんの座る椅子が大きく音を立てた。勢いよく立ち上がったからだ。
そして、意を決したように言う。
「……先生。課題はやってきたんですけど、家に忘れました!」
途端、誰もが言葉を失った。
鬼瓦先生はその言葉の意味を理解すると、眉間に力を入れる。
やばい、来る。
「隅田ぁ!」
「は、はい!」
体育の教師とも見間違えられるほどの鍛えられた肉体から怒号が放たれた。
隅田くんは身を震わせる。振り絞っただろう応答は掠れていた。
どうしてそんな言い訳みたいなことを!
当然、先生は激昂する。
「嘘をつくな! 俺はつまらない言い訳が一番嫌いなんだ!」
先生の怒りは止まらない。クラスの誰もが気の毒そうな目で梶原を見つめていた。
隅田くんは身体を硬直させ、先生の暴圧に耐える。ただひたすらに耐えている。
しかし怒りのボルテージは収まらない。先生は教室から出て行く。やがて教室へ戻って来ると先生はアレを持っていた。
先生は2つのバケツを手渡した。どちらもいっぱいに水が入ったもの。
生徒が曲がったことや取り繕ったようなことを言うと、そうやって反省を促す。
前に梶原くんもそうやって立たされて、授業が終わるまで帰ってこなかった。あのときは水泳部だからだと思ったけど、他の生徒だからといって遠慮はないらしい。
「隅田、もういい。廊下に立っていろ」
「……はい」
「返事が小さい!」
「は、はい!」
隅田くんはなんとか返事をして、教室を出て行った。両手に持つバケツの水を溢さないようにして。
見送った先生は扉を閉めると、腕時計を一瞥し溜息をつく。
「全く、けしからんな。……あとは答えを書くから各々確認しておくこと」
そうして授業は再開された。
3時間目の終了までの残り40分間、隅田くんが教室に戻ってくることはなかった。
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