つりびと
裏山かぼす
本文
暖かくも寒くも無い、白いような黒いような、ただ安息だけが存在する世界を見渡していたような気がする。もしかしたら、目を閉じていて、何も見ていなかったかもしれない。浮いているような、沈んでいるような、五感全てが曖昧な感覚で、意識も同じく曖昧だったため、本当にそんな風に感じていたのかは、実のところよくわからない。
ただ、そんなところに一人で居たような気がするのに、俺はいつの間にか、群青色の草と銀色の小さな花で埋め尽くされているところに大の字になって、ロゼワインのような色をした空を眺めていた。太陽か月かわからないが、どちらにも該当しない、例えるなら電球のような光を放つ若葉色の星が一つと、俺の知っているものと同じ白い雲が、薄っぺらくなってゆっくりと動いていた。背中にじんわりと冷たさを伝えてくる地面は真っ黒で、腐葉土みたいだと思った。
ゆっくりと起き上がって、辺りを見渡してみる。右には、地平線まで続く、青い葉っぱに白い幹をした木が群生している森が。左には、紫がかった赤の、ワイン色の海のようなものが広がっていた。砂浜の砂は白かったが、空にぶら下がる星の光の影響か、やや緑っぽい色に見えた。
しばらくはっきりしない意識の中でそれを眺めて、「ああ、夢か」と呟いた。こんな非現実的な光景を見るなんて、夢以外ありえないだろう。
ただ、寝る前に何をしていたかは、覚えていない。思い出そうとすると、ふと、自分が何者であるかということすら覚えていないことに気がついた。どの会社に勤めていたか、どんな家族構成だったか、そして、自分のすら、覚えていなかった。
最初は焦ったが、やがて、どうでもいいと感じるようになってきた。何故だかはわからないが、初めからそう思っていたような気もする。
「おや、こんなところに居ましたか」
「いたのー!」
誰かに声をかけられる。後ろだ。
振り返ってみると、知らない人間が立っていた。肩にチンチラのような、ネズミのような、よくわからない生き物を乗せている。サイズが合ってないんじゃないかと思うような大きなローブを着て、フードを目元まで深く被っている。黒い手袋は、皮素材のような質感だ。その服に反比例するような白い髪をフードの隙間から胸元に流していることから、髪は結構長いようだ。右手には緑色の装丁の、分厚い本を持っている。体型からしても、声からしても、性別を判別することは出来なかった。
「ようやく見つけましたよ」
「みつけたのー!」
どうやら、後者の声は、チンチラモドキの声だったようだ。
黒い人は、手に持った分厚い本をパラパラとめくると、抑揚の無い声でつらつらと述べる。
「名前は霧島柊、二十八歳。日本の静岡県生まれ。誕生日は七月十日。血液型はO型。家族構成は父親・母親・姉の四人家族。現在は東京で一人暮らし。九月二十三日、午前二時十三分に……いや、これは言わないでおきましょう」
「おくのー」
霧島柊。きりしましゅう。それは、俺の名前だ。
黒ローブから言われて、ようやく思い出すことが出来た。そしてそれをきっかけに、ある程度自分の事を思い出せた。酒はあまり強くないこととか、趣味はツーリングだとか、ベヤングが好きだとか、そういうどうでもいいことばかりだったが。
「私はあなたの
「なのー」
「さて、これからどうしますか?」
「するのー?」
……とりあえず、何を言っているのかサッパリだった。
どうやら、この人と生き物は、俺の事を一方的に知っているようだ。思い出せないのに、俺の名前やら経歴を知っている。ただ、ガイドだのパートナーというのは、一体どういう意味なのだろうか。
「……ええと、とりあえず、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「名前はありません。ご自由に呼んでください」
「よぶのー」
「……」
さて、どうしたものか。
彼等は俺の事をしっているようだが、正直胡散臭い。得体の知れない他人に、よくわからない喋る生き物。端から見たら怪しい。怪しすぎる。
普段だったら、絶対に着いて行かないだろう。だが、どうせこれは夢だ。夢だったら、はっちゃけてもいいだろう。
「じゃあガイドさん、パートナーさん、ここはどこだ?」
「ここは常世でも常夜でもあり、どちらでもない世界。言わば、狭間の世界とでも言いましょうか」
「ますのー」
「なんじゃそりゃ」
ますますよくわからない。
「……常世は生きる者の世界、常夜は死する者の世界ですよ」
「俺何も言ってないけど」
「顔に出てましたから」
ここは本当に、何なのだろうか。ファンタジー世界か何かだろうか。
どうやら、こんな夢を見れるという事は、俺は結構な想像力を持っていたようだ。
「さて、どちらに向かわれますか?」
「いくのー?」
「いや、そんな事言われても……」
どこへ向かうか、と問われても、さっき目が覚めたばかりだし、詳しい場所もわからないし、一体どうすればいいのだろうか。
「ここは常世でも常夜でもあり、どちらでもない世界。誰にでも来る事のできる世界ですが、あなたにしか来ることのできない世界。あなたが強く願えば、それは現実になります」
「すごいのー!」
「えっ、それマジ?」
「マジです」
「マジなのー」
なんだか、慣れたら結構、こいつらも付き合いやすそうな気がする。
ガイドさんは物凄く真面目で堅苦しそうだが、今の返しからしてみて、割とノリがいいのかもしれない。
パートナーとかいう生き物は……若干喋り方がうざいが、木霊みたいなものだと思えばスルーできなくもない。
しかし、見たことがあるような気がするのは、何故だろうか。
……多分、気のせいだろう。
「この世界は、意志の強さが全てです。あなたが強く願えば、空を飛ぶことも、魔法を使うことも、人を殺すことも出来ます」
「できるのー!」
「最後の物騒だなおい」
「事実ですから」
「なのー」
試しに、自分が空を飛んでいる姿を想像してみる。肌に当たる風、空気の薄さによる息苦しさ、下がっていく気温。出来る限り鮮明に、克明に。
ふと、体が軽くなる。重力から開放されたような、そんな軽さ。
「地面を蹴ってみてください。今なら、飛べるはずですよ?」
「はずなのー!」
言われたとおりに、ジャンプする。軽く、本当に軽くジャンプしてみただけだったが、それこそ魔法のように体が宙に浮いた。
それと同時に、パートナーが俺へ飛び移ってくる。丁度胸元に着地し、素早く頭の上へよじ登った。
「わ、わっ!? こ、これ降りる時どうすんの!?」
「『じめんにおりたい』って、そーぞーすればいいのー!」
きゃーゆれるのー! とのん気に楽しんでいるパートナーを恨めしく思いつつ、あまりのバランスの取れなさに、イメージすることに集中できなかった。
空中で、まるで水の中に放り込まれたアリのように無様にもがいていると、ガイドが音も無くそばに来て助けてくれた。
「全く、世話の焼ける人ですね」
「あ、ありがと」
ガイドの手を借りて、ようやく、プールで立ち泳ぎをするようにバランスを取れるようになった。
上から見た景色は、不思議な光景だったが、絶景だった。
果てしなく続く海。反対側の、広大な森。森の向こうには高い山と、その麓にはかなり広範囲に建物らしきものがある。森と山の境目には、細長く白ワイン色の流れがあった。
「なあ、あれって、川?」
指を刺して、ガイドに聞いてみる。吹き抜ける風でフードが取れそうになっているのか、必死にそれを押さえつけながら答えてくれた。
「ええ、あなたがそう思うなら、そうでしょう」
「なんだよそれ」
「見た目だけの固定概念に縛られないのなら、あれは海でも、湖でも、池でも、沼でも、下水でもありますよ」
「……お前、理解者いないだろ」
現実にいるのなら、絶対にコミュニティ障害だろうと誰しもが思いそうなガイドは置いといて、、とりあえず『川』だと仮定しておくことにした。
そこまで飛んで、『川』のほとりに降りた。水は澄んでいるが、魚はおろか、生き物の気配はまるでなかった。少し触ってみようと思ったが、何だか嫌な予感がして、やめた。
「なあ、もしあの川を渡ったら、どうなるんだ?」
「この世界を夢だと仮定するなら、夢からは覚めるでしょう」
「よし行く」
「そくとうなのー」
『川』に片足を突っ込もうとしたその直前に、肩を掴まれ引き止められる。
「お待ちください」
「何だよ」
「この世界を夢だと仮定するなら、夢からは覚めるでしょう。ですが、それと同時に、あなたは死にますよ」
「しぬのー!」
「……は?」
こいつは一体、何を言っているのだろうか。
確かに嫌な感じはしたが、正直返答に困る。
そもそも、夢なんだから死なないだろうと思うのだが、ガイドの口調は(夢だけど)至極真面目で、嘘は言ってない様子だ。
「あなたの知っている言葉で言い表すのなら、あれは三途の川なので。飛び越える分には平気ですが、水に触れたら最後です」
「マジ?」
「マジです」
「マジなのー」
この二人、いや、一人と一匹はどうにも胡散臭いが、どうやら嘘は言っていないようだ。
フードのせいで表情はよく見えないし、生き物の表情はよくわからないが、こいつは嘘をつけるような脳ミソは、多分ないだろう。多分。
「どうするかは、ご自由にどうぞ。ですが、私共は一切責任を負いませんし、負えません」
相変わらず抑揚の無い声。
俺の自由。そうなのだろうが、考えさせられる。例え本当に川を渡ったとしても、こいつらは俺のことを引き止めたりはしないだろう。さっき引き止めたのは、ガイドとしての役目とか、そういうのだろう。
自由って、なんだっけ。もっと楽しいものだったようなイメージがあったのに、こいつの言う自由は、もっと冷たくて、重苦しい。
「全ては、あなたの意思次第なので」
そう、『自分には関係ない』とでもいうような、突き放したものだ。
真の意味での自由って、こんなものだったのか。一人ぼっちと、そう変わらない。
「やめとくわ……夢でもそう脅されると怖いわ」
「左様ですか」
全て、自分の意思。
そう考えると行動するのがとても怖かった。
「あれって、廃墟?」
「ええ、あなたがそう思うのなら」
「いくのー?」
「行ってみるか~」
そこだけまるで切り取られたかのような、現実そっくりの廃墟。空を飛んだ時に見た、山の麓にある建物が、それだった。
ひび割れたアスファルト。力なく横たわる標識。光を灯さない街灯。崩れた建造物。
かつて、人間の手によって繁栄していたであろう、灰色とわずかばかりの緑だけの大地。
瓦礫とガラスの破片が散乱する、荒廃した灰色の街。
なぜかその場所でしか見えない大きな満月が、その場を照らしていた。
「ここ、現実味あるなぁ……」
「そうなのー?」
「だって、ここだけ色が正常だし。まあ……」
非現実的なことには変わりないけどね、と言いかけたが、視界に何かが写った気がした。いきなり現れたような、そんな感じだ。
振り返ってみると、ツタだらけの店だったものの中に、いつの間にか人が寝転んでいた。
「あれって、人?」
話しかけようと駆け寄って、そして、足が止まった。歩く余裕すら、一瞬でなくなった。
何故なら。
「し……んで、る……?」
胸に、心臓のある場所に、包丁が深々と刺さっていたのを見たからだ。
あまりの衝撃に、胃が思い切り荒縄で締め付けられているような痛みに襲われ、胃液が逆流する。
「だいじょーぶなのー?」
頭に乗っているパートナーが心配そうに声をかけてくる。
しかし、口に手を当てようとするのも間に合わず、そのまま体の言うとおりに、胃の中のものを地面にぶちまけた。ついでにパートナーが頭から落ちた。
「いえ、死んでいませんよ」
げえげえと嘔吐する俺の背中をさすりつつ、ガイドがそう言った。
「で、でもっ、心臓に包丁が……」
「死んでいません。ですが、生きてもいません」
「そっ、それって、そういうこと?」
胃液と唾液が混ざったものが、口からだらだらと流れてくる。少し落ち着いてきて、ようやくそれに気がついた。とりあえず服のすそでぬぐっておいた。
「今のあなたと、同じ状態ですよ」
答えは、耳を疑うようなものだった。
ガイドに聞き返そうとしたが、そうする隙を与えず、ぶつぶつと独り言を呟き始めていた。
「ふむ……金剛正義、三十三歳。幼い頃に両親を亡くし、祖母の家に引き取られた経歴を持つ。現在はアルバイトで生計を立てつつ、小説家になる夢を追いかけ執筆活動を続けていた、か」
右手で俺の背中をさすりながら、膝の上に乗せた本を、左手でページをめくる。
本を覗き込んでみたが、文字は何も書かれていなかった。どうやら、俺には見えないようだ。個人情報流出とか、そういう観点からだろうか。夢の中なのに、やけにセキュリティーが強い。
「どうやら、胸に包丁が刺さっているのは、恋愛関係のもつれで、相手に刺されてしまったからのようですね」
「はぁ!? は、早く救急車! あっ、でもこの世界に病院とかってあんの!?」
「おちつくのー」
腕をよじ登ってきたパートナーが、慌てる俺の頬を、短い手でぺちぺちと叩いた。
ガイドは俺の様子を見て、もう大丈夫そうだと判断したのか、背中をさするのをやめて立ち上がった。
「もうすぐ担当の者がやってきます」
そう言うや否や、ガイドの隣の景色が歪んだ。
宇宙のような空間が広がって、そして、黒フードがひょっこりと出てきた。
ガイドとほとんど同じ外見だが、本が青いのと、髪が金色だった。
「お疲れ様です」
「でーっす」
どこかのチャラい青年のような口調で、ガイドとは正反対のような印象だった。
「早く連れて行ってください」
「ウィーッス」
チャラフードは本を開くと、とんとん、とあるページを叩いた。
すると、まるで最初から何もいなかったかのように、音もなく正義の体が消滅した。
瞬きをしたら、さっきまであったものがなくなっていたような、そんな消え方だった。
「元の次元に戻っただけですよ。狭間の世界は、人の意思の数だけありますから」
「……は?」
「じげんがちがうのー」
「……あいつが無事なら、いいんだけどな」
とりあえず、もう深いことを考えないことにした。
考えれば考えるだけ、わからなくなるような気がした。
少し休んだ後、山へ飛んで行った。木の葉っぱが紫色をしているな、と思っていたが、よく見たらそれは花びらだった。
「これ、桜?」
「あなたが思うなら、そうですよ」
「お前本当そればっかだな」
そう、桜がそのまま紫色になったような、そんな不思議な木だった。
そして、もう一つ不思議なものがあった。
「しっかし、ここ、なんでこんなにてるてる坊主が多いんだ?」
「てるてるー」
木の枝に、ちょうど人間サイズのてるてる坊主が吊るされているのだ。しかも妙なことに、顔の部分に、鏡がつけられている。
「それは、あなたの心理状態に由来しますよ」
「……まぁーさかとは思うけど」
「そのまさかですよ」
俺の後ろを飛びながら、淡々と答えた。
「この世界は、あなたの心の世界みたいなものですから」
「まー夢だしなー」
「ゆめじゃないのー」
パートナーが尻尾を振りながら、のほほんとした声を適当に聞き流してしばらく飛んでいると、小さな小屋を見つけた。黒いトタン屋根の、赤黒い壁の小屋だ。
「お、何か発見。突撃―」
「とつげきなのー!」
小屋の前で降り、ホラー作品に出て来そうな古ぼけたドアを開けようとする。
「少々お待ちを」
ガイドとしての役目かな、と思い、言うとおりにドアを開けるのをやめた。
あの分厚い緑の本をローブの中から取り出して、ページをめくっていく。
そして、そこでふと、あることに気づいた。
左手の薬指に、銀色に光るものがついている。
指輪だ。ついている場所からして、結婚指輪だろうか。
しかし、どうにも見覚えがある。どこで見たのかは覚えていないが、物凄く見覚えがある。
「きになるのー?」
「えっ?」
「ゆびわー」
「あ、うん、まあね」
動物らしかぬ、何かたくらんでいそうな表情。
表情豊かだなぁ、このチンチラモドキ。
「それねー、しゅーのゆびにもついてるー」
「マジ!?」
「マジなのー」
慌てて左手を見てみると、パートナーの言うとおり、同じ指輪があった。
……ということは、このガイドとやらは、もしかして俺の……。
「あ、それはないからあんしんするのー」
「俺、何も言ってないけど」
「パートナーだからわかるのー」
どうやらこいつは、俺限定で考えが読めるらしい。プライバシーもへったくれもないやつめ。
「ひとがたのばあいはー、しってるひとにー、にてるときがあるのー」
「へぇ、そういう仕様なのか」
「そうなのー」
そんな会話をしていると、ガイドはようやく調べ物が終わったようだった。
「ここは、一応帰り道ですね」
「帰り道?」
「はい、あなたが生きて帰れる、唯一の道です」
「へぇー」
そこで、ふと疑問がわきあがる。
「なあ、もしここが見つからなかったら、どうなってたんだ?」
「死にます」
「えっ」
「死にます」
「しぬのー」
あまりにもあっさりとした返答に、流石に驚いた。
「いや、その、三途の川渡らなきゃ大丈夫なんじゃないの?」
「時間が経ったら、自動的に死にます」
「……見つけて本当よかった」
心の底から、本当にそう思った。
そして、今度こそドアノブを握り、捻る。引こうとした瞬間、何か重い物がドアにくっついているのか、やけに重かった。
よっこいせぇっ、と勢いをつけて、思いっきり引く。するとようやくドアが開き、小屋の中が光に照らされた。
「なん、だ、これ……」
ドアに括りつけられていたのは、男の死体だった。それも、よく知っている人。
「これ……俺……?」
そう、俺だった。子供が誕生日にプレゼントしてくれた、大切なネクタイで首を吊っている、俺だった。
「はい、あなたです」
感情のない声が、後ろから聞こえた。ガイドの声だ。
「あなたはドアノブにネクタイを結び、首吊り自殺を図ろうとしました」
唐突に、視界が歪んだ。めまいとも違う、何か、不思議な感覚だ。
「会社をクビになり、妻子に逃げられ、世界に絶望したあなたは、自ら命を絶とうとしたのです」
ガイドの声が、エコーがかかったようにわぁんと響く。絵の具を混ぜているかのような視界に吐き気を覚えた。
「この世界は、生きる者の世界でも、死んだ者の世界でもありません」
たまらなくなって、床に倒れこむ。色が混ざって、黒くなっていく。
いつの間にか、頭に乗ってたはずのパートナーは、どこかに消えていた。
「死ぬか、死なないか。それを、自分の意志で決める為の世界です」
段々意識が保てなくなってくる。終いには、指一本すら動かせなくなっていた。
「帰り道を見つけたという事は……」
ガイドが最後に何かを言った気がしたが、それを聞き届ける前に、俺の意識は沈んでしまった。
暖かくも寒くも無い、白いような黒いような、ただ安息だけが存在する世界を見渡していたような気がする。もしかしたら、目を閉じていて、何も見ていなかったかもしれない。浮いているような、沈んでいるような、五感全てが曖昧な感覚で、意識も同じく曖昧だったため、本当にそんな風に感じていたのかは、実のところよくわからない。
ただ、ふと、肌寒さを感じた。そういえば、酒を飲んで熱かったから、上着を脱いでいたような気がする。
そういえば、息が苦しい。なんでだろう。何かしていたっけ?
確か――。
「――ぐっ、ぁっ!?」
自重で首が締め付けられる。首に巻いたネクタイが、ぎりぎりときつく締め上げ、気管と血管を圧迫する。
体が思うように動かない。ネクタイを外そうと手を伸ばすも、震えてまともに動いてはくれない。
引きちぎるようにネクタイを剥ぎ取って、咳き込みながら息を吸う。しばらく脳に血液があまりいかなかったせいか、他の事を考える余裕がなかった。
何度か呼吸を繰り返し、ようやく、何があったのかを判断できるようになった。
そう、確か俺は、自殺しようと首を吊った。全部嫌になって、どうしようもなくて、楽になりたくて、死のうと考えたのだ。
胃が唐突に動き始める。中に入っているものを押し出そうとしている。いけない、酒を飲みすぎたようだ。
急いでトイレに駆け込んで、押し込んでいた内容物を全て吐き出す。胃液とビールと焼酎の混ざった液体を全部吐き出して、そのまま便座に顔を突っ込んだままうなだれた。
何か、変な体験をした気がする。走馬灯でも見たのだろうか?
死ぬ直前って、本当に走馬灯を見るんだなぁ。そんなことを頭の隅でぼんやりと思いながら、首を吊った時の余韻に浸っていた。
何もかもが曖昧になった、あの瞬間を思い出す。五感も、思考も、全てが無くなった、あの時の感覚は――そう、言うなれば、精神の平穏。絶対的な安らぎ。本来の在るべき場所に帰れたという喜び。そして、少しの寂しさ。そんなものが混ざったようなものだった。
幸せという言葉では表せないような、本来なら決して辿り着けない境地を垣間見て、片鱗に触れた、そんな気がした。
絶望感は、いつの間にかなくなっていた。あれほどまでに死にたくてしょうがないという衝動も、何もかもを放り捨てて泣き叫びたいほどの慟哭は、最初から無かったんじゃないかと思うほどに、残滓の欠片もなく、消え去っていた。
多分、気持ち的に、いつでも死ねるとわかったからだろうか。死ぬのは怖いとは思ってたが、死ぬこと自体は怖くなくて、それまでの工程が怖いとわかったから?
確かに物理的に痛かったり苦しかったりはするが、首吊りはそこまででもなかった。それこそ、すとんと眠りに落ちるような感じだった。だからもう、何も怖くないと思っているのだろうか?
それだけではないような気がしたが、いくら考えても、結局どうしてだかはわからなかった。わかった事と言えば、首のうっ血がひどいから、しばらく外出できそうにも無い事。貯蓄があるうちに次の仕事を探す事。今考えると、物事全てが割とどうでもいいと思えるようになった事。その三つだけだった。
リビングに戻り、医者から処方された抗鬱剤と、ボロボロになったネクタイをゴミ箱に捨て、大量の酒ビンとビール缶を台所へと持って行った。自殺の方法について調べていたパソコンの電源を切って、ベッドに倒れこんだ。
もぞもぞと布団を被ろうとしていると、何かがベッドから落ちた。目線だけ向けてみると、嫁が連れて行った子供にプレゼントするはずだった、チンチラだかネズミだかよくわからない生き物のぬいぐるみだった、ものだった。尻尾はちぎれているし、ハサミでずたずたに切り裂いていたため、目も当てられない状態だ。
起きたらこれを片付けないとなぁ、と思いつつ、そのまま頭まで布団を被った。
首吊りやら嘔吐やら今までの事やらで疲れていたのだろう。俺の意識は数分ももたずに、夢の世界へと引きずり込まれて行った。
つりびと 裏山かぼす @urayama_kabosu
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