ある聖女の物語

紗久間 馨

第1話 白髪の聖女

 セレーラ神殿の聖女ヴェラは、中庭を囲む回廊をゆっくりと歩いていく。空にはいくつかの星が輝いている。

 かつて栗色だったヴェラの髪は、すっかり白くなった。

 背筋を伸ばして歩く姿は、周囲に年老いたと感じさせないほど、堂々としている。長く聖女として生きてきたために身に付いた姿勢である。


 儀式用の青色の衣から質素な白色のチュニックに着替え、聖域へと戻るところだ。

 平民が着ているチュニックと形は似ているが、上質な生地で作られているという点で異なる。肌触りがとても良い。

 チュニックの裾は、地面に届かずとも足首を隠している。ヴェラが幼い頃から着てきたものと、ほとんど変わらない。心が休まる服だ。




 ヴェラが聖女に選ばれたのは十八歳の時。それからずっと〈聖女の庭園〉で暮らしてきた。限られた者しか立ち入ることができない閉鎖的な建物だ。

〈聖女の庭園〉の奥にある門は、セレーラという神が住む聖域に繋がっている。

 ヴェラが〈聖女の庭園〉の外に出られるのは、エスタリア地域で行われる春祭の時だけだ。とは言え、儀式のために出るのであって、自由に行動することはできない。


〈聖女の庭園〉は山の中腹に建てられている。斜面が緩やかな低い山だ。

 坂道を下った所に神殿とエスタリア公城があり、さらに下ると公都マティプレドの街が広がる。

 人々が穏やかに暮らすその場所を眺めるたびに、ヴェラは励まされてきた。神に仕えることに意味はあるのだ、と。




 ヴェラの左右には一人ずつ、補佐神官が同じ歩調で足を進める。

 一人は中年の男で、ヴェラの足元を神光石の明かりで照らしている。月のように優しく輝く貴重な石は、聖女のためにしか使われない。

 もう一人は青年の女で、パンの入ったバスケットを抱えている。厨房でヴェラが焼いたパンだ。セレーラのために聖域に持ち帰る。


 この日のパンは儀式で使うパンと一緒に焼いた。

 春祭の最終日、武芸大会の決勝戦が行われる。そこで優勝した騎士に聖女がパンを授ける儀式がある。

 騎士は平穏な世界をもたらした英雄の血を受け継いでいる。鍛錬を重ねる騎士に、神の賞賛を込めたパンが授与される。


 賑やかな街の音が、遠くから聞こえてくる。

 今夜はあちらこちらで宴が開かれる。特に武芸大会で健闘した騎士が大きな宴を催す。

 ヴェラが授けた大きなパンは、その宴で分け合って食べられる。


 幸せな顔でパンを食べる騎士を想像しながら、ヴェラはパンを焼く。いつも真っ先に思い浮かぶのは、かつてヴェラの作るタルトを好んだ騎士の顔だ。




「アルトル、ちょっと休ませて」とヴェラは回廊のベンチに腰掛けた。

「お疲れになりましたか?」

 アルトルと呼ばれた男の補佐神官が、心配そうに声で尋ねる。

 髪は明るめの金色で、目は濃い青色だ。

 金色の髪も四十歳を過ぎれば、白髪が混ざり始める。その姿はヴェラが愛し、ともに歳を重ねた人を思い出させ、懐かしい気持ちになる。


「ええ、少しだけ。さあ、アルトル、ノイエ、あなたたちも座りなさい」

 ヴェラが弱々しい声で言うと、ノイエはすぐにヴェラの隣に座り、パンのバスケットを膝の上で抱える。一方、アルトルは「いいえ」と首を横に振った。

 ノイエは二十歳を過ぎたばかりの、女の補佐神官だ。

 暗めの金色の髪と、薄い青色の目は、アルトルと似た色のようでいて、少し違う。


「いいから、座って」

 ベンチの空いている方を、ヴェラは手のひらでぽんと叩く。アルトルは敵わないという様子で隣に座った。




「あたし、そろそろ風になるんだと思うわ」

 ヴェラがぽつりとつぶやく。

「そんな・・・・・・。まだお元気そうではありませんか」

 アルトルの声は悲しげに聞こえた。

 聖女が死ぬと風が吹くことから、ヴェラは「風になる」と言った。

「あたし自身のことだもの、わかるわよ。今年の春祭も無事に終わったわ。新しい聖女が来ても、次の春祭までには時間がたっぷりあるから、安心ね」

 命が終わるという話をしているのに、ヴェラは「ふふっ」と柔らかく笑う。

「笑いごとでは、ありませんよ・・・・・・」

 ノイエも苦しげに声を発した。


「あたしが聖女に選ばれた時はね、聖域から出てきたのが春祭の直前だったのよ。儀式の準備をする時間が少なくて、とっても忙しかったわ。セレーラのことだって大変なのに、衣を仕立てたりだとか、立ち居振る舞いを覚えたりだとか、本当に目まぐるしい日々だった」

 過去を振り返りながら、ヴェラは空を見上げて目を細める。


「みんなが支えてくれて、とても幸せだったわ。この場所で良い人生を送ってこられたのは、みんなのおかげよ。感謝してもしきれないわね」

「そんなっ! 寂しいことを言わないでください! わたしは、まだまだヴェラさまと一緒にいたいです!」

 今にも泣き出しそうなノイエの手にヴェラはそっと触れる。

「その時は必ず訪れるのよ。あたしも大切な人たちとお別れしてきたんだもの」

 聖女になったばかりの頃にヴェラを支えた補佐神官も聖騎士も、みんな先に旅立っていった。


「ねえ、アルトル、ノイエ。あたしの昔話を聞いてくれる?」

「ぜひお聞きしたいです。しかし、ここでは寒くありませんか? お部屋に入りましょう」

 アルトルの気遣い方は、彼を教育した人にそっくりだ。

「寒くないわ。ああ、アルトルが寒いのよね? 気づかなくてごめんなさい」

 春になったとはいえ、空気が冷たい日もある。

「いいえ、寒くないです」

「そう? ノイエは?」

「平気です」

「じゃあ、ここで話しましょう。あたしもね、このベンチで昔話を聞いたことがあるのよ」

 若い頃の懐かしい記憶が次々に浮かぶのは、死期が迫っているからなのだろうか。とヴェラは思う。


「あっ! やっぱり待ってください! わたし、マントを取ってきます! ヴェラさまのお体が心配ですから!」

 ノイエは立ち上がり、アルトルにバスケットを押しつけた。長いチュニックの裾をたくし上げて走っていく。

 きっとノイエは泣くのを我慢していたのだろう。不安定に揺れた声がそう思わせた。

「若いわねえ」とヴェラは静かに笑った。




 ノイエは三人分のマントを持って、ゆっくりと戻ってきた。ヴェラがマントを受け取ろうとすると、ノイエは首を横に振る。そして、少しの隙間もないように、しっかりとヴェラにマントを着せた。

 ヴェラが「ありがとう」と言うと、ノイエは「当然のことですから」と涙声で返した。


「聖女はね、神に選ばれるまでは普通の人なのよ。みんな、そうだったわ。誰かの娘だったり、誰かの母だったり・・・・・・」

 ヴェラも聖女になる前は、ただの平民の娘だった。それが急に神に選ばれたのだから、ずいぶんと当惑したものだ。


 次の聖女のために。というのは建前で、命の終わりに昔話をしたくなっただけなのかもしれない。

 ヴェラは「ふっ」と気を抜くように笑った。

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ある聖女の物語 紗久間 馨 @sakuma_kaoru

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