第3話

 全てを話し終えた頃には、窓の向こうで夜の闇が充満していた。


「これが、私があの村で目にしてきた全ての出来事です」


 その言葉を合図に、近藤さんは机の上に置かれていたICレコーダーのスイッチを押した。それからちいさく息を吐き、「お疲れ様でした。凄まじい……話ですね。こんな事が、現実に」とぽつりと口にした。ICレコーダーを手に取り、「録れているか確認しますね」と再びボタンを押した。すると、すぐさまその機械から私の声が放たれた。


『雪が降る日にだけ咲く花を、見たことがありますか?』


 雪忘花。その話をしていたのはどれくらい前だったろうか、とちらりと時計に目をやった。時計の針は午後八時過ぎを差している。途中何度か休憩はとったが、私はあの村で生まれ施設で過ごしてきたこの十八年間を約十時間かけて話したことになる。さすがに疲れた。持ち上げた両手で目を擦っていると、無意識の内にため息が漏れていた。


「疲れましたよね。今日はこれで終わりにしましょう」


 私のその様子を瞬時に悟ったのかソファから立ち上がった拍子に、近藤さんはそう声をかけてきた。


「あ、あの、もう大丈夫ですか? 私はほんとにまだ」


 気を遣わせてしまったと慌てふためく私をみながら近藤さんは右腕を前に突き出し、頬を緩めた。


「新奈さん、大丈夫です。貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。施設の成り立ちやあの村に伝わる言い伝え。そして、雪が降る日に記憶を無くす原因と、別の次元で生きる人々の話。仮に人づてに聞いていたならば、私はどの話も疑ってかかってしまっていたと思います。でも、今回の件に関する全ての当事者であり、その目撃者でもある新奈さんの口から聞けたことで私は信じるに値すると、いやこれまでの状況証拠や新奈さんご自身の仕草や話し方から私は信じざる得ないと判断しました。恐らく記事には三部構成で記載すると思います。その際には、また改めてお電話をさせて頂きたいのですが宜しいですか?」


 問い掛けられ、私はちいさく頷いた。近藤さんは、それを確認するのとほぼ同じくして口元の両端を持ち上げた。それからちらりと窓に目をやり、「では、今日はこれでお帰り頂いて大丈夫です。二人のことも随分長い間待たせてしまったようですから」と私に窓の傍に来るようにと促してくる。ソファから立ち上がり、窓の向こうへと視線を投げた。ビルを出てすぐのところにある道路の路肩には一台の車があり、その車に背を預けながらこちらを見上げている二人の女性がいた。凛花さんと沙羅だ。私に気付くと手を振ってきたので、私も振り返した。


「では、失礼します」


 コートを手に取り、羽織ってから頭を下げた。そのままドアノブを引き、近藤さんの事務所をあとにしようとした時だった。


「新奈さん」


 振り返ると、近藤さんが真剣な眼差しで私をみていた。


「何でしょうか」

「最後に一つだけ聞かせて頂けますか?」

「はい」

「雪が降ると、誰の記憶にも残らない。それは、存在そのものを否定されているのと同じだ。新奈さんご自身もそうおっしゃっていましたが、私もそう思います。会話した内容も、共に過ごした時間を全て忘れられる。それも、一人ではなく全員に。きっと私には想像も出来ないような辛いご経験をされてきたのでしょう。その苦しみや悲しみを抱えたまま、どうやって十八年もの間耐えてこられたのですか?」


 問い掛けられ、答えを導き出そうと記憶の海に手を伸ばした時、頭の中で雪が舞った。空から舞い落ちる雪。白い、ちいさな、真綿のようなそれが空から降る度、私は心の中で叫び声をあげ、怒りを覚え、それからこう思った。死にたい、と。


「私は、耐えてなんかいませんよ」

「耐えて、ない?」


 近藤さん微かに目を見開いた。


「悲しみも孤独も、それから苦しみも。私には全部が重すぎた。だから雪が降る度にこう思ったんです。死にたいって。実際に、実行に移そうとしたこともありました。でも、死にきれなかった」

「はい」

「怖かったんです」

「皆、そうだと思いますよ」

「いえ、私が死ぬ事は大したことじゃありません。それよりも怖かったのは、もし私が死んでしまったら私の大切な人たちが、少なからず私のことを大切に思ってくれている人たちが、傷付き身を引き裂かれるような想いをさせてしまうことが怖かったんです。だから私は、耐えてきたんじゃないです。ただ、皆を悲しませたくなかった。こんな私を、大切に思ってくれた人たちのことを」

「それだけ大切な人たちが新奈さんの周りには沢山いたという事でしょうか?」

「ええ」


 言いながら、心の中だけで私にとってはという言葉を付け加えた。今となっては両親も加えるべきなのかもしれないが、あの施設で孤独に耐えていた当時の私が大切な人を思い浮かべた時、それは三人だった。人からしてみれば少ないのかもしれない。けれど、私からしてみれば十分の人数だ。


 私たちの姉のような存在でありながら、命の恩人とも呼ぶべき凛花さん。この十八年間、私と同じように雪が降ると記憶を忘れ去られるという孤独に耐えながらもずっと寄り添ってくれた湊。そして、物心ついた頃から私を支えてくれた、私が世界で最も愛する女性。沙羅だ。帰ろう、沙羅の元に。


「近藤さん、後は宜しくお願いします。あの施設にいた皆の想いを、命を、決して無駄にしないであげて下さい」

「分かっています。真実を必ず世間に公表します。それが、僕の仕事ですから」


 言い終えて、ふわりと微笑んだ近藤さんの目には深い皺が刻まれた。そして、その瞳には強いひかりが宿っていた。


*

 『世界から忘れ去られた村で行われていた悪魔の所業。製薬会社Sの血塗られた歴史』という見出しの記事が出たのは、それから半年後のことだった。凛花さんが言うには日本の長い歴史でみてもまれにみるような、世界中を震撼させる事件だそうで、記事が出てからは日本中がこの話題で持ち切りなのだという。ワイドショーや週刊誌が連日のように騒ぎ立てる少し前に製薬会社Sの株価は暴落し、世間からの激しい非難を浴びながらもあの疑惑を追及されたS社は後日記者会見を開き、記事に掲載されている件は概ね事実であると経営陣は認めた。


 凛花さんと近藤さんが言うには、この件のことで警察内に捜査本部まで立ち上がった段階であの会社は二度と再起は出来ないだろうとのことだった。こちらと向こう側の世界を繋ぐ穴があった場所は、今では政府職員しか入れない制限指定地域となっており、その近辺や村に咲き乱れていた雪忘花は今や塵一つすら残っていないのだという。


 これで亡くなってしまった子どもたちは少しは報われたのだろうか。記事を手に取りながらそう想いかけて、いやと思う。一度失われてしまった命は、もう二度と戻らない。彼らが向かった先は、この世界ではない別の次元のどこか。私に出来ることはもうほとんどない。あとは、彼らが向こう側の世界で少しでも幸せに生きてくれていることを祈るのみだ。テーブルの上に記事をそっと置き、私は目を閉じた。それから、手を合わせ祈った。

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