第7話
車を停車させて、湊は深く息を吐いた。腕を引き伸ばすようにして身体も伸ばしている。あれから、半日近くも運転していたのだ。当然のことだろう。
「疲れたよね、運転お疲れ様」
そう呼びかけると、湊は、いえ、と首を横に振り、「少し考え事をしていました」と窓の向こうに目をやった。既に夜の帳は降りており、辺りは真っ暗だったが、目の前にそびえ立つ病院がとてつもなく大きな建物だということは分かる。私達はある病院の駐車場にいた。
「考え事ってこれからどうするかって事?」
「いえ、瑠奈さんが言った事を考えていました。運転中、ずっとそれを考えていたので不思議と身体は疲れていません」
闇の中、湊がふっと頬を緩めた。あちらの世界で生きる湊とは顔は違うが、どこか中性的で、大きな目が綺麗な男性だった。見た目は違う。けれど、中身は間違いなく湊だと、私の魂が訴えかけている。きっと、湊自身も私の顔が向こうの世界で生きる新奈とは違うが、同じようなことを感じたのだろう。初めてあの病室で湊と出会った時、私達は視線を引き剥がすことが出来なかった。
「本名は東條湊。で、向こうの世界で生きる湊の名前が大城湊。そうよね?」
「ええ」
「私の名前は工藤瑠衣。向こうの世界で生きる私の名前は、大城新奈。で、向こうの世界で生きる私達は最近兄弟だったということが分かった」
「僕もその映像はみました」
「私達はきっと偶然にあの病室で出会ったんじゃないと思う。何か強い結びつきが絶対にあるはずなの」
「その答えが、お母さんのお腹の中にあるかもしれないって事ですよね」
私は湊の目を真っ直ぐにみつめながら頷いた。
──ねぇ、人は死んだらどこにいくと思う?
ここにくるまでの道中で、私が湊に投げかけた質問だ。湊は少し考えてから「分かりません。天国ですか?」とハンドルを握りながらそう答えた。私は首を縦にも横にも振らなかった。みたことがないから分からない。実際に行ったことがないから答えることが出来ないのだ。でも、それまでの道のりならみたことがある。
私には、自分の中にもう一人の私が生きている、という誰彼構わずに話し続けたら間違いなく気が触れたと思われる話とは別にもうひとつある。それは、この世界に生まれてくる前の記憶があるということだ。正確に言えば、私のお母さんのお腹の中にいた時のもの。柔らかな膜のようなものに包まれながら、私は安心して目を閉じている。くらげのようにふわふわと揺蕩うような心地で過ごしていると、瞼の裏に温かいひかりを感じて、それから歌が聴こえた。女の人の、子守唄のような、優しげで温もりを感じるその歌に耳を澄ませているだけで私の心は満たされていった。そして、問い掛ける。同じ膜の中にいる誰かに。
──さっきの歌聴こえた?
──綺麗だったね
──もっと歌って欲しいわ。ああ、温かい。この中にいるといつも温かいひかりを感じるの
言葉は交わしていない。姿をみた訳でもないから実際にいたかどうかすら分からない。けれど、その膜の中で確かに私達は意識を通してやり取りしていた。だが、そんな日々が続いていたある日、いくら私が呼びかけても相手からの返事が聴こえなくなった。悲しくはなかった。勿論、嬉しくも。私はまだ感情というものを持ち合わせていなかったのかもしれない。
しばらくしてから瞼の裏に感じていたひかりが途端に強くなった。開けた先には全てが白に染められた螺旋状の階段があって、目の前を誰かが歩いていた。私はその真後ろを歩いてはいたが、階段を登りきった先にみえるひかりの向こうへは私は行くことが出来なかった。その、誰かだけがその先に進んだ。私は、そこに私達が天国と呼ぶもの、あるいは別の世界が広がっているのではないかと考えていた。
「……生まれる前の、記憶」
全てを聞き終えた湊は、その言葉の意味を確かめるるようにぽつりと呟いた。
「この話も今まで誰かに?」
問われ、私は小さく首を横に振った。私の中にもう一人の私がいる。その話とは違って、もし私が生まれる前にみたものが真実で、尚且つあの場所がお母さんの子宮で私とは別の子供が亡くなっていたのだとしたら、それを言えばお母さんを悲しませることになるかもしれない。子供ながらにそれだけは分かり、この話だけは誰にも話さずに生きてきたのだ。
「そうですか……。分からないことが一つあります。仮に、瑠奈さんがみたものが真実だとして、この世界で生きる僕たちと向こうの世界で生きる僕たちとはどう繋がるんです? いや、そもそも僕たちは当たり前のように別の世界や向こうの世界などと話していましたけど、そんなことって本当にあり得るのでしょうか」
ちらりと私に目をやりながら、湊が言う。
「
「えっ、なんですかそれ」
「窓の向こうをみてみて」
そう言うと、湊はハンドルを握りながらも器用に腰をかがめた。
「夜空が広がってるでしょ?」
「はい」
「そこには星があって、その星の居場所は宇宙な訳だけど、私達が今目を通してみているこの宇宙は仮に光の速さで進んだとしてもその果てに辿り着くまでに五百億年近くも掛かるって言われてるの。それも、現段階で観測出来る範囲でね。人がそこに辿り着くことなんて今の技術では到底出来ない。私達の手が及ばないその宇宙は、理解を超えたその世界は、本当に一つなのだろうか、もしかしたら私達が知らないだけで無数の宇宙が広がってるのではないだろうかっていう考えが多元宇宙論。それに紐づくものがあってね、ある学者が提唱した一つの説だと、人の人生を左右する大きな選択──たとえばその日に外に出ると事故にあってしまう運命の人がいたとして人生の大きな分岐点に立たされた時、その人が家から出るという選択を選んだ世界と、逆に家から出ないという選択を選んだ世界に枝分かれするのではないかという説もある。木々が枝葉を広げていくみたいに人の選択の連鎖によって世界が分かれていくのか、それとも端から無数の宇宙がありその次元一つ一つに私達がいるのか、それは分からない。けど、少なくとも私達がもう一人の自分の存在を感じているのは事実でしょ?」
湊は、それだけは納得出来るようで大きく頷いた。だが腑に落ちない点もあるようだった。
「ただ、やっぱり分からないのは何故僕たちのいる世界と向こうの世界が繋がっているのかという事です。こんな話を今まで聞いたことがないので」
「たぶん、扉か何かが開いたんじゃないの?」
「扉?」
「うん、こう考えてみて。この世界で死んだ人はきっとあの白い螺旋階段を通って、天国あるいは別の次元の世界へと行く。で、私の場合はお母さんの子宮でたまたまその道を通る現場に出くわしたから、別の世界へと旅立ったその子の世界と繋がりを持つことが出来る」
「つまり新奈や湊達がいる世界が、その亡くなった子が旅立った世界だという事ですか?」
湊は眉間に皺を寄せながらいった。反対車線を走る車のヘッドライトに照らされて、白や黄色、それから夜が纏う闇へところころと顔の色が変わっていく。
「信じられない?」
私は、そんな湊をみながら問い掛けた。
「いえ、実際に僕自身もう一人の湊の存在というものを確かに感じています。だから信じない訳にはいかないでしょう」
ちらりと私に視線を送り、「でも」と呟く。
「あまりにも現実離れし過ぎていて理解が追いつかないというか……勿論瑠奈さんの話を信じてはいるんですけど、僕の頭ではすぐにそうですかと言えなくて」と煮えきらない様子だった。
「そうだよね。こんな話をすぐに理解しろっていう方が無理だよね。少しずつ、少しずつでも私の言う話を理解してくれたら嬉しいよ」
その言葉とは裏腹に私はやはり受け入れてもらえないのだとショックを隠せなくて、せめてそれを悟られないように窓の向こうに視線を投げた。私は何を期待しているのだろう。死後の世界? 別の次元? 一歩間違えたら怪しい宗教のようなこんな話をすぐに理解しろという方が無理がある。自分の中にもう一人の自分がいる。そう感じて生きている人が私とは別にいて、しかもそれが向こうの世界で生きる私と関わりのある湊だという事実に舞い上がっていたのかもしれない。
「……すみません」
唐突に車内に転がったその言葉に、私は戸惑ってしまった。
「え、謝らないでよ。湊は何も悪いことしてないのに」
「いえ、自分の信じているものを誰かに理解してもらえない辛さなら僕にだってわかります」
その言葉が私の胸を打った。ああ、良かった。この人に出会うことが出来て、この人に話せて本当に良かった。
「もう少し時間を下さい。目的地に着くまでには必ず理解してみせます」
「……うん。ありがとう、でも無理はしないで」
ハンドルを握りながら正面に視線を貼り付けている湊をみながら言った。
「もしこれが真実なら凄いです。瑠奈さんは誰も到達出来ない場所にまでいったことになる。きっとこの考えに至るまでに途方もない時間を掛けられたのでしょうね」
「私には時間があったから」
そう、時間だけは膨大にあったのだ。幼少期からずっとあの病院で入退院を繰り返し、学校にすらまともに行っていない私に残されていたものは時間だけだった。その間、あらゆることを考え、知識を得る為に本を読み漁った。そんな日々を続けている内にある考えに至った。もし、新奈がこの世界ではなく別の世界で生きている人だったら。冬の帳村という村自体がこの世界には存在していなかったら。その可能性も勿論考え、独学で研究し、真実を追い求めた。私の味方は時間だけだったから。
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