第4話

「あら、新奈ちゃん。それと、お友達かしら」


 夕暮れ時。初めて百合亜さんの家を訪れた時と同じような西日がほのかに黒い扉の表面だけを染めていた。インターホンを押してから程なくして、はーい、という綺麗な声と共にゆっくりと扉が開き、温まった空気のかたまりと陽だまりのような笑みを浮かべた百合亜さんが出迎えてくれた。私の顔をみて一度微笑み、それから隣に立つ沙羅の姿に気付いてから、もう一度微笑んだ。沙羅はその笑みを受け取ってから、小さく頭を下げた。


「佐藤沙羅っていいます。あの、新奈とは友達で、それで」


 珍しく、沙羅が緊張しているようにみえた。私も初めて百合亜さんと会った時はそうだった。だから、言葉を繋ぐようにして言った。


「ほんとに来ちゃいました。私、また百合亜さんに会いたくて。ご迷惑じゃなかったですか?」

「迷惑だなんてとんでもない。ほんとに会いに来てくれたなんて凄く嬉しいわ。それに、若い女の子達と話せることなんて中々無いでしょ? さぁ、入って」


 百合亜さんは以前と同じように温かく迎え入れてくれた。チェック柄のソファに座り、三人で他愛もない話をする。なんてことのない、数日後には忘れてしまうような、取り留めもない会話だった。でも、百合亜さんとそんな話をしている時間はとても心地良くて、その抱いた感情と百合亜さんと過ごした時間だけはずっと胸の奥底でほわりとちいさなひかりを放ちながらずっと残り続けていくような気がした。百合亜さんの家に着いたのは十六時過ぎで、私達には十八時までに施設に戻らなければならないという制限がある。二時間という時間はあっという間に溶けた。最初は緊張していた沙羅も帰るときには百合亜さんと自然と打ち解けており、帰り際に「また来てね」と笑顔で言う百合亜さんに、「必ずまた来ます! まだバイバイも言ってないのに、もう既に会いたくなってます」と溢れ出る好意のままにお腹の大きな百合亜さんに抱きついてしまうのではないかという程に興奮を隠せない様子で言っていた。


 蜜色の明かりがガラス窓から溢れる民家沿いを抜け、施設と村を繋ぐ針葉樹林に囲まれた一本道を二人横並びに歩く。降り積もった雪は足で踏むと粉を握りしめたような音を微かに立てる。所々、雪が薄い所を歩くと砂や土が擦れる音がした。風が、つめたい。肌が剥き出しになっている両手の感覚は既に無かった。持ち上げて、貝殻のように組み合わせた両手の中に温かい息を吹き入れる。


「新奈が言ってた意味が私にも分かったよ」


 歩きながら、噛みしめるように沙羅が言った。


「分かってくれた? 私が自分のお母さんの姿に重ねちゃったって意味が分かったでしょ?」

「うん。凄く、よく分かった。もっと話したいと思ったし、もっと私のことを知って欲しいとも思った。お母さんってさ、きっとあんな感じなんだろうね。ただ話してるだけなのに、胸が優しく包まれているっていうか、なんか凄く心地良かった」


 少し前に別れたばかりの百合亜さんに思いを馳せると、落ち着きかけていた感情の高まりがぶり返したかのように、言葉を並べ立てている。私はなんだか誇らしい気持ちになった。昨日、百合亜さんと出会ったのはただの偶然で、私が話し掛けなければこうして二日続けて話すことも無かったのだと思う。私が好きだと思った人を、沙羅にも好きになって貰えたことが、そのきっかけを作れたことが凄く嬉しかった。だが、ふと顔を向けると、沙羅が突然足を止めた。それから、蚊の泣くような声で、でも、と言う。


「明日になったら、百合亜さんは今日私と話したことを覚えてないんだよね?」


 薄暗い闇の中で、沙羅の表情はよくみえなかった。でも、その声色から悲しげだということは伝わってきた。


「っていうか、私と会ったことすら覚えてないんだよね?」

「うん、覚えてないよ」


 雪が降る日に、この村で生きる人達は記憶を無くす。十七年もの間、私はその孤独と共に生きてきた。だから、今の沙羅の気持ちが痛い程に理解出来た。


「新奈は凄いね……私だったら、こんなの一ヶ月も耐えられない」

「また雪が降ってない日に百合亜さんに会いにいけばいいよ。そしたら、百合亜さんも沙羅のことを覚えてくれるから」


 慰めることは出来ただろうか。少しでも、凍りついてしまった心を溶かすことは出来ただろうか。うん、と小さく呟いて、歩き始めた沙羅のあとを追いながら、冷えきった何かが胸の中に広がっていくような妙な胸騒ぎがした。

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