第6話

 空から舞い落ちる雪が、月のひかりを吸いながら、夜の深いところに沈んでいく。微かに青白いひかりをまとっている、ちいさな、とてもちいさなかたまりが、風の動きに合わせてふわりゆらりと不規則に舞い落ちていくその様は、まるで飛び方を忘れてしまった無数の蛍をみているみたいだった。静かな夜だった。ぴんと糸を張り詰めたように、しんと静まりかえった不安定な世界が目の前に転がっている。何かの拍子に少しでも音を立てればきっと、糸はぷつりと切れ、その世界は音もなく崩れ落ちてしまう。そのもろさを、そのはかなさを、雪は好んでいるのかもしれない。雪が降る時はいつも決まってそんな世界が目の前にあり、私はその世界の中で死を願い続けている。


「……新奈、眠れないの?」


 二段ベッドの二階で、部屋の小窓の向こうに広がる景色を横になりながら眺めていると、私のお腹の上に乗っかっていた足が微かに動き、澄んだ声が鼓膜に触れた。先程まで私の隣で寝息を立てていた沙羅が起きたようだった。背を向けるかたちで横になっていたので、顔だけを向ける。


「……ごめん、起こしちゃった?」


 死にたい。寸前まで胸の表面をみたしていたその感情に蓋をしてから言った。


「ううん、私の眠りが浅いだけだから。いつの間にか寝ちゃってたんだね私。どれくらい寝てた?」


 言いながら、沙羅は持ち上げた右手で目を擦ってる。それからあくびをしたのがみえた。


「たぶん二時間くらい」


 窓から差し込む月のひかりが、すらりと伸びた沙羅の細い素足を微かに青白く染めている。


「二時間かーそれならまだ眠いはずだわ。礼拝の日ってほんとに体力奪われるよね」


 礼拝が終わったのは夜の七時を回った頃だった。それから私達はいつものように施設で住む子供達全員分の晩御飯の用意に取り掛かり、食べ終えて部屋に戻ってきてからは二人でベッドで他愛もない話をし、沙羅はいつの間にかスイッチが切れたように眠りについていた。礼拝が始まる頃には止んでいた雪が降り始めたのは、ちょうどその頃だった。


「ってかさ、今日めちゃくちゃ寒くない?」

と沙羅はぽつり呟いて、布団の外へと投げ出していた自分の足を、中で温めていた私の足と足の間へと逃げるように滑り込ませてくる。


「ねぇ、つめたいんだけど」

「だって寒いしちょっとだけ温めてよ。カイロ代わり」


 綿菓子みたいな甘えた声が部屋の中に転がる。


「ショーパンなんか履いてるからでしょ? 今の季節にそんなの履いてんの沙羅だけだよ?」


 十二月の初旬。外に出れば至る所で冬の気配が立ち込めているような時期なのに、沙羅は寝る前には未だにショートパンツを履いている。眠っている間に体温が上がりやすいタイプらしく、いつも片足は布団の中に、もう片方の足を外に出し、布団を挟むようにして寝ている。現についさっきまで布団の外へと投げ出されていた足は、私のお腹の上でだらりと力無く横たわっていた。本来なら一人分のスペースしかないベッドを二人で使っているものだから、いくら女子二人とはいえかなり狭かった。寝返りをうつことすら出来そうになかったけど、我慢するしかなかった。今日は一緒に寝てほしい、そう言ったのは私だったからだ。せめてベッドの枠組みに身体を寄せて楽な体制を取ろうと、少しだけ身体を動かした。すると、私のお腹の上に乗っかっていた沙羅の足も、それにつられるように動いた。沙羅が目を覚ましたのはそんな時だった。


「だって布団の中に足入れてたらすぐ暑くなっちゃうし、寒くなったら新奈の足に温めてもらえばいいし、結果ショーパンくらいが丁度いいんだよね」


 窓から差し込む月のひかりはひかえめで、沙羅の顔ははっきりとみえなかった。けど、声のトーンと微かに浮かび上がる顔の輪郭で、子供みたいに無邪気な笑みを溢している気がした。私は記憶の中にある沙羅の溢すその笑みを、輪郭の中へと当てはめようとしていた。


「まだ、降ってたんだね雪」


 沙羅が窓の向こうに広がる景色をみながら呟く。今日は朝からずっと降っては止んでを繰り返している。そんな光景を丸一日通してみていると、さすがに初めて雪をみた時の興奮は収まっているようだった。けれど、その初めては、今日までのこと。明日以降もしまた雪が降れば、今朝のように騒ぎ立て、雪の妖精を崇めるのだろう。沙羅を含め、この村で生きる全ての人たちは私が知る限りでもそれを十七年もの間繰り返している。


「ずっと、降っては止んでって感じ」

「なんか私達とは流れる時間が違うみたいにゆっくりなんだね雪って。あれ、降り始めたのって今日だよね? いつから降ってるんだっけ」

「……朝からだよ」

「朝……? そうだっけ、私はお昼過ぎくらいかなって思ってたのにな。そういえば私、今朝は何をしてたんだろ? 全然思い出せないや」


 沙羅が目を擦りながら、あくびをする。私はそれをみながら、沙羅が失った記憶はパーセンテージで現すとどれくらいなのだろうと考えていた。眠りにつくという行為と雪が、記憶を無くすトリガーになることを知ったのは、私がこの村の人たちが記憶を無くすことに気付いてから随分後だった。私はそれまでの間、基本的に記憶が無くなるのは雪が降った翌日だと考えていた。でも、それは違った。大きな誤りだった。子供の頃、お昼寝をすると言って約三、四時間眠りについた沙羅が目を覚ましたのは夕方頃だったが、その日に目覚めてからお昼寝をする少し前までの記憶を全て失っていたのだ。私はその時に初めて気づいた。雪が降るとこの村の人たちが当日の記憶を無くすのは翌日に目を覚ましてからなのではなく、雪が降ったそのうえで眠りについたからなのだと。


「ごめん、起こしちゃったよね。目瞑ってたら寝れると思うから沙羅は寝てていいよ」


 これ以上は、覚えていないことを話していても仕方がない。隣で眠そうにしている沙羅の髪を指の腹で撫でながら、強がってはみた。本当は眠れない。目を瞑ってしまったら、孤独に押し潰されてしまいそうで怖くて仕方なかったが、沙羅に眠れない夜を付き合わせる訳にはいかないと、強がった。だが、そんな表面上に取り繕ったような私のそれは、沙羅にはすぐ見抜かれた。


「そんなの絶対嘘じゃん。新奈が私のベッドで寝たいって言う時って、絶対気持ちが落ちてる時でしょ?」


 私は、小さく頷く。


「また、髪結ぼうか?」


 私が次の言葉を紡ぐより先に、沙羅は自分の胸元まで流れた髪を一つ束に取り、同じように手に取った私の髪とを軽く結びつけた。私と沙羅の間に、髪の毛で作られたちいさな結び目が生まれる。


「これでいい?」

「うん、ありがとう。かなり気持ちが楽になった」


 少し動いただけでも解けそうになるために、そっと身体を寄せてから言った。それから、出来るだけ動きを小さくしながら二人一緒に横になった。一つの枕に二人で頭をのせて、向き合うような形になる。いつからか、私が孤独に耐えきれなくなって気持ちが沈んでしまった時には、今みたく沙羅の髪の毛と私の髪の毛を結んでもらうようにしている。こうしていると、少しだけ心が落ち着く。その髪の結び目に導かれた先で私も明日に進めるかもと、今日という日に置いていかれないかもしれないと、そう思えるから。だが、そんなものは所詮は気休めでしかない。それは私が一番理解していた。それでも、私は何かに縋らなければ生きていけないと思った。私の隣で再び眠りにつこうとしている沙羅は、夜を超え、日が昇ると共に明日へと進む。そして、私だけを置き去りにする。


「新奈が身体を動かしてくれて良かったよ。おかげで目が覚めて、初めて夜の間に雪が降ってるのみれたしさ。明日起きたら絶対皆に自慢しよ」


 聞きながら、虚しさと寂しさで胸の中が冷えていくのが分かった。沙羅、夜に雪が降るのを見たのは初めてじゃないよ。もう、何度も。何度も、何度も、一緒にみてるじゃん。声には出さなかった。出せなかった。だから、胸の中だけで、そう呟いた。


「眠たくなってきた」

「疲れたよね? もう、今日は早めに寝よ」


 沙羅は、今日雪が降っていたことも、今こうして話してることも、明日になれば何も覚えてない。今日は、雪が降ったから。


「おやすみ、新奈」

「うん、おやすみ。沙羅」


 この会話も、意味なんてない。胸の中に降り積もる寂しさで心が押し潰されそうだ。


 雪が降る日、私はひとりになる。その日が訪れるまで、私という人間と関わっていた人は、世界は、私を置いて明日へと歩みを進める。置き去りにする。あたかも、元から私なんてこの世に存在していなかったのように。以前、“人は二度死ぬ”という言葉を誰かに聞いた。一度目は生を終えた時、そして人の心から忘れ去られた時に二度目を迎えるらしい。だとしたら、私はもう何度死んでいるのだろう。たとえ一度目を迎えていなくても、二度目を迎え続けている私は、果たして生きていると言えるのだろうか。


 雪が降ると、私は誰の記憶にも残らない。それは、私そのものの存在を否定されているのと同じだ。だって、確かに私は生きていて、皆と話し、同じ時間を過ごしていたはずなのに、それすらも覚えてくれていないのだから、その瞬間に生きていたはずの私は、死んでいようと生きていよう変わらないのじゃないだろうか。ずっとそれを疑問に思いながら生き続けてきたが、ある時に私は答えを見つけ出せた気がした。


 きっと私は、生きながらにして、死んでいる。それが十七年という人生の中で導きだした私の答えだった。明日も雪が降ったら、死のうかな。どうやって死のうか。どうせなら、雪が原因で死んでやろう。私は雪のせいで死ぬのだから、その罪を雪に背負わせてやりたい。その答えを出してからというもの、胸の中でそんな風に何度も呟いた。でも、私に残された最後の一握りの生への執着が、その答えを、考えを、否定しようとする。抗って、否定して、何とか生きようとする。そして、私にとってのこの髪で作られた結び目は、明日への道しるべのようなものだった。明日へと進む沙羅の髪と今日に取り残される私の髪。たとえ髪の毛で作られた小さな結び目でも、これさえあれば私も明日へと進めるのではないかと、そう思えた。私はもう、何かに縋らなければ生きていけなかった。


 雪に対する憎しみや怒りで次第に感情が高まってきたせいか、何かが溢れそうになり目頭に力を込めた。それから、他の誰かならまだいい、と思う。たとえ私と過ごした時間を皆が覚えていなくても、沙羅が覚えてさえいてくれたら、悲しくはあるけどまだ耐えることが出来る。でも、現実はそれすらも叶わないのだ。その日一緒に食べたご飯の味も、二人しか分からないような話の内容で笑いあった時間も、全て手のひらに舞い落ちた雪のように溶けていく。私だけがそれを覚えていて、今日という日に取り残される。そんな日々を過ごすことにこれ以上耐えられそうになかった。もう、ひとりになるのは嫌だ。お願いだから、私のことを忘れないで。胸の中で叫び声をあげて、再び眠りにおちている沙羅の顔をみつめる。


 少し前から、静寂が満ちていた部屋の中にすぅすぅという寝息が静かに転がっていた。その綺麗な寝顔に触れたくなって手を伸ばそうとした時、窓から差していた月のひかりが途端に強くなったのを感じた。沙羅の身体の輪郭が薄暗い闇の中で少しずつ浮かびあがっていく。枕に頭をのせたまま目を閉じているその体が、淡く青白いひかりの膜に包まれているようにみえた。私も同じように月のひかりに抱かれているはずなのに、同じ膜の中にいるとは到底思えなかった。持ち上げた右手で、沙羅の頬へと手を伸ばす。指先で触れたのと同時に、目元から熱いものが溢れてきた。頬を伝ったそれが、頭をのせている枕を湿らせていく。私の中から溢れ出た時にあった温もりは、冬の空気に吸い取られていくように枕を濡らす頃には熱を失っていた。枕は、つめたかった。雪みたいだった。涙が止まらない。声を殺して、ひとり泣いた。きっと、いつか終わる。この悪夢が、雪が降る日にだけ毎年訪れる氷のようなつめたさを孕んだ日々が、いつか終わる時がくる。そう信じて、私は今日もその結び目を両手で優しく包んだ。

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