メガロバニアの暁鐘、あるいは鳩時計

雨籠もり

メガロバニアの暁鐘、あるいは鳩時計


メガロバニアの暁鐘、あるいは鳩時計


  1 境


 メガロバニア監獄。

 五十九ある島嶼のうちのどこか、岩山の影に在る時計塔の地下にひっそりと作られたその地下監獄は、最初メガラグロニカという欧州の花の名を冠していた。しかしその迷い人を量産する特異な形状と黒魔術的な呪縛を連想させる装飾、そして何よりもその狂気じみた建造理念から、誰からともなく「誇大妄想狂」を意味するメガロバニアと換えて呼ばれるようになった。

「すなわち、この最下層に、あなた様の妹様がいらっしゃるということです」

 首の無いシスターがそう言うと、蛇腹式扉が目前で閉まった。階数を示す半円形の盤上を長針がなぞるように動いていく。古風な様式だが、それがエレベーターと呼ばれるものであることを、私は大図書館から譲り受けた知識により知っていた。

「どれくらいかかる」

 と私は首無しのシスターに尋ねる。首が無いのは、他世界の彼女が一度神を裏切ったからなのだという。一度だけで良かった、とも。二度神を裏切ると全身が焼け爛れるそうである。シスターは自分のすらりと長い手足を気に入っていて、それを失うということは死も同然だと悠然に語っていた。

「ざっと三時間ほどでしょう」

 云って、シスターは自らの腕時計を確認する。首と共に眼球も失っている彼女のその行為に、果たして意味があるのかと私は無言のままに観察していたが、どうやらきちんと読めたようであり、美しい声で「その頃合いには明朝ですね」と発音した。図図しい娘である。

「訊いていなかったが」

 と私は言葉を繋げる。

「私の妹は、一体どの様な罪でこんな処に収容されているんだ? メガロバニアと言えば、大罪犯の集う処じゃないか」

 誠に恥ずかしい限りだが、私は妹の罪状を未だ知らなかった。ただ北方のスクローズという国境で逮捕されたらしいということだけを新聞の記事で読んだが、その新聞は愛誤謬家の手に依り無数の偽造を孕むことで有名で、そこに記された罪状はどれもこれも信用に値しないものばかりだった。かねてより現在フェイズの情報については淡泊を貫く主義の私であるからこそ、そのような誤字脱字誤謬誤記まみれの紙面を愛せていたというのに、いざ現在の物事を知らねばならぬ場面ともなると、ほとほと苦労してしまう。難儀な性格を持ったものだ。

「私にもそれはよく分かりません」

 首無しシスターは矢張り私のことなど見向きもせずにそう答えた。「しかしながら、最下層に収容されているという条件を鑑みれば、およそかなりの重罪であることは間違い無いでしょう」

「重罪、か」私は訊く。「それは人を殺すよりも重い罪か」

「ええ、重いですよ。メガロバニアには人殺し程度の罪人はやってきません。例えば……」

 言いかけたところで、チン、とエレベーターの鐘が鳴った。蛇腹式の扉が開いて、外から鉄屑のような男が、カートを押して入ってきた。カートのなかには、肉体が支離滅裂な箇所から生えている男が、虫のような息をしている。

「ちょうどいい」とシスターは云って、虫のような息の男を指した。「この男はガーゴ・ロクターヌです。彼は反出生主義者の身でありながら、複数の女性との間に三百八十九人の子供を設けました」

「それがいったい何の罪になる」

「彼の遺伝子は遺伝を許可されていません」

 シスターは淡泊にそう云った。「許可の無い遺伝は殺人と同一です。この男の劣等な遺伝子情報が三百八十九人の無辜の命を毒している。これは到底許されるべきものではありません。自然への、ひいては神への冒涜です。重罪と云えるでしょう」

 数秒して、再びチン、と音が鳴った。ガーゴと紹介された男は、眉間から生えた小人のような手で私に助けを求めながら、鉄屑の男によって別の階へと運ばれていった。

 成る程、今の男の行為でさえ、まだこの階層程度のものなのだ。妹の罪は、余程の重罪に違いない。そう考えてみると、いよいよ妹の犯した罪の内容が気になってきた。

 考えていると、不意に右の眼球に激痛が走った。どうやら気圧が変わったらしい。それほどまでに下へと向かっているということだ。私は予め用意しておいたスプーンで右目を掬い出すと、ポケットのなかに放り込んだ。がちん、と金属同士のぶつかり合う音。私はすぐさまポケットから、深層用の眼球を取り出して右目の眼窩に押し入れる。かちり、と奇妙な音が鳴って、漸く視界に光が戻る。

「時間潰しに質問をしますが」

 と、今度は首無しシスターが口を開いた。

「あなた様は普段、どのようなお仕事をなさっているんですか?」

 なんだ、そんなことかと私は安堵する。右足が腐り果てていることについて尋ねられれば、いよいよ回答に窮する処だった。レディの前であんな不埒な回答を口にすることは、それが例え紳士でなくても憚りたい処である。

「映像業を少少」

 私は可能な限り情報を少なくして云った。

「映像……ですか」とシスターは呟く。「アニメーションですか?」

「違う。映画だ。実写の映画」

 云って、そこで後悔した。実写の映画を作っているなどと云えば、それは鰐が目についた魚を情景反射で喰らうが如く、必然的に件の、女優霊の話になるに決まっている。

「ボスカという女優を知っていますか」

 案の定出てきたその名に、私は大仰な溜息をついた。

「嗚呼、知っているよ。女優霊だろ」

 ボスカとは、映画の撮影中に服毒自殺をしたことで有名な女優だった。情報を正せば、彼女は撮影中に服毒自殺を図っただけであり、亡くなっているわけではない。近くにいたスタッフが薬をはたき落としたおかげで、彼女は死ねずに精神病院に入ることになった。

 しかしながら噂というものは恐ろしいもので、すでに世間ではボスカは服毒自殺に成功し、血反吐で偶像画を描いて死亡したということになっている。全く世間の情報というものはこれだから良くない。そのうえ、情報の氾濫と跋扈によって、本当に実写映画にボスカの霊が映り始めたというのだから、笑うに笑えなかった。

 女優霊とはすなわち、ボスカの生き霊のことなのである。否、生き霊と形容することさえ烏滸がましい。愚かな世間の集団妄想が、幻想と化し現実の事象に影響を齎したのだ。全く迷惑な話である。世間にしてみれば愉快千万だろうが、制作陣にしてみれば厄介極まりない。ともすれば、映像内の擦れや曇りがボスカということになりかねない。必然、制作陣は極限迄瑕疵の無い映像を追求せねばならないということになる。それも不必要に。

 しかし、あれは慥かにボスカの姿だった。

 私はやにわに思い出す。あの映像と背姿を。


 2 女優霊


「シーン68、スタート」

 撮影は至極順調に、ソドムの悲劇を上なぞりする形で進んでいた。生動文枝に記述の在る通り、悲劇は羊頭の破砕からと相場は決まっている。羊頭の破砕は、山羊=悪魔の等式と、山羊と羊との相反する関係性から、群衆=世界の破綻を意味すると昨今の解釈では有名だが、ソドムの漢字表記、創幢網の「創」の字が「一度破壊して創り直す」という意味を持つように、羊頭の破砕により表現される死とは反する形で、同時的に生を表現しているのではないかという独自の考察から、羊頭の破砕と同時に、頭内から胎児が踊り出るというシーンをこの映画には盛り込んだ。

 あたかも、夜明けを告げる鳩時計のように。

 結果としてその表現は成功だったように想う。死生を同じ事象から描出する作法自体は真新しいものではないが、羊頭と胎児という組み合わせが功を奏した。胎児の生命数ゆえに一発撮りをしか許されない緊迫した状況のなか、成功を確信した私たちは大いに盛り上がったものである。

 しかしながら、問題はそれからであった。

 撮影した映像を確認する工程に至って、とある女性スタッフが唐突に、こんなことを言い出したのである――この胎児の顔は、ボスカではないか、と。

 赤子というものは大抵が似た顔をしているものである。無論、ボスカにしても、元々はこのような顔付きをしていたであろうことは言うまでも無い。しかし無論、この赤子の親は正式な遺伝許可によって胎児を造り、産み、そして提供したのであって、無論ボスカとは無関係である。

 しかし女性スタッフのその言が、すべてまるきり間違いであるとする考え方を切り捨てることは、而して我々には叶わなかった。なぜならばその胎児の顔は、まさしくボスカその人だったからである。まるで六郎殺しの怪談のように、胎児の顔はボスカの顔そのものだったのだ。これではクランクアップもできない。

 撮り直すしかない――私たちは頭を抱えた。このまま上映でもすれば、赤子の顔がボスカの顔になっている、奇異かつ奇怪な映像作品として、上映数は鰻登りとなり、売れ行きも好調となることだろう。しかして筆地頭の破砕シーンは、この映画のなかでも最重要の場面なのである。この場面なくしてこの映画を語ることはできない。而してボスカの顔が邪魔をする。この場面は、ボスカの映り込んだ奇妙なシーンということになってしまう。怪現象が映画の本意を食ってしまう。それだけはなんとしても避けねばなるまい。

 ともすれば、どうするのが最も主意を兼ねるか。

 そこで私の脳髄をたどってきたのが、私自身の妹のことであった。

 私の取っている新聞が誤謬を好む玉石混淆の書であることは先に記した通りだが、無論、それが新聞である以上、正しい情報も少なからず存在する――世の情報を是か非かの二元論で決定する行為は行政書士の怠慢と道徳的不当の観点から御すつもりは断じて無いが、しかし今回ばかりは仕方が無い。


 映画監督、■■■■■・■■■■■■■■■の妹、■■■■■■■■■、ギュルコニルヴァフィリア過程裁判所にて最高刑である「貳尾」の判決を下された。裁判は陪審員制度により進み、判決は六時間の討議の末、全会一致により提出された。「貳尾」の判決を下された人物は今世紀に入って初とのこと。過去には偶像崇拝禁止令に対して認識阻害によるイデア干渉を行ったことによる聖域侵害罪、および女児誘拐の罪から起訴されたムイ・ヨンハなどがいる。


 以上は新聞記事より抜粋した情報である。前述の通り、我が妹は北方スクローズにて逮捕され、そこに並べられた情報はおよそ信じるに足らぬものばかりであった。しかしながら、今回の記事はそうとも限らない。何故ならば、ムイ・ヨンハとは四世紀前の医学者の名であり、また「貳尾」なる極刑を課せられたという事実はないからだ。すなわち記述後半の文書は死者を愚弄する悪質な虚偽であり、情報の齟齬の塊なのである。また、玉石混淆というものは玉と石とがほとんど同質量かつ同量でなければ生じ得ないものであると云う点にも着目すべきであろう。すなわちこの文書は虚偽の質量が後半に偏っているのである。よって、前半部分は信じても良いということになる――そして肝要なのは、黒塗りの我が名の前に記された、妹の罪状についてである。


 罪状――魂魄の劈開。



  3 暁鐘


「すなわち、魂魄の劈開によりボスカの精神を治療し、ボスカを復帰させることで、そのシーンについての違和感を払拭しようと、そういうことですか」

 首無しのシスターは私の台詞を奪い去って云った。私は無言のままにうなずく。

「魂魄は個人情報の集合体だ。それを劈開するなどもってのほかで、周知の通り禁忌の禁呪だが、同時に誰も為せなかった手術法でもある。妹を脱獄させることはできずとも、使用方法を聞き出すことは可能だろう」

「ですが、良いのですか? 魂魄の劈開など試せば即刻逮捕、妹様と同様にメガロバニア監獄への収容は避けられませんよ」

「いいさ」私はふんと鼻を鳴らす。「あの映画が未完のまま、不完全のままに衆目にさらされることに比べれば、永久の闇など無味も同義だ。なに、気の知れた身内も同じ刑に処されているというなら、侘しいこともないだろうよ」

「ですが――」

 そのとき。

 きん――と、軽やかなベルの音が鳴った。同時にその方向を向く。階数を示す半円のうえを、長針はまっすぐ最下層を指していた。一拍遅れて、蛇腹式の扉が音を立てて右に開く。

「最下階です」

 と短くシスターが云った。無意識のうちに唾をのみ、その音が先に広がる暗闇に吸い込まれる。久方ぶりの身内との邂逅は、否が応でも緊張するというものだ。手足はがくがくと震えを発し始め、四肢は身体は今にも反対方向へ逃げ出してしまいそうだった。精神がそれをすんでの処で止めていた。

 通路は細長く、また薄暗い。足下に小さな緑の光の在る以外には、空間を把握する術は存在しなかった。道にまっすぐに貼られているリフレクターが、闇の完全を許さなかった。

「……話には、最奥の六番室であると聞いています」

 云って、首無しシスターが私の手を取って歩き出した。手を取ったのは無論、闇夜のなかで私が彼女を見失わないためであろうが、彼女の手もまた震えていたことをここに記しておかねばなるまい。それほどまでに恐ろしいものなのだ、大罪人と面会を果たすというのは――身内と逢うということは。

 大きく「6」と表示されたその部屋の重苦しい扉を開くと、とてつもなく下品なパンクロックが耳を犯した。咄嗟に両耳を塞ぐが、耳のないシスターはそうすることができず、思わずその場にうずくまってしまった。大音量の音楽は止まることを知らず、段々と加速していく――しかしながら私は、その曲の正体を知っていた。

 劇中歌だ。

「上映中に割り込んでくるとは、儀礼も作法もない男だな、兄様は」

 不意に声が上方から飛んできた。動けなくなってしまったシスターをその場において、私は部屋の奥へと踏み込む。そこには階段状に座席が余すところなく並んでいた。一拍遅れて、そうか、ここは――映画館か、と悟った。

「久々の邂逅だというのに、随分な挨拶じゃないか、妹」

 私がそう云うと、部屋の中央、座席にふんぞり返っている妹は私を一瞥して、

「虚勢は止しなよ兄様。監督様らしくもない」

 と知ったようなことを云った。

「それに、ここは映画館だ。上映中の私語は慎みましょう。誰もが知っている当たり前のマナーだよ」

「それはそうだが……」

 私は歩きながら、巨大なスクリーンに映し出されている男の顔を呆然を見上げる。古い時代の映画だ。まだ白黒で、画素も粗い。言語は英語ではなかった。数拍置いて、スペイン語じゃないか、と考える。戦争によって公用語から外され、使用を禁じられた言語だ。つまり数世紀どころではない、もっとずっと過去のものということになる。当然、私より後に生まれたことになる妹が、この映画の意味を解することなどできるはずもない。

「面白いか?」

 言いながら、私は妹の隣の席に腰を下ろした。よく見ると妹の手足は、鋼鉄製の枷により固定されていた。これでは途中退席もままならないだろう。

「つまらないよ」

 と妹は短く云った。

「思わず狂ってしまいそうだ……ただ情報を受け取るだけならばまだ良いんだ。問題はこの情報が映画という形を取る以上、どうしても物語という流れの構造を踏まえざるを得ないということだ。自らの貴重な人生の時間を、つまらない物語に換えていく行為……なるほどこれは極刑だ。死ぬよりも辛い」

 云って、妹は諦めたように目を閉じる。

「それで、兄様はどうしてメガロバニア監獄に?」

「……お前は、魂魄を劈開できるというのは本当か」

「できる」

 端的な返答だった。「但し、そこから魂魄を如何するという域にはまだ達していないよ。兄様の考えているようなことはだから、できない」

「私の考えが分かるのか」

「分かるよ。兄弟だからね。だから兄様の映画も完成しない」

 云って、そしてこう続けた。

「ここ――メガロバニア監獄の建造理念を知っている?」

 不意に現れたその問いに、私は困惑することしかできない。兄のその無様な様子から回答の出ないことを察したのか、妹は勝手に話を続ける。

「メガロバニア監獄には窓がないんだ。だから朝が訪れない。永久の暗闇のなかで、ただ刑が終わることを待つしかできない」

 永久の夜――常闇。

 それこそが、メガロバニア監獄の建造理念なんだよ、と。

 妹は吐き捨てるように云う。

「だからこその、誇大妄想狂――刑が終わるまでここは、夢のなかなのさ」

 もっとも、私の刑が終わることはないけれどね――と。

 妹はそう、私のほうには目もくれずに、棄てるようにして云った。

「しかし、それでは困るのだよ」

 私は諦めずに言葉を連ねる。「なんとしても、私は映画を完成させなくてはならない。あれは私の悲願なのだ。あれがなくては生きている意味がない。あれが完成しないと死ねない」

「魂魄の劈開、ねえ――」

 妹は唾棄するように言って、私のほうをふり返る。

「兄様はひょっとして、罪の意義を誤解していないのかな」

「罪の意義?」

 私は鸚鵡並みの返事で返す。何だ。何が云いたい。

「罪が何故在るか」妹はスクリーンを睥睨して云う。「兄様はどうやら、知らないみたいだね」

「何が云いたい」

「何故罪を犯してはならないのか、だよ。その解答こそが、私が犯し、そして背負う罪の名だ」

「魂魄の劈開がお前の罪だろう」

「違うよ兄様。そんなもの、どうして罪になるって云うんだ」

 人を一人や二人、開いたところで、どうして罪になるのか。

 妹の言葉に私は閉口せざるを得ない。意味が判らない。

けれどなんだか不愉快だ。不気味で、無理解だ。

そんな私の心情を示すかのように、スクリーンに投影される映像は切り替わった。幾多の脳髄が水槽のなかで犇めいている。整備された施設のようではない。乱雑に散らかっている、薄汚い部屋のなかで、水槽はあまりにも適当に放置されている。今にきっと、あの脳髄は死亡するだろう。

「文明の暁鐘はなんだと思う? 兄様」

 と、妹が口ずさむように訊いた。

「ぎょうしょう?」訊き返すと、妹は、

「夜明けを告げる鐘の音のことだよ。そんなことも知らないのか」ときつく言い返す。

「そうだな……言語か?」

 尋ねた瞬間、映像内の脳髄がひとつ、不正解を告げるかのように破裂した。

 ぱしゃ、と液体が私のほうにまで飛んでくる。奇妙にも生暖かく、それでいて少し粘性を持つ液体だ。私は酷く嫌な気分になった。

「金か」と云う。しかしこれも外れているようで、またもや脳髄が破裂した。

「阿呆だね、兄様は」

 妹はケラケラと嗤う。

「では何なんだ」

「罪だ」

 妹は云った。

 脳髄は、破裂しなかった。

 映像が切り替わる。

 眼球。

「文明の祖とは――罪の概念だ」

 その声音は、あまりにも正確に私の耳小骨を刺激した。

「罪の概念があるがゆえに、人は言葉を、あるいは金を、あるいは愛を、あるいは心を、あるいは祈りを、あるいは土地を、あるいは家を、あるいは武器を、あるいは糸を、あるいは聖域を、あるいは神を、あるいは偶像を、あるいは――朝を。そして夜を副次的に作り上げた」

「意味が判らない」

「当然だよ、兄様。兄様にはきっと分からない。分かることは永久にない――だって兄様は今、メガロバニア監獄のなかにいるんだから。罪という概念に内包されているのだから」

「どういうことだ」

「私は罪を造った」

 妹は端的に云った。

 それですべてが、腑に落ちた。

 納得した気がした。

 許せる気がした。

 私は苦く笑って、そして力なく肩を落として、そしてスクリーンのほうを、映画のことをもう一度見つめる。

山岳を登っていく箱。

稜線をなぞるレール。

箱のなかでは男と少年が、戦後の将来について語り合っている。

「……ここだけなんだ」

 妹は不意にそう云った。

 反射的に私は、妹の横顔を見る。スクリーンに反射して、白く光る横顔。柔らかな頬の稜線をそのとき、一滴の涙が伝った。

「この映画は至極つまらない。ご都合主義で、展開もありきたり。おそらく数十億年、数千億人が繰り返したであろう、似通っていて、大抵の場合は意味のない時間のなかで、しかしこのシーンだけが唯一、美しい」

 男は少年の肩を抱いて、自らのほうに寄せる。そして箱の外、遠く彼方の飛行機雲のことを指さした。男が何かを語る。少年は目を閉じて数度うなずき、そして男のほうを見る。男も少年のことを見る。目が合う。

「……妹よ」

 私はようやく、絞り出した最後の質問を口にした。

「私はいったい、いつから『こう』なのだ?」

「生まれたときから」

 妹は初めて、私のことをきちんと見る。

「そして、死ぬまで」

 そうか。

 私は絶望的なまでの安堵を覚えて、思わず項垂れた。

 映画を撮り、それを発信することによって、どうにかし得ようとしていた、形容しがたい何物かを私は今、手にしてしまった。生存の意味に到達した。これ以上は無い。そう感じた。

「邪魔をしたな」

 と私は座席を離れる。妹は「うん」と言って、それだけだった。

「左様なら」とも「またね」とも云わなかった。

 私は入口に倒れている首無しシスターを背負って、廊下に出、突き当りの蛇腹式扉を強引に開いて、エレベーターのなかに乗り込む。階数を示す半円形の盤が音を立てる。

「…………あ…あ………あ……れ……?」

「目が覚めたか」

「私は何を……というか、あなた様。魂魄の劈開法は分かったのですか」

「必要無くなった」

 私は正直に云った。

「すべきことは妹が示してくれた。そう――彼女こそが、暁鐘だ」

 その言葉に首無しシスターは首を傾げた。しかし私は其処に理解が必要であるとは思えなかったので、何も云わないでいることにした。そういうことは案外多い。この世界のすべてを理解しようなど、人間の浅ましい傲慢さによるものだ。どれほどの複雑怪奇が跳梁跋扈していたところで、それらをすべて把握する必要などないのだ。

 私は私を知っている。

 それ以外には何も知らない。

 ひとまず、再定義の必要があると考えた。問題のシーン68も撮り直すべきだろう。何も知らぬ赤子を純心と捉える心こそが間違いだったのだ。無知である状態を純なるものと捉える行為は、数多の絵画よりも無地の白紙のほうが美しいと礼賛する行為に等しい。そしてそれは歓迎されるべき事象ではなく、むしろ忌避されるべきものであるはずだ。

 エレベーターは段々と上昇していく。湖畔から浮かび上がる太陽のように――鮮烈な輝きと、始まりの為の祝福を伴って。

「これでよかったのですか」

 首無しシスターはそう云って、私のことを覗き込む。

 私は静かにうなずいた。

そして思い付きを口にする。

「ひょっとして――君の頭は、ボスカなんじゃないのかい?」

 訊くと、首無しシスターの首の切断面から、幼子の手が浮かび上がってきた。下手な泳ぎでもするかのように、首の肉をかき分けて、とうとう顔まで現れる。

 首からひょっこりと飛び出した、シスターの首回りよりも少し小さいくらいの胎児の顔は私を見るや否や、正確な発音で、シスターの声で云った。

「いいえ。違いますよ、あなた様」

 呆然と立ち尽くす私は、それ以上の言葉を発音できない。

「違う?」

「そう」

 彼女は首を振ってそれを否定し、そして口ずさむように云う。

 違うのか?

 触れたと思った真相の影が、実は砂の塔に過ぎなかったことに、私は愕然としそうになる。

 ではお前は何なのだ、と私は訊いた。

 そうですねえ、と首無しシスターの赤子は端的に私を睥睨する。

 そして云った。


 私はあなたの、

        新しい罪。







 翌日。

 私はかねてより念願の映画の作成に成功した。

 新しい胎児を手に入れたからだった。

                                  (了)

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