お隣さんのカレーには謎という名のスパイスがかかっている
モグラノ
マッサマンカレー
第1話 しあわせの香り
しあわせな香りがある。
それはいったいどんな匂いだろう。太陽の光をたくさん浴びたお布団みたいに温かな香り。ふわっと柔らかく包んでくれる柔軟剤のような優しい香り。ライチみたいに爽やかでいて、ローズのように華やかな香りかもしれない。
それとも、人によっては芳しく香るカレーの匂いだとでも言うだろうか。だけど私はまったくそうだと思わない。
だって大葉。カレーが嫌いだから。
髪に匂いがつくのがイヤ。服にシミがつくのもイヤ。味もずっと単調だし、色だって地味でカワイクない。辛いのだって苦手だ。それに何より太るもの。だから私はずっとカレーを避けて生きてきたのだった。
トントントン、と包丁の音。
パチパチジッ、が油の弾ける音。
クツクツクツ、柔らかく煮こむ音?
ふんわりと、スパイシーな香りが漂ってくる。カレーの匂いだ。キッチンからこぼれる音がようやく静かになってきた。あとはグツグツと煮込むだけになったのかな。
その時を待っていた私はほっぺたをむにむにと指で持ちあげ、柔らかくニコッと笑みを作る準備をした。いまがチャンスだとばかり、マウスをクリックする。
──ポン。
ええと、はじめまして、
そう。じつは大葉、ぼっちなんですよ。彼氏が欲しいとはもちろん思いますけどね。ただいま募集中でーす。
「なあ」
キッチンからくぐもった声が聞こえてくるけれど、聞こえないふりをして続けた。にこり、と武装した笑みは崩さない。飛びきりの笑顔を見せつけるのだ。
もういっそコメントで募集しちゃおうかなあ。なんてね、ふふ。そんな感じのただの女子大生なんですけど。大葉、じつはこう見えてもね。ちょっと凄いんですよ。推理ができちゃうんです。皆さんの周りのどんな謎も、たちまちこの女子大生探偵が解決しちゃいますからね。お任せください。
聞こえないふりを続けているとくぐもった声の主はキッチンから身を乗り出し、こちらをそっと覗いてきた。
「なあ、大葉くん。差し出がましいようだが、その設定はちょっと無理があるんじゃなかろうか」
設定とか言わないでほしい。
「やかましいですよ、先輩。黙ってアクでもすくっておいて下さい」
私の部屋でカレーを作っているこの男、
そんなひとがどうして私の部屋で料理しているのかというと少しややこしい話になるのだけれど、先輩のカレーがどうしても必要だったのだ。
私が生きるために。
先輩はその手にお玉を握りしめ、およそカレーを作るのには似つかわしくない格好をしていた。どうして白衣なのだろう。
妙なことが気になったせいか、変な顔をしていたかもしれない。凝り固まった笑顔を揉みしだく。はあ、とため息をついてから停止ボタンをクリックした。
──ポン。
ノートパソコンについているカメラの録画が止まったのを確認し、まだ部屋を覗いてくる先輩の方へ顔を向けた。さっきよりも、1オクターブほど低い声で話す。
「もう、先輩。ジャマしないでくださいよ。いま大葉、You Tubeにあげるための動画を撮ってるんですから」
「いや、でもな。嘘は良くないと思うぞ」
お玉でひとを指してくる。
「なんですか、嘘って」
「まず、大葉くん。きみは彼氏の募集なんてしていないだろう。ついこの間、彼氏に振られたばかりではないか。そしてきみはまだそのことを引きずっている」
う、いきなり痛い所を突いてくる。思わず口がツンと尖った。
「いいんですよ。そう言った方がコメントも増えるんだって、ネットに書いてあったんですから」
「いたいけな視聴者を騙そうとするんじゃあない。きみは知らないだろうが、男ってのはな。三回目が合えば、相手は自分に気があるんじゃないかと勘違いしてしまうそんな悲しい生き物なんだからな」
うっかり笑ってしまった。先輩があんまりにも真剣な表情で言うものだから。
「そんな事あるわけないじゃないですか」
少なくとも私の周りの男連中はそんな事はまったくなかった。中学生じゃないんだから、たかが目を合わせたくらいで。
くすくすと笑う。
それを言う先輩の目を覗き込むと露骨に視線をそらされてしまった。そう言えば、先輩とあまり目があった覚えがないな。
「先輩、もしかして──」
「一般論だ、一般論」
やっぱり視線は合わないまま。どこを向いているのかわからないけど先輩は言う。
「それにだ、大葉くん。きみに探偵なんてものができるのだろうか」
ぐるっと視線を回す。視線は合わさない癖に、乙女の部屋は遠慮なく見るらしい。
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