月と子猫とガスマスク

せなね

月と子猫とガスマスク


 塾の帰り道、ふと夜空を見上げると、そこには大きな満月があった。

 普段は月なんて気にも留めないのに、その日は何故か、この見事な満月をじっくり眺めてみたいと思った。

 どこかにいい場所はないものかと辺りを見回すと、すぐ側に小さな公園があるのに気がつく。僕は園内に入り、ブランコの近くにあったベンチに腰かけた。そうして改めて空を見上げると、今宵の満月は格別に大きく、そして美しかった。

 十五夜という言葉を思い出す。そういえば、今日は中秋の名月と呼ばれる日だったか。それならば、月がこんなにも美しいのも頷ける。僕は知らぬ内に笑みを浮かべていた。


 ━━━にゃん


 猫の鳴き声がした。

 いつの間に寄ってきたのだろう。僕のすぐ側に、小さな一匹の黒い子猫がいた。

 大人の掌ほどのサイズしかない小さな子猫だった。首輪は見当たらないから捨て猫なのだろう。にゃあにゃあと鳴きながら、僕の腕にしきりに身体を擦り付けてくる。

 軽く頭を撫でてやった。

 すると、子猫は目を瞑り、気持ちよくてたまらないと言わんばかりにお腹を見せてくねくねし始めた。

 これはいけない。可愛すぎる。

 子猫のお腹は白いフサフサの毛で満たされていた。そこをわちゃわちゃしてやると、すごく幸せな気分になれた。子猫も幸せそうである。僕は夢中になってわちゃわちゃしていたのだが━━


 ━━━シュコー、シュコー


 という、酸素ボンベみたいな異音を耳にし、動きを止めた。

 「何、今の?」

 辺りを見回して見る。滑り台とブランコがあるだけの小さな公園に、僕以外の姿は見当たらない。周りの住宅から聞こえるボイラーの音だろうか? いや、ボイラーにしては何だか変だったし、音はすぐ側から聞こえたような気がするのだが・・。

 そこまで考えて、僕は恐る恐る後ろを見やった。そこにはブロッコリーを巨大化したような植物が生えている。何という名前か知らないが、どこの公園でもよく見かけるやつだ。

 僕はゆっくりと立ち上がり、植物の裏を覗き見た。すると、


 ━━━シュコー、シュコー


 特殊部隊が付けるようなゴツいガスマスクを付けた『何か』が、しゃがんだ姿勢で僕のことを見つめていた。

 「ひぃぃぃ!」

 僕はベンチにあった荷物と子猫を掴み取ると、猛ダッシュでその場から逃げ出した。

 「何? 何なの、あれ!?」

 切迫した声を出す僕とは裏腹に、子猫は「にゃあ〜」と気の抜けた声を出していた。



          ※


 

 あまりにもびっくりし過ぎたせいで、つい子猫を家に連れて帰ってしまった。

 腕の中でにゃんにゃん鳴いている子猫を宥めながら、僕は玄関の前で途方に暮れていた。

 (どうしようかな・・)

 このまま放すという選択肢は、もはや僕の中には無かった。

 保健所に捕まってしまう危険があるし、何よりあの公園に戻って欲しくなかったのだ。


 ━━━シュコー、シュコー


 アイツの、あの酸素ボンベみたいな呼吸音(?)を思い出す。あんな変質者が出没する公園に、こんなか弱い子猫を捨て置ける訳が無い。

 (土下座でも何でもして、何とか飼うことを許して貰おう)

 そう覚悟を決め、僕は玄関のドアを開けた。



 「かわいい」

 「かわいすぎる」

 「かわいい〜」

 「たべちゃいたい」

 結論から言うと、ウチの家族は軒並み子猫にノックアウトされてしまった。

 飼う飼わないという議論すらなく、まるで最初から家族の一員であったかのように、子猫はすんなりと我が家の飼い猫に収まった。

 「あー、可愛い。可愛すぎる。明日の朝ごはんはこの子にしよ。そうする。絶対する」

 特に二つ上の姉の可愛いがり方は尋常ではなく、ことあるごとに子猫のお腹に顔を埋めては訳の分からないことを口走っていた。一つ下の妹はそんな姉の頭を引っ叩いて無理矢理子猫を強奪し、壮絶な姉妹喧嘩の火蓋が切って落とされる━━それが、我が家の新しい日課となりつつあった。

 「返せ! その子は私のご飯なんだから!」

 「うるさいメンヘラ! 死ね!!」

 元々良好とは言えなかった姉と妹の仲が更に悪くなったこと以外、特に何事もなく日々は過ぎていったのだが━━


 ある日、夜中に玄関のチャイムが鳴った。


 応対に出たのは母さんだった。

 母さんは五分ほど相手と何事かを話した後、戸惑った表情で居間に戻ってきた。

 「何かあったの?」

 僕がそう訊くと、母さんは小首を傾げ、

 「それがね・・今の警察の人だったんだけど、変な人がウチを覗いていたっていうのよ」

 「変な人?」

 パトロール中、不審者がこの家を覗こうとしているのを警察が見つけたらしい。

 「その変な人は逃げちゃったらしいんだけど、その人ね━━」



 「大きなガスマスクを付けていたんですって」


 

 ガスマスクと聞いた瞬間、背筋にぞくりとしたものが走った。

 アイツだ。

 公園で見た不審者。アイツが、僕を追いかけてきたんだ。

 相手にはガスマスクという大きな特徴がある。別人の可能性はほぼゼロだろう。

 どうして家がバレたのか? そして、何故僕を追いかけてきたのだろうか?

 満月を背に、チェンソーをブォンブォン鳴らしながら仁王立ちするガスマスクの姿を幻視する。狙った獲物をチェンソーの錆びにするまで、アイツは追いかけることを決してやめない━━

 僕が自分の妄想に恐怖し、思わず目を瞑った時だった。


 ━━━にゃあん。


 と、気の抜けるような鳴き声がした。

 目を開けると、そこにねこすけがいた。

 数時間に及ぶ壮絶な家族会議の末、子猫の名前はねこすけと決まったのだ。

 軽く頭を撫でてやると、ねこすけは僕を見上げてもう一度、にゃあんと鳴いた。


 ━━━大丈夫だから安心しろ。


 そう言われたような気がした。

 僕はねこすけに微笑み返す。この子が家族になって本当に良かったと、心の底からそう思えた。

 「何? 不審者がウチの周りをチョロチョロしてんの?」

 一方、母さんから話を聞いた姉さんは、何故か目を輝かせてそう言った。そして、

 「ソイツ、ウチの敷地内に入って来ないかな? 私、いっぺん人の頭を金属バットで思い切り殴ってみたかったのよね」

 と言って、ひひひと笑った。

 そんな姉さんを母さんは呆れたように見つめ、妹は異常者を見る目で見つめていた。

 「・・・まじきもい」

 妹の呟きに応えるように、ねこすけがにゃあんと鳴いた。



          ※



 翌日から、僕は外出する際よくよく注意するようになった。

 常に周囲を警戒し、人気のない所には入らないようにする。ガスマスクの襲撃を警戒してのことだった。

 幸い、家の周りは警察が巡回を強化してくれているし、何かあった際の緊急の連絡先も教えてくれた。

 ただ、ガスマスクの話を、僕はいまだに誰にも話していなかった。

 悪手というのは分かっているけれど、何故だか僕は、アレの話を誰かにする気になれなかったのだ。・・・本当に、どうしてか分からないけれど。


 そうして、ねこすけを拾ってから一週間が経過した。


 その間、ガスマスクが僕の前に現れることはなく、一応は穏やかな日々が続いていた。

 しかし、ある日の塾の帰り道、


 ━━━くちゅん


 帰宅の途中、後ろから女の子のくしゃみが聞こえてきた。

 軽く二の腕をさする。少し前まで半袖で充分だったのに、いつの間にか肌寒さを感じる季節になっていた。僕も風邪には気をつけないとな、と思っていると、


 ━━━くちゅん、くちゅん


 と、連続してくしゃみが聞こえた。さっきと同じ人だ。


 ━━━くちゅん、くちゅん


 よほど調子が悪いのか、声が近づくに連れ、くしゃみの回数がどんどん増えていく。


 ━━━くちゅん、くちゅん


 「・・・」


 ━━━くちゅん、くちゅん


 「・・・」


 ━━━くちゅん、くちゅん

 

 おかしくないか、と思った。

 すぐ後ろにいるであろう女の子は、僕とつかず離れずの距離を保ちながら、ずっとついてきている。わざと歩く速度を落としてみたが、相手は追い越すことなく、ピッタリと僕の後をついてきた。

 僕は立ち止まって後ろを見やる。・・・そこには誰もいなかった。


 と思ったが、よくよく見ると何かがいた。


 「・・・」

 何のつもりか知らないが、街灯の影から半身をのぞかせた女の子が、じっと僕の方を見つめていた。

 よく知っている人だった。

 「・・・七瀬さん?」

 それは、僕のクラスメイトである七瀬さんという女子だった。

 僕が名前を呼ぶと、七瀬さんはかくんと頭を下げ、「くちゅん」と、大きなくしゃみをした。

 「こんな所で何してるの? 僕に何か用?」

 僕は七瀬さんに近づき、声をかけた。

 と、同時に、心の中で首を傾げていた。

 確か、七瀬さんは僕の住んでいる地区とは反対方向の地区に住んでいる筈だ。特別の用事でも無い限り、この辺りを彷徨いている筈はないのだが・・。

 「・・・」

 七瀬さんは何も言わず、柱の影で僕のことをじーっと見つめている。その目は赤く、うっすら涙が滲んでいた。泣いている?と思ったが、それにしては様子がへんだった。七瀬さんは悲しんでいるというより、


 悔しがっている。


 そんな気がした。

 僕はますます訳が分からなくなって頬を掻いた。七瀬さんは相変わらず無言だし、僕もこれ以上何と言ったらいいか分からない。時間だけが無駄に過ぎていく。

 「・・・あの、何もないんだったら、僕帰るね。ちょっと急いでいるから」

 夜遅くなるのはイヤだし、何より僕にはガスマスクの件がある。七瀬さんがどういうつもりなのか知らないが、とりあえず今日の所は帰らせてもらうことにした。僕は七瀬さんに背を向けたのだが━━


 「待って」


 すぐに服を掴まれてしまった。

 振り向くと、思ってたよりも近くに七瀬さんの顔があって、僕は不覚にもドキリとしてしまった。

 慌てて目を逸らす。

 とにかく照れくさかったし、そして何より、僕が心の奥底に秘めている気持ちを彼女に気付かれてしまうのが怖かったから━━


 「くちゅん」


 というようなことを考えていると、七瀬さんのくしゃみの飛沫が、僕の顔面へモロに直撃した。

 「・・・」

 僕は何事も無かったことにして、静かに自分の顔をハンカチで拭った。

 「・・・ご、ごめんね」

 七瀬さんは顔を真っ赤にして俯いている。

 「わ、私、ちょっと風邪気味なの。だから、ごめんね。本当にわざとじゃな・・くちゅん!」

 言い終わる間もなく、七瀬さんはまたくしゃみをした。そして、袖口でごしごしと目を擦った。七瀬さんは風邪気味と言っていたが、これはまるで━━

 「あ、あのね、今日はね、小林くんにどうしても一言言ってやりたい・・じゃなかった。どうしても、伝えておきたいことがあって・・」

 中間の不穏な一言が無ければドギマギしていた所だが、僕は黙って七瀬さんの言葉の続きを待った。

 「こ、小林くん!」

 七瀬さんは目を瞑り、スカートを両手でぎゅっと握り締めながら、こう言った。



 「わ、私が、実は霊感があるって言ったら、信じてくれる?」



          ※



 以前、僕はたまたま他の女子が七瀬さんの悪口を言っているのを耳にしたことがある。

 「あの人、ホントあざといよね〜」

 「わかる。『私ぃ、幽霊見えるのぉ〜』とか言ってそう」

 「きゃははは」

 それを聞いて、僕は憤りと悲しみを同時に覚えた。

 七瀬さんは幽霊が見えるとか、そういう安易な媚びに走るような人じゃない。というか、人に媚びるを売るような人じゃないんだ。この人たちは七瀬さんのことを何も分かっていない。あの人はただ━━そう、何というか、存在自体があざとい人なのだ。

 僕は、そう思っていたのだけれど━━

 「・・・」

 「ねぇ、何で私をかわいそうな人を見る目で見てるの?」

 「・・・いや、そういう訳じゃなくて・・えっと、その、七瀬さんって、霊感とか、そういうのがある人なんだね。そっか、そっか・・うん」

 「何かものすっごく悪意を感じるんですけど? 私、せっかく小林くんを助けてあげようと思って話しかけたのに、そんな扱いするなんてひどくない?」

 七瀬さんは不服そうな顔で僕を見上げた。

 それを聞いて、はてと思った。

 助ける? 助けるとは、一体どういうことなのだろう?

 僕が尋ねると、七瀬さんは、

 「だって、小林くん━━」


 「ガスマスクを付けた変なやつに狙われてるでしょ?」


 と言った。

 その言葉を耳にした瞬間、僕は思わず息を呑んだ。

 ガスマスクの変なやつ。

 僕はその話を誰にもしていないのに、どうして彼女はアレのことを知っているのだろうか。

 「だから、それは私に霊感があるからだよ。私にはね、ここ数日、小林くんの肩にガスマスクをかぶった悪霊が取り憑いているのが視えてたの」

 「・・・悪霊」

 アレは、この世のものでは無かったのか。

 「確かに、夜中の公園で木の影にしゃがみ込んでシュコーシュコー言いながら男子高校生を見ているような奴なんて悪霊以外考えられないよね。そんな変態がいるわけがない」

 僕が一人で頷いていると、

 「ガ、ガスマスクは、別に、その、小林くんのことを見ていた訳じゃない、から・・」

 何故か、急に七瀬さんが弱々しくなった。

 「え、そうなの? じゃあ、ガスマスクは一体何を見ていたの?」

 「そ、それは・・小林くんじゃなくて、子猫を見ていたんだよ」

 「え、どうしてあの場に猫がいたこと知ってるの?」

 「そ、それは霊感があるから・・」

 「霊感でそんなことまで分かるんだ?」

 「わ、分かるよ、それくらい。霊感があれば大体のことは分かるから・・」

 「・・・ふぅん」

 「・・・」

 「・・・」

 「と、とにかく! 私は小林くんがガスマスクの悪霊に取り憑かれているのを見て、助けてあげようって思ってここまで来たの! 分かった!?」

 「・・・うん、まあ・・うん、分かった」

 「うん、が多い! そんな態度取るなら助けてあげないよ!!」

 七瀬さんは腕をぶんぶん振り回し始めた。そういうことをするから、ぶりっ子だなんだのと陰口を叩かれるんだよなぁ・・。

 「分かったよ、ごめんて。・・・それで? 助けてくれるって、具体的にどうしてくれるの?」

 「えっと、ね。・・・いい方法があるんだ。ちょっと、耳貸して」

 またあざといことを・・と思ったけど、僕は大人しく七瀬さんに耳を近づけた。

 「明日の夜に━━」


 七瀬さんが教えてくれた『いい方法』とやらは、色々な意味でめんどくさいものだった。



          ※


 

 翌日の夜。

 僕は七瀬さんに指示された通り、公園のベンチに『お供え物』を入れたダンボール箱を置いた。なんでもその『お供え物』を一時間ほどガスマスクの好きにさせれば、僕はガスマスクから解放されるらしい。

 「『設置完了』っと・・」

 七瀬さんの携帯にメールを入れる。どういう必要性があるのか分からないが、『お供え物』を設置したら七瀬さんにメールを入れるよう厳命されているのだ。

 彼女からの返事は、数秒で返って来た。

 『了解。じゃ、小林くんは一旦撤収して、一時間後に『お供え物』を回収しに来てね』

 「『はい』っと・・」

 僕はメールを打ち、ため息を吐いた。

 先日の会話を思い出す。

 『なんでそんなことしなくちゃいけないのか全く分からないけど、それでガスマスクは成仏するんだよね?』

 『あー、それはちょっと浅はかな考えだね、小林くん』

 『と、言いますと?』

 『ガスマスクはとってもしつこい悪霊なの。だから、これからは月に一回、いや週に一回・・やっぱり、三日に一回くらいかなぁ〜『お供え物』をして、慰めてあげないとダメなんだよね』

 『・・・はぁ、そうなんですか』

 僕は、なんかもうめんどくさかったので、後はもう適当にハイハイと頷いておいた。 


 で、今に至る。


 僕はガスマスクが隠れていた例のブロッコリーみたいな植物の後ろに隠れていた。中腰しんどいから早くしてくれないかなぁと思っていると、


 ━━━シュコー、シュコー


 という音をさせて、ガスマスクが公園の入り口から堂々と入って来た。

 僕は頭が痛くなった。

 この人、警察にマークされてるの知らないのかな? 地域の不審者情報に普通に登録されてるんだけど・・。

 (誰かに通報されたら死ぬほどめんどくさいことになるな・・)

 まあ、そうならないよう神に祈るしかない。

 僕の心配とは裏腹に、ガスマスクはスキップしながらダンボール箱に近寄ってきた。


 ━━━シュコー、シュコー


 手をわちゃわちゃさせながら、ガスマスクはゆっくりとダンボール箱を開ける。

 その中には、


 ━━━にゃん


 ねこすけが入っていた。

 それを見た瞬間、ガスマスクはもう辛抱たまらんと言わんばかりに乱暴にねこすけを抱え上げ、これでもかと言わんばかりに撫でに撫で回した。


 ━━━シュコー、シュコー、シュコー、シュコー、シュコー、シュコー


 シュコーがすごいことになっている。面白いからこのまましばらく見ていたかったが、誰かに通報されたらたまったものではないので、僕はゆっくりと立ち上がった。

 ガスマスクは、ねこすけに夢中で僕に気づいていない。

 僕はその肩に手を置いた。


 「にゃああああああああ!!」


 ガスマスクが悲鳴を上げる。

 驚いた時に、『にゃああ!!』って叫ぶ人間って実在するんだなと思いながら、僕はその人の名前を呼んだ。


 「何やってんの、七瀬さん」



         ※


 

 七瀬さんは正座をし、神妙な顔で俯いている。

 「・・・どうしてバレたの?」

 「逆に聞きたいんだけど、どうしてバレないと思ったの?」

 「・・・やっぱり三日に一回って欲張ったのがダメだったのかなぁ・・」

 「いや、そこじゃない。どこがダメかって言ったら全部だから。全部ダメ。そもそも子猫をガスマスクのお供え物にしろとか意味分からんでしょ」

 「そうかなぁ・・いいアイデアだと思ったんだけどなぁ・・」

 本気でわかっていない様子の七瀬さんを見て、この人はこれから先の人生をちゃんと生きていけるのだろうかと心配になっていると、


 ━━━にゃん


 まあまあ許してあげなよ、と言わんばかりに、ねこすけが僕の方へ身体を寄せてきた。

 それを見て、七瀬さんはだらしなく顔を弛緩させ、ねこすけを抱き上げようとした。

 「ダメ。おあずけ。反省会が終わるまで、お触りは禁止だよ」

 僕がねこすけを取り上げながらそう言うと、七瀬さんはあざとく頬を膨らませた。そんな顔をしてもダメです。

 「一つずつ解決していこう。そもそも、このガスマスクは何なの?」

 僕は手に持ったゴツいガスマスクを七瀬さんに突きつけた。

 「・・・私、重度の猫アレルギーなの」

 ガスマスクをつけていたのはそのためらしい。しかし、ここまでゴツいものをつける必要があるのだろうか? 

 「これくらいゴツい奴じゃないと、貫通してくるんだよ・・」

 「そこまで重症なら、そもそも猫に触らないほうがいいんじゃないかなぁ・・」

 「それは出来ない相談だね! 私は、何が何でも、絶対に味噌おでんと遊びたいの!!」

 「何? 味噌おでんって・・」

 知らない単語が急に出て来た。

 「この子の名前だよ」

 どうやら七瀬さんは、ねこすけに勝手に名前をつけていたらしい。しかし、それにしても何故に味噌おでんなのだろうか? 気にはなったが、聞いたところで論理的な答えが返ってくるとは思えないのでスルーする。

 「あと七瀬さん、ガスマスクつけてウチを覗いていたよね?」

 七瀬さんはびくりと身体を震わせた。あからさまに目を逸らす。

 「その・・私、どうしても味噌おでんのことが諦められなくて・・」

 「あれ警察沙汰になったからね? それと、お巡りさんに見つかった時、よく逃げ切れたね? どうやったの?」

 「死ぬ気で走った。捕まったら人生終わると思ったから」

 その辺の分別はつくんだ、とだいぶ失礼なことを考えてしまった。

 「い、言っとくけど、私、味噌おでんを盗もうとした訳じゃないからね! ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、触らせてもらおうと思って・・」

 「なら、僕にそう言えばよかったじゃないか? 何で悪霊だのお供え物だの変な嘘ついたの? 普通に会わせてあげたのに・・」

 「だ、だって・・」

 う〜、と七瀬さんはあざとい唸り声をあげ始めた。

 僕はため息を吐き、続ける。

 「そこまでねこすけ・・味噌おでんのことが好きなら、七瀬さんが飼う? うちの家族説得するの大変そうだけど、七瀬さんがどうしてもっていうなら考えるよ?」

 「・・・それはダメだよ」

 七瀬さんの家族は、全員が重度の猫アレルギー持ちらしい。だから、猫を飼うなんて論外なのだそうだ。

 「味噌おでんを最初に見つけたのは私だけど、私じゃどうやっても飼ってあげられなかったから・・。正直に言うとね、私、小林くんが味噌おでんを拾ってくれてホッとしてるの。最初は、私が先に見つけたのに〜ってなったけど」

 電柱の影から僕を恨めしそうに見てたのは、そういうことかと納得した。

 「・・・事情は分かったよ。意味わからないけど分かった。じゃあ、七瀬さん。これからは味噌おでんと遊びたくなったら、僕の家に遊びに来ればいいよ。ちゃんとガスマスクを持ってね」

 僕がそう言うと、何故か七瀬さんはムスーっとした表情をした。

 「ねえ、小林くん。キミは私のこと、何だと思ってるの?」

 あざとい人、と言いかけて慌てて口を閉じた。

 「え? 何って言われても・・」

 「私、女の子なんですけど」

 「はぁ」

 それはもちろん、分かっているけれども。



 「はぁ、じゃないよ! はぁ、じゃ! 私、女の子なんだよ? いくら味噌おでんに会うためだからって、男の子の家に一人で行けるわけないじゃん!」



 七瀬さんからそう指摘され、僕は一気に血の気が引いた。・・・やばい。僕は、何ということを言ってしまったのだろう。

 「・・・あの、ごめんなさい。本当に、そんなつもりじゃなくてですね・・」

 僕は冷や汗をかきながら弁明する。

 どうにかこの地獄のような空気から脱却しなければ、と頭を働かせていると、僕はふと、あることに気付いた。

 「・・・七瀬さんって、※※の方に住んでるよね?」

 僕はこの場所から大分離れた住宅街の名前を口にした。

 「それなのに、何でこの公園にいた味噌おでんを見つけられたの?」

 今度は、七瀬さんの顔が青くなる番だった。

 「そ、それは・・」

 「それは?」

 「言いたくない」

 「・・・」

 「・・・」

 「ガスマスク」

 「え?」

 「警察。不審者。通報」

 「・・・! 〜っ、う〜!!!」

 遠回しに脅しをかけてやると、七瀬さんは顔を真っ赤にして地団駄を踏み始めた。そして、涙目で僕をキッと睨みつけると、大きな声でこう言った。



 「小林くんの家を見に行った帰りに見つけたの!!!!」



 「・・・」

 僕は、予想外の七瀬さんの返答にすっかり言葉を奪われてしまった。えっ、それって━━

 「・・・う〜」

 七瀬さんは、今まで見たことがないほど真っ赤な顔で頭を掻きむしってる。

 僕もきっと、彼女と同じくらい顔を真っ赤にしているに違いない。

 僕の足元で、味噌おでん━━ねこすけが、心底どうでもよさそうなさそうな声で、にゃあと鳴いた。



                  <了>

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月と子猫とガスマスク せなね @senane

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