あいにくの晴れだった

 青川邸を後にした私は、エントランスを出てからたった数歩の場所でぴたりと足が止まってしまっていた。

 もう昼前と言って差し支えない時間だ。当直明けの専攻医の貴重な時間を、私はこんなにも浪費させてしまったらしい。空は晴れているが、住宅街の狭い路地には巨大な影が落ちていた。


 青川丞の矜恃であり、同時に弱さの象徴とも呼べる、あの金色のトロフィー。青川の妹が出してくれた、二食分のサンドイッチとホットティー。それを挟んで向かい合っていた、午前の異質な空間。

 彼はかつて一瞬のみを同じ空間で過ごした、完全無欠の優等生だった。そんな男による静謐せいひつな罪の告白を前に、失礼ながら──本当に失礼ながら、私の意識はひどく散漫としていた。



 聡明な少年であった青川丞は、高校一年生の当時、周囲の状況を俯瞰して捉えていた。──もちろん、田舎の閉鎖空間における自分自身の影響力にも、気が付かないわけがなかった。


 天才。秀才。美形。冷静。青川病院の御曹司。イケメン。バグ。超人。規格外。人間CPU。観賞用。不可侵領域。校内偏差値の破壊神。一周まわらなくてもド変態。


 そのようなタグ付けがなされ、記号化され、好奇の目を向けられていたことにも。

 自らの意志と無関係に、『青川丞』の名が、友人・住吉周真を傷付ける道具にされていたことにも。

 気付いて、気付かないふりをしていた。


 高校生ブランドの裏側で起こっていた、陰湿な運動。その根源たる社会的構造に察しが付きつつも、結果として、青川少年が取り立てて何らかのアクションを起こすことはなかった。

 自分が下手に動けば、かえって火に油を注ぐ結果になるのではないか。そのような慎重な判断の上ではあったが、今にしてみれば、自分は群衆の圧力に恐れをなして逃げただけではなかったか、と。



 そこでは、一人の同年代の男──アラサー男性の若き日の後悔が、至極まっとうに語られていた。


 日本最難関の医学部へ進んで、勉学に勤しみ、みごと医師国家試験に合格。現在は医療現場に身を置きつつ、専攻医として専門的な実務を学ぶ日々を送る。

 将来的には、勤務医として十分な経験を積み、祖父から父へと家督が引き継がれたように、自身もその流れを継承するのかもしれない。

 途中、ゲーム廃人寸前という影の時代を挟みつつも、凡人どもが軒並みひれ伏すような成功者の道を歩んできた彼。


 そんな彼にも『青春時代の心残りに立ち返ってしまう』という、この年代にありがちな現象が平等に起こっているのかと思うと、なんだかとても不思議な心地になる。


 不思議というか、ずっと、心に穴が空いたかのように空虚だった。真剣に聞いているつもりでも、体の中を通り抜けていくみたいに、彼の言葉で感情が動かされることがない。


 ただ、空洞の中に、じっとりとした私自身の罪の意識が、重たく沈殿していた。



 前から歩いてきた近隣住民らしき女性が、不審そうに私の表情をうかがってきた。はっとして、『私は怪しい者ではありません』と言い訳をするように足を進める。


 早く行かなくちゃ。

 どこへ?

 自宅に帰ろう。

 この空虚を抱えて?

 何の整理もついていないのに。


 結局、また足が止まってしまった。

 雨でも降ってくれていれば良かったのに、あいにくの晴れ。


 天から私を断罪するはずだった裁きの神が、あろうことか雲の上から降りてきて、地に足を付けてしまった。


「私もまた、後悔を抱えている弱い人間なんですよ」


 殊勝な顔をしてそんなことを語ってきたら──逃げ場所なんかあるわけがない。

 自らの罪を自覚させられた直後に、私は、糾弾される機会を取り上げられてしまったのだ。


「マユさん!」


 背後から呼ばれた気がした。私はついに幻聴まで聴こえるようになったのか。


「マユさん、マユさんってば」


 ゆっくりと振り返ると、そこには秋物のガウンコートを羽織った女が立っていた。

 栗色の髪がふわりと風になびく。

 その透明な美しい顔立ちを見ても、今は、胸が黒く染まってゆく感覚がするだけだった。


「これ、忘れ物です。……大事な人からの贈りものなんでしょ?」


 青川夜風に差し出されたのは白い紙袋だった。

 絶対に、忘れてはならないはずのもの。

 それなのに、私はどうして忘れてきてしまったんだろう。


──未冬がくれたものなのに。


 それを受け取った瞬間、私は嗚咽を抑えることができなかった。

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