病葉 3

阿賀沢 周子

第1話

 2015年 9月

 真由が、待ち合わせ場所の時計台ビルに近づくと、地下へ降りる階段の前に健吾がいた。カフェやケーキ屋の旗がはためく中で、ズボンのポケットに両手を入れて所在投げに立っている。前々の猫背が、さらに丸くなっているような気がした。年齢的に見ても背が高いほうだったのに、縮んだように迫力がなくなっていた。

 その覇気がない姿を見て、会うのをやめようかと思ったほどだ。それでも、雪子のことで、健吾から聞き正したいことがあったので、近くへ寄って声をかけた。

「お久し振りです。中で待ってくれてもよかったのに。今日はあまり長居はできないので要件を済ませましょ」

切り口上にならないように気をつけたが、どうしてもきつい口調になってしまう。

 2人は階段を降り、左手のカフェ"珈琲艦"へはいって、一番奥に席をとった。

 頼んだ飲み物がくるまで、話は始まらなかった。健吾の前に”今日のおすすめ”というコーヒーが置かれ、真由はグレープフルーツジュースだった。昔からカフェイン過敏症で午後はコーヒーなどは飲まないことにしていた。

「あまり時間がないので、聞きたいことがあったら言ってみて。答えられるかどうかはわからないけど」

かつて”あけぼの”へ買い物に来ていた頃の真由と比べて、どしっとした貫禄があった。もう15年経ったのだ。

「どうしてこうなったのかと」

「何言ってるの。雪ちゃんの家のこと知っていたでしょ」

「知っているって、大滝さんから”田舎家”で聞いたことぐらいしか知らないです。3人でドライブしたり、映画を観たりっていうのが2,3回でしたよね。その時も楽しもうとするばかりでそんな話はしなかった。そのあと2人で会うようになってもいつも家庭の話は避けてたから、深くは知らないままだった」

 言い訳がましいと自覚しながら言わずにはいられないようだったが、あまりに知らないと強調するのが怪しげにも思える。真由自身、3人で会っている時は故意にその話題を避けていた。雪子を楽しませるために会うのに家の話などするはずがなかったが、2人が真由抜きで会うようになり、親しさを増せば心のうちはおのずと開いたのでないか。

「2005年に移動販売をやめて、店舗には5年いたかな。そっちを退職してからは雪子には会っていませんし。最後に会ったのは5年前です」

 健吾が”雪子”と呼び捨てにするのを初めて聞いた。逢っていないと言いながら、まるで恋人か何かのようではないか、と真由の不信は募る。

「神村さん。こんなこと聞きにくいけれど、関係はあったのでしょう? 喧嘩でもして別れたの?」



 椅子mの公演を見に行った日、ロカビリー一色に飾り付けられたバル”月の雫”で、二人で何度もツイストを踊っているうちに、真由の硬さが取れ、隔たりが消えた。真由には話していないが、あの日の帰りバルを出た時、琴似界隈の夜景を背にエレベーターを待つ間、二人は短い接吻をした。それは関係の始まりだった。

 




”あけぼの”の成功は、開店とほぼ同時に移動販売を始めたのが幸いしたといえる。小型トラックで高級住宅街を中心に移動販売をしていたのは、2005年の夏の終わりまでだ。

 移動販売で西区中心に店の名を広め、品質の良さを証明する、という役割は終了した。自然食品ブームや健康志向ブームが定着し、店舗の収入が安定したからだ。

 健吾は、53歳の時移動販売を止め、店舗へ出勤するようになった。主な仕入れや業者との付き合いは友人がしており、経理は友人の妻と公認会計士。自分が開拓した業者とのやり取りしか仕事がない。店の棚ざらえや補充などにも手を出したが、健吾がしなくても回るようになっていた。健吾の居場所も出番も少な過ぎた。

「ずっと移動販売で大変だったのですから、少しゆっくりしてください」

 友人の妻の口当たりの良い勧めがあり、長めの休暇を取ろうか悩んだが、ずるずると出勤し続けた。休むとますます自分の居場所がなくなる気がしていた。

食べていくためには給料が必要だった。この年の春、祐が大学を卒業した時、別居していた妻と正式に離婚した。長い仕送り生活は終わったが、蓄えは全くなかった。

 仕事らしい仕事がない日は、居心地の悪さにストレスがたまり、部屋へ帰ってから酒に手が行くようになった。それでも生活のために出勤し続けた。飲酒以外、唯一のストレス解消は雪子と会うことだった。

 夫が不在の連絡は、3人で会っているうちは真由経由だったのが、ある時から雪子から直接健吾の携帯へ入るようになった。真由の仕業だろう。二人の打ち解けた様子に気を使ったのか、不義への誘導なのか、なにがしかの意図があったのは間違いない。

 しかし会う回数は多くはなかった。道職員の夫、孝一が出世するにしたがって、泊りがけの出張がだんだん減って、ますます間隔が広くなっていた。



2010年 11月

 最後に雪子に会ったのは健吾があけぼのを正式に退職した日だ。


 急な退職だった。共同経営者だった友人ともめたのが原因だ。わけは簡単なことだ。健吾を通して品物を仕入れているある会社との会議に、深酒で起きれず参加できなかった。その会社から店舗へ連絡が入り、電話で起こされた。会議は友人が何とか参加してくれていたが、友人の我慢の限界はぎりぎりの所にあった。


 すでに数年前から、店舗での健吾の存在そのものを酒が危うくしていた。遅刻が常習化して、午後出勤が当たり前になっていた。客に酒臭いと言われると暫く店舗へ出なくなり、倉庫で何かをしている。身だしなみのだらしなさに友人が冗談交じりに「床屋へ行ってくれ、入浴してくれ」と懇願したこともあった。注意を向けていると、しばらくはまともに働くし、身だしなみも普通になったが、いつの間にか無神経な働きぶりに戻っていく。共同経営者だというだけでそんな働き方が許されていた。


 その日健吾は店の奥の休憩室で「仕事を続けたかったら酒をやめろ」と友人に迫られた。2人向かい合って休憩室の椅子に座り、珍しく友人は腕組みをし、若い頃からの親友の、酒に焼けた顔を見ている。健吾は足を組み同じように腕を組んでいる。まだ友人への甘えが残っており高をくくっていた。

「寝坊しただけじゃないか。酒はここで働く限りやめれるか」

 理不尽な言い分に友人の堪忍袋の緒が切れた。が、押し問答にもならず「酒をやめないなら退職してくれ。もう出勤しなくていい。一か月後正式退職という形にしておく。不満があるならどこへでも訴えてくれ」と用意したかのような最後通告が言い渡された。友人は部屋から出て行った。

 休憩室に座ったまま、組んだ足をおろし膝に両手を置いた。少し酒が抜けた頭で考える。とうとう来たかと思った。いつかこうなると思っていた。

 どうしてこうなったか、友人が甘くてこうなったのでははない。甘いのは自分で、作り上げたあけぼのの中に自分の居場所を見つけられなかった。まともなやり方で仕事に打ち込めば、道が開けたのか。友人に嫉妬したし家庭を壊した罪悪感もある。いちばんの原因は自分のふがいなさ、優柔不断、自業自得だ。そこまで考えて、健吾は頭を使うことに飽きた。何を考え思いつめようが、もう終わったのだ。自分が友人の立場でも同じことをしただろう。


 形は円満退職だ。わずかな退職金ももらった。58歳の退職は会社員なら普通だったが、自営業には退職制度はないに等しい。

 以来、雪子と会う日だけは前日から調整して酒量を減らしていたが、店へ出なくなって、健吾の酒は底が無くなっていった。そんな中雪子から連絡が来た。


「私と一緒に暮らしてください。お酒止めるお手伝いをします」

 12月に入ってすぐの初雪の予報が出ていたその日、孝一は出張で東京へ行っていた。2人は”珈琲艦”で会っていた。健吾が仕事をやめたのも、離婚したのも知っている。自分のことはあまり話さないが、健吾が電話口でぽつぽつ漏らす話で境遇ははわかっていた。

「一緒に暮らす」という言葉はこの時初めて出た。一度のキス、手をつなぐ程度の触れ合いしかないが、互いが必要だということは痛いほど分かっていた。二人でいるだけで心がほぐれ、安心感に包まれる。

 雪子は健吾がこのまま壊れていくのを見ていられない。健吾も孝一の傍に雪子を放置しておくわけにはいかないとは思っている。酒で頭に幕が張ったような状態でも「なんとかしないと」という焦りが常にあった。そんな中で雪子は一度だけ孝一について話をしたことがある。



 高井夫婦は、北3条通り公園のマンションへ越してくる前に、旭川に住んでいた。孝一は仕事柄、定時に出勤して提示に帰宅する。神経質で潔癖症。家へ帰ると指を桟などへ滑らし掃除の仕具合を確かめる。納得するまでっ飛び出ているところすべてをこする。少しでも指が白くなったら、鬼の首でも取ったように喜ぶ。雪子は掃除をし直す。毎日がそれの繰り返しだった。

 旭川の職員住宅は、昔の造りで二つの和室があり窓には障子がついている。掃除をして指で確かめると指にとげが刺さることがある。夫の指にとげが刺さるとそれも雪子のせいになる。大げさに痛がって障子を裂き破り、子供のようにとげを抜いてくれと体を寄せてくる。

 サンライズマンションに越してきてからも何も変わらない。障子はないが、全室フロァー張りの継ぎ目の溝が問題だった。白い綿棒で溝をこすり、少しでも黒くなると床掃除のやり直し。

 それだけのことだが、毎日毎日、それに対応しなければならない。気の休まる日はない。神経質な男と結婚した運命だとあきらめている。子供を持たなかったのが幸いだ。

 暴力を振るわれた方がよかったかもしれない。すぐに行動を起こせるから。そう言って雪子の話は終わった。

「真由さんに会うまで、自分がハラスメントを受けているという自覚はなかったんです。彼女に『それはおかしい、そんなの夫婦じゃない』って言われて『そうなんだ』と。自分の両親は普通の人たちです。神経の細かい人だから仕方ないって親も言うし。私から夫に何か言うなんてとんでもないことなんです」

「それで、椅子mの子と話した時、あんな風だったんですか」

 掃除の丁寧さなど一切気にしない自分には、そういう男の存在は想像がつかないことだった。なぜそうまでして妻を虐げ追い詰めるのか。

 その時の話はそこで終わった。孝一から逃げたいと思っているなど、一言も出なかった。


「一緒に暮らす」ということは、つまり孝一から逃げるということだ。初めての具体的な意思表示といえる。確かに雪子と暮らせば、酒をやめて生活を変えられるかもしれない。一縷の望み。

 二人はカフェを出て北二条通りへ出た。手をつないで西へ歩く。藻岩山に雪雲がかかり北西風が冷たい。雪催いで空はどんよりしている。健吾は寒くて雪子に近づき肩を抱く。雪子も健吾の腰に手を回す。ぴったりとくっつくと幾分暖かい。

 植物園へ出るころには長く歩いて身体が温まってきていた。北三条通公園近くに着くころには、フワフワと漂う軽くて小さな雪が降りてきた。

「初雪ね」と雪子がポケットから右手を出す。掌に降りる雪は間もなく消える。三岸幸太郎美術館を過ぎ、暗黙の裡に二人は健吾のアパートへ向かっていた。

「汚いところですけど、暖かいですよ」


 




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病葉 3 阿賀沢 周子 @asoh

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